誰かの為にとは…

 応える事――――



月齢:七の月


 強くない陽射しが風を暖めて、その頬と金の髪を揺らした。
 ふと見上げた先に珠玉の光。
 そうして彼は思う…
 
 また、季節が巡る――――

 昏い雨に閉ざされた中で、天に射した一条の光。
 触れた小さなその手はひどく暖かくて…いつしか、手放せなくなった。


「今年の誕生日はどうしましょうか」
 何気ない会話の、この一言だけが彼の中に残って。
「出発を延ばす…」
 告げた先の、少しだけ驚いたような翡翠の瞳が、何を言い返すことも無くふわりと笑んだ。

「え?明後日」
「ええ、出発は明後日です。今日はのんびりして、夕食は美味しいものでも食べましょうね。悟空の誕生日ですから」
「う、ん…」
 ぎこちないその表情に、八戒も苦く笑う。今までの事を思えば、それも無理からぬ事。何しろ、少年の保護者は面倒くさいイベント事には、何一つ興味を示さないのだから。
「あの…三蔵が、そう…言ったんだよ、な」
「そうですよ。そんなに心配しなくても、あの人が一度言い出した事を、何があっても曲げない事は、悟空が一番良く解ってるでしょう」
「ぅん…うん!」
 漸く悟空の顔に笑顔が浮かんだ。
「な、な、何食べてもいい?」
「いいですよ」
「ヤリィ!」
 パタパタと見えない尻尾を振りまいて、嬉しそうに食べ物の名前を挙げだす悟空を、八戒は穏やかに見つめていた。



『ごめん…三蔵』
『あれは、お前が悪い訳じゃねえ』
 途切れた記憶、痛みの残る身体。
 八戒も悟浄も多くは語らなかったけれど、自分を見る人々の目を見て察しがついた。
『一番の被害者は、悟空なんですよ』
 気遣ってくれる仲間を心配させたくなくて、普段と変わりなく悟浄と暴れ、空腹を訴え…でも、三蔵は何も言わなかった。
 それが辛くて、いっそ「バカ猿」とハリセンの一発や二発でも、喰らわせてくれた方が余程マシだった。
 怒るわけでもなく、ただじっと自分を見つめてくる紫暗。
 あの日から、三蔵は一度も名前を呼んではくれない。

 黄昏に染まり始めた空を見上げ、それよりも遠い二人の距離に、悟空は顔を歪めた。


 己の手を、法衣を濡らしていく生暖かい赤。
 遠いあの日のように、命の灯火が消えていくのを、何も出来ずに眺めていた。否、その瞳には、何も映ってはいなかった。
 「怒り」という感情一つに突き動かされて姿の無い標的を追い続け、我を取り戻した時には全てが終わっていた。
 横たわる白い顔は何一つ覚えてはおらず、自分もまた何も語る事はしなかった。
 悟空の顔から笑顔が消えたのは、その日からだ…

 小さな背中は、声も上げずに泣いていた。

「三蔵…」
 己の名を呼んだその顔に隠しきれない不安の色。
「少し…付き合え」
 そして三蔵は、返事も待たずに歩き出した。


「あれ、悟浄一人ですか?あの二人は」
 部屋へ戻った八戒の前、逆に座った椅子の背に腕と顎を乗せて、ただ一人赤髪の青年はぽかりと紫煙を吐き出した。
「おデート。とでも、申しましょうか」
 咥え煙草で笑うその顔は、揶揄いではなく安堵に近い。
 あの一件以来の二人を、悟浄だって心配していたのだ。その絆の深さを信じてはいても。
「あん時の三蔵は…見ちゃいられなかったからよ」
「そうですね」
 自分たちを前にして、己を取り繕う事もできずにいた金の最高僧。
「もし、あの時、悟空を失っていたら…」
「旅は終わってた…だろうな」
 それは恐らく確信。
 八戒がたまらず苦笑いを零す。
「昔よぉ、こんな話を聞いたぜ」
 悟浄は一つ伸びをして言葉を続けた。
「人の一生ってのは、旅である。旅の目的は、己の半身を探す事。そして、命を全うする前に半身を見つけた者は、何にも挫けない強さを得る事が出来る。んだとよ」
「だとすると、三蔵は見つけたって事になるんでしょうね」
「確かにな」
「でも、何にも負けない強さ。って、諸刃の剣ですよね」
 半身を失えば、絶望に飲み込まれる。
「だからよ、あいつは必死んなって壁作ってたじゃねえか」
 
