そのヒカリは…

 あまりにも眩しすぎて、手を伸ばしても届かなくて…

 遠ざかってしまうばかりで――――

 生命は…

 太陽がなければ、生きてはいけないのに。



紫 陽 花 慕 情



 ぼんやりと見慣れない天井を眺め、ああ、旅をしているんだ。と、思う。
 のそりと身体を起こして、窓の外を確かめた悟空は、肩を落として息をついた。
「まだ…降ってる」
 視線を戻して指折り数えれば、この町に着いてから五日が過ぎていた。
 悠長な旅でない事は百も承知している。雨など、留まる理由ではない事も。けれど、全ての決定権を持つ彼が、けして腰を上げない事も、悟空には解りきっている事実だった。
 自分ではどうにもならない現実。
「早く…止んで、よぉ」
 そうやって、口唇を噛んで膝を抱えた。


「よく降りますね」
「ホントにな…」
 人もまばらな酒場の隅を陣取って、口先だけの会話と杯を重ねる。
 どうせ出発などしないのだ。それを証拠に、ここ二日ばかり彼らはその人の姿を見ていない。
「窓に背中向けて、丸くなってんじゃねえの」
 皮肉と言うよりは呆れとも同情とも取れる一言を、悟浄は紫煙と一緒に吐き出した。
「悟空…起きましたかねえ」
 八戒がポツリと漏らしたそれに、返事は返らなかった。


 音の無い世界。
 立膝に肘を乗せ顎を支えたその姿のまま、唯一つ先の仲間の想像と違うのは、その白磁の貌は真っ直ぐに窓の外へ向けられていた。ガラス球のような無機質な瞳に、降り続く銀の雨糸を映しながら。
 全てが止まっていたその部屋で、不意に彼の瞳が微かに揺らいだ。
 扉の向こう。
 廊下に響く足音が、その部屋の前で止まる。軒下に雨の雫が静かに落ちる。一つ、二つ、三つ……
 けれど、遂に扉は音をたてず、足音も遠ざかって行った。
 喉の奥で哂った。部屋の中で彼は、確かに待っていたのだ。扉がノックされるのを、不安を刷いたその顔を覗かせ耳に馴染んだその声が、小さく自分を呼ぶのを。
 その反面、ここへは来てほしくないとも思っていた。
 今、会えばきっと傷つける。同じ事を繰り返す、それは跳ね返って己の心までも、深く抉るのだから。

 雨はただ、降り続くだけ――――

「おはようございます、悟空」
 着替えて階下へ降りれば、いつもと代わらない笑顔が悟空を迎えた。
「おはよう八戒、悟浄」
「ご飯食べますか?」
「う、ん…」
 悟空の金瞳が漂う。彼を探すように…
「三蔵なら部屋だぜ」
「…うん」
 解っているのに。
 悟空は黙って、席に着いた。

 箸と皿が当たる音だけがその場に響いていた。時折混じるのは、湯飲みを置く音、ライターの音。
 その中で、コトリと悟空が箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
 行儀良く手を合わせたその姿に、しかし二人の仲間は気付かれぬように嘆息した。
 日毎、落ちていく少年の食欲。普段からは想像も出来ないほどに…きっと本人ですら、気付いてはいないのだろう。
 掛ける言葉が見つからないまま、先に口を開いたのは悟空の方だった。
「紫陽花…」
「え?」
 聞き返したのは、八戒だったのか。悟浄だったのか。
「なんで、紫陽花ってお日様より雨の方が綺麗に、見える…んだろう」
 花は好きなのに…名前も知らない花だって好きなのに。
 紫陽花(この花)だけは、どうしようもなく胸が痛くなる。
「悟空…」
「おかしいよな。俺まで、こんな…雨、苦手…」
 俯いたまま、膝に乗せた手を拳に握り。その刹那、勢い良く立ち上がった。
「ダメ、ダメ!俺らしくないじゃんっ!」
 そう言って、両手で一つ頬を叩いた。その姿に、呆気にとられた二人を他所に、
「町ん中、一回りしてくる」
 駆け出す背中を引き止める事も出来ずに、残された二人は互いに顔を見合わせた。
 それから、
「ずっと…この雨は、三蔵の涙の代わりだと思っていました」
「俺はお前の涙だと、思ってたぜ」
 今までなら、どちらの言葉も当たっていたはずだ。
「でも、違ってました。この雨は…悟空が降らせてるんです」
 搾り出すような八戒の言葉に、悟浄もまた顔を歪ませた。



