あまたの言葉が行き交うターミナル。
 人並みが吸い込まれ、吐き出され。
 その中を歩く一人の男を幾つもの視線が追う。それは羨望だったり、嫉妬だったり。
 それら全て跳ね返し、彼は喧騒の中に消えていった。




ポラロイドの恋




 それはいつかの原風景。車の両側を流れていく緑と青。
 ハンドルを握って、アクセルを踏み込んで、彼は前方に見え始めた三角屋根に、少しだけその瞳を細めた。

 静かに佇むその家を暫く眺めてから、玄関のノブに掛けた手が止まり、その眉間に深い皺が刻まれる。持っていた鍵はそのままに、扉は鈍い音と共に奥へと開いた。
 何もかも変わらない。
 あの日、目の前から消えてしまったその人と一緒に、ここの時間も止まったはず。それなのに、今そこには確かに人の空気が在った。
 ゆっくりと室内を見回す。耳に残っているのは、瞼が憶えているのは、遠い遠い記憶。
 笑っていた。
 あの人も、自分も――――
 いつまでも続くと思っていた風景は、冷たい雨に色を失くし音を無くして、そして…止まった。

 部屋を横切ってテラスへ出ると、秋の空気が彼を取り巻いた。
 強くない陽射し、微かに聞こえる鳥の囀り。静かに目を閉じて大きく息を吸い込んでから、思いがけず気付いた事実に、彼は苦く笑った。
 そして、ここへ来るまですっかり忘れてしまっていた、それを胸ポケットから取り出す。小さな火が灯って次いで細く立ち上る紫煙を、見るとはなしに追いかけていた彼の耳に、不意に笑い声が届いた。

「ふぇ〜重て…あー腹ヘ…た……」
 その途端、時が止まった。
 向かい合って、互いに瞳を逸らす事無くただ黙って。
 それが長かったのか、短かったのか。先に口を開いたのは部屋へ入ってきた彼の方だった。
「煙草…落ちるよ」
 持っていた荷物を降ろし、灰皿を差し出す。それを素直に受け取って、ほとんど吸わずに短くなってしまったそれを押し消した。
「え…と、もしかして…玄奘三蔵…さん?」
 幼さの残る声音が己の名を呼ぶ。それに返事をする事も無く、三蔵はその煌めく黄金の瞳に魅入っていた。
「あの…玄奘さん?」
 再び名を呼ばれ、漸く彼の視線がその瞳から離れる。
「誰だお前。何故、ここに居る」
 低いテノールに少年の顔が微かに強張り、けれど一瞬でそれが打ち消えた。
「俺は悟空。えーと、観音のおば…姉ちゃんから別荘番を頼まれた。もう直ぐ甥が来るからって、貴方の事だよな玄奘さん」
 悟空と名乗った少年は、くるくるとその表情を変えながら三蔵に話し掛けた。
「玄奘さんは、外国じゃ有名なカメラマンだって姉ちゃん言ってたけど、やっぱここへは撮影に来たの?どんな写真撮るんだ?動物とか花とか、俺この辺の綺麗なトコ知ってるから案内しようか?」
 一方的な会話を続けながら、運んできた荷物をテキパキと片付け始めて、悟空はやっと三蔵が一言も口を利かない事に気付きその手を止めた。
「あの…ごめん。俺…勝手に一人で…」
 伺うような悟空の視線。が、不思議と不快感は感じず、三蔵はまた一本煙草を咥えた。
「別に…仕事で来たわけじゃねえ」
 呟くような返事に、悟空はにっこりと笑った。
「そっか。ここはのんびりできるモンな」
 その楽しそうな声に、三蔵の瞳が無意識に細くなる。
「玄奘さんの部屋は掃除しといたから、ベッドの布団もふかふかだよ。晩飯は俺が作るけど、なんか食べたいモンある?」
 首を傾げて聞いてくる仕草に目を奪われそうになりながら、
「喰えるんだろうな」
 と、口の端をあげれば、悟空は怒る素振りも無く、
「毎日、喰ってる俺がこんなにぴんぴんしってから、多分平気じゃねえ」
 その屈託の無い笑顔に、三蔵はあっさりと毒気を抜かれた。