 少年の想いに気付かぬフリをして。
 
 自分の想いに蓋をして。
 
「だけど、そうやって三蔵が一生懸命作った壁を、悟空はひとっ跳びで乗り越えちゃったんですよね」
「やっぱ、猿だよなぁ」
 この場に居ない仲間をネタにひとしきり笑い合ってから、
「今日の食事は、キャンセルですね」
「…だな」
 胸の奥につかえていたモノが、漸く落ちたような気がした。



 前を行く三蔵の背を、ただ黙って追いかけた。三蔵が何を考えているのか、悟空には解らなかったけれど、自分が付いていくのはあの背中だけなのだと思った。
 彼の人は進む事を止めはしない。ならば、自分は付いて行くだけ、追いかけるだけ。
 けれどもし、三蔵がそれを拒んだら?
 ぞくりと背筋を戦慄が走る、その時だった。
「着いたぞ」
「え?…あ」
 深い紫の空の下、淡い桃色と微かな香り。天を目指す桜の大樹が、静かに二人を迎えた。
「…凄、い」
 それっきり言葉が出ない。枝を広げた巨木は、そこだけがまるで異世界のように、光源の乏しい月夜で尚、光り輝いていた。
 悟空は桜を見上げ、桜はざわんと花を揺らす。
「俺…ずっと、三蔵を…呼んでたんだよ」
 金の瞳が彼を見つめた。
「暴れだした身体を、どうしても自分じゃ止められなくて…訳も解んなくなって、だから…三蔵を呼んだ」
 三蔵は何も答えない。
「俺が俺で無くなった時は、殺してくれるって言っただろ…だから一生懸命、三蔵を呼んだ」
 やはり三蔵は無言で、けれどゆっくりとその腕が細い身体を抱き寄せた。
「さん、ぞぉ…」
 抱きしめられているのに、悟空を取り巻く不安は消えない。こんなにも近くに、三蔵を感じているのに。
 そして、少年の望む事はたった一つ。

 名前を呼んで――――

 抱きしめた身体は温かいのに、己の心を覆いつくす昏い翳が消えない。気を抜けばするりと手の内から零れてしまいそうで…そして、繋ぎとめておく方法はただ一つ。


「悟空」


 燈された一つの言霊が、二人の闇を融かす。

「さんぞぉ」
「悟空…」
「さん、ぞ…三蔵、三蔵っ!」
「悟空」
 心が繋がる。
 お互いが求めていたものを与え合って、再び二人の刻(とき)が動き出した。

「悟空…お前がこうして、ここに生きている事を…大地に感謝、しよう」
「三蔵ぉ」
 深い口付けの後、三蔵が久しぶりに見るのは、頬を薄紅色に染めた悟空の笑顔。
「他に…欲しいモンは、あるか」
 抱きしめる腕を緩める事無く、頭上で囁かれた言葉に、
「来年も…二人で桜、見てくれる?」
「ああ…」
「あと…」
 止まってしまった声を、髪を梳く事で促す。
「今夜は…二人だけで、居たい」
 その告白に僅かに眼を瞠り、それから三蔵は悟空の耳元に口唇を寄せた。
「一晩中、寝られねえぞ」
 そのまま甘く耳朶を食む。
「んっ……い、いよ」
 腕の中で跳ねた身体を満足げに眺めて、ゆっくりと歩き出す。絡めた指はそのままで。
 
 桜の園から寄り添って現実へ戻り、喧騒の中に消えて往く二人の姿に、花霞の月は何も語らぬまま、大樹の影を長く豊かな大地へと伸ばしていた。


花淋さま/Reincarnation


花淋さまのところから悟空のお誕生日記念フリー小説をいただいてきました。
ゼロサム、最近なんだかタイヘンですね。
こんな風に平穏を取り戻してくれるといいな、と思います。