 水を弾く足音。
 まばらな人影がすれ違うたびに視線を投げ掛けても、俯き加減で歩みを進める。
 雨は降っている、傘は…差さなかった。
 このまま濡れていたら、雨に溶けて消えてしまうだろうか。
「このまま、消えちゃったら…」
 仲間はどうするだろうか。
 あの人は――――
 彼はきっと何も変わらない。たとえ自分という存在が在っても無くても。変わらずに生きていく、真っ直ぐ前を見据えて。
 それが出来ないのは自分の方だ。
 あの日から、彼の居ない世界など悟空には考えられないのだから。

 とぼとぼとあてもなく彷徨う道先が不意に開けた。
「あ…」
 顔を上げた悟空の先に、一面に広がる紫の苑は雨の雫をまとい、淡く浮かび上がっていた。
「紫陽花…」
 花の輪郭が滲んだ。
「ど、して……俺は、傍に居たい…だけ、なの…に」
 見てくれなくてもいい、ただ傍に居させてくれさえすれば、それだけで何も望みはしないのに。
「さんぞぉ」
 雨で冷たい頬に、熱い雫が幾つも幾つも細く糸を紡いだ。


 人が集まるには少々早い時間。客もまばらな酒場のカウンターで、彼は一人佇んでいた。
「お兄さん、隣空いてる?」
 声のする方を一度も見ずに、
「席なら、向こうもその向こうも空いてるぞ」
 不機嫌極まりない返事。
「つれねえなぁ」
 言われた方は気にした風もなく、咥え煙草のまま隣へ腰を下ろすと、
「んなに心配なら、何でいつも突き放してばっかりなんだ」
 カウンターに片肘を付いて隣の男を眺めた。
「何の事だ」
「誤魔化すなよ。頼んだ酒に手も付けられねえ程、心配してるクセに」
 視線の先には、氷が解けてすっかり薄くなってしまった、手付かずのグラス。コースターが含んだ水気を見れば、一度も口に運ばれていない事が、容易に想像できた。
 それでも、目の前のこの男は、きっとそんな自分を認めないのだろう。
 それを証拠に、
「寝言は寝て言え、河童」
 悟浄にとって、予想通りの言葉ではあるそれは、普段よりもずっと迫力に欠けていた。
 彼は差し出されたグラスをひと舐めすると、
「昔よおどっかの坊さんが、こんな事言ってたんだよなあ
『仏に逢えば仏を殺せ、祖に逢えば祖を殺せ。何物にも捕らわれず、縛られず、ただあるがままに己を生きること』
 確か、『無一物』とかって言ってたな」
 そう言って、今度はぽかりと紫煙を吐き出した。
「捉え方は人それぞれだけど、己を生きるって事は廻りまわって、誰かの為って事だろ。けどアイツには、それを言葉にしてやらねえと伝わんねえぜ」
 お猿ちゃんだからよ。と、続けた悟浄は一口グラスを傾けた。そこへ、
「三蔵、悟浄」
 表れた八戒の顔が、心なしか強張っていた。
「どうした?」
「悟空、見ませんでしたか」
 その途端、無表情だった彼の顔色が、微かに変わったのを仲間の二人が見逃すはずは無かった。
「猿がどうしたんだ」
「ここを出た後から、戻ってきてないみたいなんです」
「戻ってないって、出てったの昼前だろ。半日経ってるじゃねえか」
 雨は一日中、降り続いている。
「三蔵」
 硬い声で八戒が呼ぶ。彼は指一つ動かさない。
 悟浄の溜息は、ハイライトの匂いがした。
「まだ動かねえつもりか?三蔵様」
 それでも立ち上がる気配を見せない三蔵に、困ったように悟浄と八戒は苦く笑った。
「行ってやれよ、聞こえてんだろ。猿の声」
 全く不器用な男だと思う。
 想いは誰よりも深いのに、踏み出せずに立ち尽くす事しか出来ない。
 だがこの場合は相手も同じだ。お互いが大切すぎて、傷つけたくなくて、けれど離れていると胸がきりきりと痛む。
「悟空が貴方に甘える10分の1でも、貴方が悟空に甘えてみればいいんですよ」
 八戒の苦笑交じりの声に、悟浄が続く。
「そーそーアイツだけには、見せてやってもいいんじゃねえの。お前の弱音をよ」
 二人の言葉の後、長い沈黙が続いて、
「煩せぇ…な」
 漏らした言葉は、誰に向けられたのか。
 歩き出す後姿を眺め、それが酒場から完全に消えてから、
「素直じゃないというか…」
「不器用というか?」
 自分の後に続いた悟浄の言葉に、八戒はふっと口元を緩め、彼の隣へ腰を下ろした。
「でも、ほっとけないんですよね。あの二人…危なっかしくて」
「俺たちって、ホントいい人だよな」
「そんな自分を嫌いじゃないですけどね」
「だな」
 二人の事をどうこう言うほど、恋愛に長けているわけではない。けれど、自分も悟浄も苦い恋の経験はあるのだ。だからこそ、純粋に三蔵だけを慕っている悟空の気持ちを大切にしたい。
 そして多くは語らずとも、三蔵が悟空を愛しいと思う気持ちは、自分たち二人のそれを遥かに凌ぐのだから。
 三蔵の心を癒すのは、悟空にしか出来ない。
 悟空を強くするのもまた、三蔵という存在だけだ。
「離れるなんて、出来っこないんですからね。お互いに」
「そーともさ」
 鉛色の空から落ちてくる雨は未だ、止む気配を見せない。
「早く…晴れるといいですね」
「そ、だな」
 どこか祈るような呟きだった。