□ □ □


「お前、ババアとどんな関係だ」
 食事が済んで、寛ぐ自分の元へマグカップを二つ持って現れた悟空に、今日初めて三蔵は自分から声を掛けた。
「ババアって観音の姉ちゃんの事?…んと俺さ、孤児なんだ。で、学費とか面倒見てもらってる」
 内容とは裏腹に、にぱりと笑う悟空に僅かに呆れ、
「あのババアが慈善事業か。世も末だな」
 皮肉を込めて呟けば、目の前の少年は困ったように、ポリポリと鼻の頭を掻いた。
「玄奘さんはさ」
「三蔵だ」
「え?」
 言葉を繋ごうとした悟空を制し、
「玄奘じゃねえ、三蔵だ」
「えと、三蔵…さん?」
 その途端ギロリと睨まれ、悟空はひくりと肩を揺らした。
「さ、三蔵…は、何で写真家になった、の?」
 強張った表情のまま、上目遣いに三蔵を見上げる。
「…父親から誕生日にカメラを貰ったからだ」
 ここに、三蔵の人となりを知る者が居たら、間違いなく驚いた事だろう。
 三蔵の人嫌いは、業界ではかなり有名な事実だ。それを証拠に、今までの仕事で、彼が人物を被写体に選ぶ事は、ただの一度も無かったのだから。
 話しかけても返ってくるのは「ああ」とか「そうか」などの単語ばかりで、自ら話しかけるなどそれはもう奇跡に近かった。
 そして、こんな風に話をする事に一番驚いているのは、他でもない三蔵自身だった。
「貰ったカメラで、毎年同じ風景を撮っている」
「そっか、三蔵はお父さんの事が大好きなんだね」
 悟空の言葉に思わず声が詰まった。あの人の事を、こんなに穏やかに思い出すのは初めてだった。物心が付いた頃には既に母親は無く、男手一つで自分を育ててくれた父。
 どんなに忙しくても、自分の誕生日だけは一緒に祝ってくれた父。
 プレゼントされたカメラで、最初に撮ったのは優しく笑う父の姿だった。
 あの日、土砂降りの雨の中で起こった、多重事故の犠牲となった父。
 それ以来、三蔵の写真に人物が写る事は無くなった。
 共に過した土地を離れ、異郷の地で暮らしながら一年に一度、自分の誕生日に合わせてこの地を訪れては、一枚の写真を撮る。そこに居るべき人の姿は無いけれど。
 父を失ってもカメラだけは捨てる事が出来なかった。それが自分とあの人を繋ぐ、唯一のものだから。
 父の顔を思い出しながら、三蔵の中で何かが変わろうとしていた。


「三蔵!起きてよ、朝飯冷めちゃうって」
 それは去年までとは打って変わった、喧騒の朝だった。
 上掛けに包まる三蔵の身体を揺すり、耳元に響くその声に、うんざりしたように瞼を押し上げ睨み付ける。
「片付かないから、起きてメシ喰ってよ」
 ベッドの脇に仁王立ちするのは悟空、初日に三蔵が見せた睨みは、三日目にしてその効力を失っていた。
 不機嫌も露に身を起こし、ベッドサイドの煙草に手を伸ばしたが、悟空の方が一歩早くそれを取り上げた。
「何しやがるバカ猿が」
「煙草はメシ喰ってからにしろよな。大体、三蔵は吸い過ぎだ」
 びしりと人差し指を立てた悟空に、眉間の皺を増やしたところで、それは既に効き目が無い。三蔵が渋々ベッドから降りると、
「顔洗って、早く降りてきてな」
 にっこりと笑って部屋を出て行く。手に持った煙草はそのまま、エプロンのポケットに仕舞われた。
 悟空は実際、よく動いていた。洗濯から掃除や食事まで、歳の割りになんでもそつなくこなしていく。
 何故かと聞けば、ホームには中学までしか居なかったから、自分でやるクセが付いたと。さらりと言ってのけ、
「やってみると、料理も洗濯も意外と楽しいんだぜ。三蔵もしてみる?」
 そんな風に言って三蔵の渋面を誘っては、コロコロと笑っていた。