 膝を抱えて蹲る小さな身体。動かないまま、雨を含んで濃茶になった髪の先から、一つまた一つと透明な雫が地面へ落ちていく。
「いつまで濡れているつもりだ…」
 最初に掛けてやる言葉ではないと思う。けれど、こんな言い方しか出来ないのだ、甘える事に不器用な金の最高僧には。
「風邪でも引かれりゃ迷惑すんのはこっちなんだ、さっさと戻れ」
 違う―――言いたいのはこんな事じゃ…ない。
「三蔵こそ…濡れんの、嫌いだろ…俺の事なんか、ほっといて、戻れ…よ」
 震える声が、目の前の男を拒絶する。そうさせたのは三蔵だ。
「いい加減にしろよ、ただでさえ足止め食ってんのに、この上…」
「じゃあ、捨てればいいだろっ!」
 痛々しいほどに赤く染まった金瞳が、紫暗を射抜く。
「三蔵は俺なんか居なくたって平気だろ!足手まといなんか捨てればいいじゃねえか」
 雨と涙に濡れ、声を荒げた悟空はその瞬間、三蔵の腕の中に居た。
「誰がお前を足手まといだと言った!」
「―――っ!や、やだ…離せ……はなし、て」
「お前が苦しむ理由なんてねえだろ」
 抱きこまれ頭の上から聞こえた声に、悟空の身体が震えた。
「さん、ぞ…」
「お前に泣かれるのが…一番堪える」
 漏らされた言葉に、悟空の瞳が大きくなる。
 今、この人は何と言った。
「さんぞ…今、なん、て」
「……どんな事より…お前に泣かれる事が、俺には一番堪える…悟空」
 見つめる紫暗の瞳は、優しさに満ちていた。それは悟空だけに、悟空だけが独り占めできる、慈しみ溢れる眼差し。
「さんぞぉ…」
 顔を歪ませ、悟空は声を上げて泣き出した。
 自分がどれほど愛されているかを知った。
 彼を信じられなかった自分を恥じた。
 言葉が出ず、ただ泣き続けるしか出来ない悟空を、三蔵はずっと抱きしめていた。
 三蔵には全てが、伝わっていたから。


「だからと言って、どうして二人して濡れたまま居たんですか」
 翌朝、二つ並んだベッドの真ん中で、八戒は交互にその顔を眺めた。
「ごめん…なさい」
 顔の半分まで布団を上げた悟空。三蔵は鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「いいですか、熱が下がるまで二人ともベッドから下りるのは禁止ですよ」
 ぴしりと言い放たれ、悟空は黙ってそれに従うしかなかった。不貞腐れた三蔵は返事すらしない。
 部屋の隅で成り行きを眺めていた悟浄は、腹を抱えて笑い出した。
「二人して風邪引くなんざ、仲がよろしいこってすな」
 その途端、
「死ね」
「うっさい、バ河童!」
 見事に揃った声と発砲に、悟浄の赤髪がはらりと宙を舞った。
「何しやがる、クソ坊主!」
「やかましい!」
「三蔵」
 八戒の笑顔にその場が静まり返る。
「チッ…」
 一瞬で室内を氷点下にまで下げた張本人は、瞬く間に小春日和の顔をつくり、
「食事まで、大人しく寝ててくださいね」
「イテテテ、八戒さん…耳引っ張るのヤメて」
 嵐の種を引き摺って部屋を出て行った。

 一気に静かになった室内で、悟空はちらりと三蔵を伺った。相変わらず自分に背を向けたまま。
 声を掛けようかどうしようか迷っているうちに、
「寝ろ」
 見えてないはずなのに。と、思う。それでも解ってしまう何かが、自分と三蔵の間にはあるのだろうか。
 それならば、
「三蔵、そっち…行ってもいい?」
 少しだけ甘えてみる事にした。なのに、
「お断りだ。これ以上暑苦しいのは、まっぴらなんでな」
 あっさりと拒否の言葉が返って、けれど悟空は思わず顔をほころばせた。
 ああ、いつもの三蔵だ。
 それが無性に嬉しかった。
 何も変わらない、我が侭で自分勝手で、真っ直ぐで、誰よりも強くて…
「何?」
 気が付けば、三蔵がこちらをじっと見ていた。見つめ合って、先に口を開いたのは三蔵。
「やっと…笑ったな」
 乱暴で、怒りっぽくて、面倒くさがりで、そして――――
 誰よりも優しかった。
「さんぞぉ…」
「言ったそばから、泣く奴があるか」
「だって…ふ、ぇ…」
 壊れてしまった涙腺は、ちっとも言う事を聞いてはくれなかった。涙で滲んだ先に、少し困ったような三蔵の顔。
「ほら…」
 上掛けを持ち上げて、三蔵が呼ぶ。
「さんぞーっ!」
 抱きしめてくれた腕はいつもよりずっと、熱を持っていた。
「泣くな…」
「うん…」
 啄ばむような口付けに、悟空の顔が再び笑みを形作る。
「三蔵…」
「寝ろ」
 かたく抱きしめられて、悟空はゆっくりと微睡みの中に落ちていった。



「大人しく寝てろとは言いましたけどね」
「いーんでねえの、幸せそうだし」
 暫くして様子を見に来た二人の仲間は、その光景に複雑な表情を浮かべていた。
 三蔵の腕を枕に穏やかな寝息を零す悟空と、その身体を抱きしめ、深茶の頭に頬を寄せて眠る三蔵。
「これだけ暖めあってれば、酷くなる事は無いですね」
「そゆ事」
 声を忍ばせ、足を忍ばせ部屋を後にし廊下の窓を覗けば、鉛色の空に一条の光。
「ああ、やっと晴れてきましたね」
「やぁっと出発か」
 煙草を咥えながら両手を伸ばした悟浄の隣で、
「まだですよ、誰かさんたちの所為でね」
 三日月眉を下げながら八戒は、けれど楽しそうに笑った。



花淋さま/Reincarnation


花淋さまのサイト「Reincarnation」の10万Hitのフリー小説をいただいてきました。10万。凄いですねー。
三蔵さまの台詞にやられちゃいました…。パッタリ。これがホントの殺し文句。
でも、良かったね、悟空。一番言ってほしい言葉を言ってもらえて。なんとなく一緒に幸せな気分になれました。
花淋さま、ありがとうございました。