 晩秋の澄んだ空気の中、三蔵は何をするでもなく煙草を咥えて過ごしていた。
 街から遠く離れたここは、三蔵の意向もあってテレビも置いていない。この家にいる間は新聞も読まないので、おおよそ文明からは、かけ離れた生活が続く。(ガスや電気は通っているが)
 聞こえるのは自然の音。
 空気の流れ、風のにおい。昼間は鳥が歌をうたい、夜は星が降る。
 毎日を淀んだ空の下で過ごし、濁ってしまった全身の細胞が、少しずつ浄化され。時間が穏やかに流れて、何に追われることも無く、自分が思った事を思った時にする。
 そして、今年は自分以外の存在。
 不思議とそれが不快ではないのだ。確かに一人で過す時と違って、食事から何から全て悟空がしてくれている事はかなり便利ではあるが、必要以上に人との接触を避ける三蔵にとって、その人懐っこさは煩わしいという部類に入る。
 それが、である。何故かこの少年(実際に歳を聞けば少年とは言いがたいのだが)が、自分に向ける言葉も眼差しも、気に障る事がない。むしろ、心地よさまで感じるのだ。
 悟空と話していると、素直に自分の感情を出せるような気がした。怜悧な仮面を被らず、肩肘を張らず、けれど全力で相手をする。
「あんな、素性の知れねえ猿に…」
 呟いた先に悟空の背中。洗濯したシーツを抱えて、手際よくそれを干していく。
 自分の伯母の世話になっているという以外、三蔵は悟空の事を何も聞こうとはしなかった。他人に対して無関心だから。という事もあるが、目の前の悟空が何者であっても、自分の態度は変わらないという確信が、三蔵の中には確かに存在していたのだ。
 そしてそれはゆっくりと、けれど確実に彼の心の中に想いという形となって大きくなっていった。

「三蔵!なぁなぁ昼飯、何喰いたい?」
 テラスで煙草を吹かす三蔵の元へ、太陽が駆け寄って来る。
「別に、お前の好きなモンでいい」
「いっつもそれじゃん。たまには三蔵の好きなモン作るから、な!何が好い?」
 猿っつうより、犬だな。などと思いながら、三蔵は目の前の期待に満ちた金瞳を見つめ、それから何かを思いついた様にその口角を上げた。
「何でもいいのか」
「いいよ」
 問い掛けに即答で返した悟空に、三蔵はもう一度念押ししてから、
「お前」
 あっさりと言い放った。
「お、れ?」
「何でもいいんだろう」
 揶揄う様に片頬を上げた三蔵に、しかし悟空は困惑したように首を傾げた。
「えと…俺、喰うの」
 その顔から悟空が、言葉の意味を全く理解していないらしい事を察し、三蔵は苦く笑った。
「何でもいい、お前の作ったモンなら」
 結局、それ以上は何も言えずに椅子から立ち上がり、悟空を残して自室へ戻っていった。その背を見送りながら、未だ言葉の意味を考えていた悟空は、
「俺を喰いたいって、三蔵変な事言う……」
 だが次の瞬間、ボンっと音がしそうなほどその顔が朱に染まる。
「喰いたいって…その、そう…いう、イミ…」
 外から吹き込む風に火照った頬を撫でられ、悟空はただ三蔵の消えた扉を眺めていた。



□ □ □



 自分でもどうかしていると、思わずにはいられなかった。
 無意識に、悟空を追う瞳。気がついて、逸らして、でも気になって…
 そんな自分をはぐらかすかの様に、三蔵はここへ来てから初めてカメラを手に取った。
 レンズを外し、小さなパーツまで丁寧に汚れを拭き取っていく。そんな三蔵の手元を、いつからか悟空がじっと見つめていた。
「おもしろいか」
「うん」
「そうか…」
 そんな会話をして、また黙々と手入れを続ける。悟空はただ、それに見入っていた。

「おい…」
 不意に身体が傾いで、悟空の頭がカメラに向かっていく。寸でで受け止めると、三蔵は呆れたようなため息を吐いた。
「寝てやがる」
 静かに呼吸を繰り返す、歳よりもずっと幼く見える悟空の寝顔。無防備に全てを預けてしまっている。
 普段の自分ならけして許さないその行為に、叩き起こす事も出来ず寝顔に釘付けになった。そして、ゆっくりと三蔵の指がまろい頬を辿る。
 柔らかくて暖かいその感触に、心臓が大きく跳ねたような気がした。
「おい、起きろ…悟空」
 また、鼓動が大きくなった。呼んだ名前は心の奥に、小さな火を灯した。三蔵本人も気付かない小さな光を…。
「悟空、起きろ…襲うぞ」
 物騒な言葉と共に指先ではなく、掌で頬を包み込む。ふっと悟空が顔をほころばせた。
「起きねえ、お前が…悪いんだからな」
 口唇が額に触れる。
 瞼を撫でる。
 頬を辿る。
 そして、ゆっくりと桃色のそれに重なった。
 一度離れて、今度は啄ばむように繰り返し口付ける。
「……ふぁ」
 何度目かに三蔵の口唇が離れた時、悟空が小さな吐息を零した。その途端、
「……俺は…」
 自分は今、何をしていた。
 急激に冷めていく頭とは反対に、悟空を抱く腕に力が入る。
「俺は…」
 今確かに、欲しいと思った。この存在を…欲望の対象として。
「馬鹿な…」
「さん、ぞ?」
 搾り出すように吐き出した三蔵の言葉に、悟空の瞼が震えて開いた。自分を見つめるのは、蕩けるような蜂蜜色の瞳。吸い寄せられそうになったのを、逸らす事で抑え、
「バカ面して、寝てんじゃねえよ。眠いなら部屋行け」
「あ…うん」
 生返事を返して腕から抜け出す悟空と、視線を合わせずに三蔵は、無造作に髪を掻き上げて煙草を咥えた。
「あの…俺、寝る…ね……おやすみ」
「ああ」
 最後まで悟空の顔を見る事がなかった三蔵は、その大きな瞳が悲しげに伏せられたのに気付く事はなかった。

 翌朝、いつもと変わりなく自分を起こしに来た悟空に、何故か三蔵は安堵していた。
 自分のあの醜態を、悟空が知っている訳はない。それならば、何も無かったのだ。と、そう振舞えばいい。そうして、同じ一日が始まる。
 二人で食事をして、話をして、笑って。
 冷たい空気にさらされて、透明な青を見せる空を二人で眺め、落ち葉を踏みしめて歩く。
 胡桃色の髪と大きな金瞳を、柔らかい陽光に煌かせて笑う悟空。
 三蔵は静かにファインダーを覗き、シャッターを切った。


「元気でね三蔵。また…会えると、いい…な」
 荷物を積み込んだ車の横に、いつもより元気の無い顔。
 そんな顔をされたら…
 三蔵は、くつりと嗤った。
「涌いてんな…」
「え?何」
 微かな音を聞きつけ、悟空の顔が上がる。
「何でもねえ」
 短くなった煙草を踏み消して、三蔵は踵を返した。
「さ、三蔵!」
 その背中に届く悟空の声に、足を止めて半身を返す。
「あの…俺…俺、楽しかった!」
 思わず飲み込んだ悟空の本当の言葉を、三蔵は知る由もなかった。



 ターミナルに差し込む西日が、辺りを金色に染める。三蔵の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、尚眩い金の瞳。
 けして寒いわけではなかったけれど、コートの襟を少しだけ高くして、彼は立ち上がった。
「玄奘三蔵さん。ですね」
 背後に聞こえた柔らかな物腰に振り返えれば、長身の穏やかな笑顔の青年。
「少しお時間をいただけますか?」
 そう言って彼は一枚の名詞を三蔵に差し出した。
 記された名を見て、
「芸能人のマネージャーが、俺に何の用だ」
 その低い声に臆する事無く、彼八戒は口を開いた。
「僕の担当するタレントの、写真集が発売される事になりました。その撮影を、貴方にお願いしたいのですが」
 本人のたっての希望なんです。
 そう続けた三日月眉の青年を、三蔵は鬱陶しそうにねめつけ、
「ジャリタレの写真なんぞ、撮る気はねえ」
 あからさまな拒絶の表情を貼り付け、身を翻して歩き出した。
「本人が来てます。一度逢ってはいただけませんか」
 その声に被って微かに聞こえた声に、三蔵の足が止まった。

――――三蔵…

 そんなはずはないと思いながら振り返って、そして、紫暗の瞳がすっと細くなった。
「…悟空」
「貴方に…本当の俺を…撮って、ほしい。ダメ?」
 目深に被った帽子の奥に、見覚えのある蜂蜜色。
「全部、ババアの差し金か」
「ううん、観音の姉ちゃんに無理言ったのは俺。どうしても、三蔵に逢ってみたかったんだ」
 怒ってる?上目遣いに見上げ、首を傾げる。その仕草に、三蔵が片眉を上げ、
「条件がある」
 そう切り出して、にやりと笑った。
「撮影は、俺とお前の二人だけだ。それが飲めねえのなら、この話しはチャラだな」
 そう告げられて見開かれた金瞳が、次の瞬間、ふわりと綻んだ。
「契約、成立」
 とん、と地を蹴って広い胸に飛び込んだ。
「場所は、解ってるな」
「うん…俺ね、三蔵に、言いたい事が…あるんだ」
「いくらでも聞いてやる。時間はたっぷり、有るからな」


 さあ、はじめよう…二人の恋を
 はじめよう二人が出逢った場所から

 それは――――
 キスからはじまる…ポラロイドの恋



花淋さま/Reincanation


 花淋さまのサイト「Reincanation」の2周年記念フリー小説です。速攻、奪取してまいりました。
 こういう風に何気なく自然に惹かれあっていくのもいいですよねー。この続き、気になりますわ。いえ、「二人っきりで撮影」というのではなく(笑……正直に言いますとそれも気になりますが)、二人の進展が。
 花淋さま、ステキな小説をありがとうございました。