あれは、誰の夢だったのだろう――――


「いい加減にしてくんねぇかなあ〜後から後から後から…」
「バ河童!真面目にやれよ」
「っせえなぁ〜猿がキーキー言ってんじゃねえよ」
「何が猿だ!―――っ、おあ!」
「悟空!」
「へへん!猿も川に落ちるってかぁ」

 終わりの見えない西への旅路。
 敵を倒すか、自分が倒されるか。そんな非日常が、日常になり始めて…
 今日を生き延びる事が最優先事項で、昨日の事すら忘却の彼方。
 
 旅に出る前の自分は、どんなだったろう――――

 ふと、そんな事が頭を過ぎった。



あさきゆめみし




 鼻をくすぐる香りはどこか懐かしくて、それに誘われるように、ゆっくりと瞼が上がった。
「あれ?」
「悟空?!」
 覗きこんできた鳶色の瞳。
 自分は知っている。いつも優しく笑んでくれた人。
「……愁…由?」
「よかった―――直ぐに三蔵様にお知らせを」
 一人喜んだ僧徒は、くるりと踵を返して部屋を出て行った。
 残された少年は身体を起こし、部屋をぐるりと見回す。ここは確かに自分が暮らしていた部屋だ。ただし一年以上も前の話だが。
「ここ…寺だよな」
 思考が上手く廻らない。視線の先が朧げで、それはまるで水底から空を見ている様。
「何で…ここに居るんだろ」
 戦っていた。
 西からの質より量な刺客。いつものように蹴散らして、空いてしまった胃袋は何で一杯にしようか。そんな事を考えながら。
 気が緩んでいたわけでも、相手を侮ったわけでもなかったけれど、当て身をモロに食らって川へ落とされた。
「川に落ちた―――んだよ…な」
 八戒の声が自分の名を叫んだのは聞こえた。
「どういう事だ…よ」
 身体中の細胞がざわめき立つ、おかしい。疑え。頭に響くのは警鐘。
「ここから…動かないと」
 声にすることで自分を奮い立たせベッドを抜け出した時、
「悟空」
「しまっ…―――さん、ぞ…」
 開いた扉から現れた人物に、自分の目を疑った。
「全く、いらん心配を掛けるな」
 その人は常にない穏やかな声音で、近付いてくる。
「さん…ぞ、だよね」
「何言ってんだ」
 三蔵が―――あの三蔵が、まだどこか具合でも悪いのか。なんてそんな事を聞くから、悟空はすっかりその場に固まってしまって、
「大…丈夫。どこも、痛く…ない」
 そう答えることしか出来なかった。


 ここは確かに旅に出る前、自分と三蔵が暮らしていた長安の寺院だった。
 様子のおかしい自分を心配して、やはり医者をと言う傍仕えの言葉に三蔵は頷いて。だから悟空は必死になって、自分は大丈夫だから。を繰り返した。
「三蔵が…めちゃくちゃ優しい」
 呟いた声に困惑と嬉しさが見え隠れする。
 いや、現実の(これが夢ならばの話だが)三蔵もとても優しい。だが、それは目に見えるものではなくて、それこそ自分だけが感じる事のできるもの。あからさまな優しさを向けてくれる事はないけれど、どんな時も自分にとって大切な事を、進むべく路を指し示してくれる。それが悟空の知っている「三蔵の優しさ」だった。
 だからこそ、悟空は戸惑っていた。
「優しい三蔵は嬉しい」
 けれど、それ以上にこの場が現実では無いという疑いを、持ってしまう事があるのだ。
「悟空、具合はどうですか?」
「悟空、檀家の方から柿を頂いたから、三蔵様と二人でお食べ」
「悟空、今日は温かくして早く休むのですよ」
 投げ掛けられる数々の労わり。
 発するのは、寺院の僧正や僧徒達。眼差しは正しく、仏道に帰依する者の慈愛に満ちた目だ。
 だが、悟空の知っている彼らは、自分を受け入れてはいなかった。
 すれ違う時はその存在を抹殺し、回廊の端と端に居ても踵を返す。不浄のモノを見る目で、触れることもおぞましい。
 何もそこまで。と、思わなくも無いが、それが悟空の知っている彼らだった。
「ここは何処なんだろう…」
「何をブツブツ言ってるんだ」
「三蔵…」
 近付いてきたその人はやっぱり穏やかな面差しで、悟空と向かい合うように自分のベッドへ腰を下ろした。
「どうした?」
 掛かる声は甘く響いて、悟空の鼓動が早くなる。
 ついと伸ばされた大きな手に、それが当たり前のように悟空は自分の手を重ねた。
 回された腕の力強さも、胸元から仄かに香る紫煙も、三蔵そのものなのに悟空の中から消えない違和感。
 けれど三蔵は、それすらも解っているかのように抱き込んだ背中を撫で擦り、悟空を眠りの淵へ誘った。
「大丈夫だ。ここに居る」
 意識を手放す瞬間に囁かれた言葉に、しかし悟空は頷く事ができなかった。


 風が頬を撫でていく。
 空は青く晴れ上がって、鳥の声と時折森の奥から聞こえる小動物の足音。

 脅威と言う言葉が存在しない世界――――

 人と妖怪が共存する世界。
「これが本当の世界なの…かな」
 妖怪の暴走と牛魔王の蘇生を阻止するために、自分は三蔵と二人の仲間八戒、悟浄と共に西へ旅立った。
 それは裏を返せば、妖怪の変貌という脅威が無ければ、旅立つ事も戦う事も必要ないという事。
「じゃあ―――俺は…?」
 
 戦う必要が無いこの世界で、自分は三蔵にとってどういう存在なのだろう。
 見上げた空に翼を広げた影がゆっくりと流れる。
「何処まで行くんだろう―――俺は…何処へ行くんだろう」
「何処へも行く必要などない」
 背後から廻った腕は悟空の身体をしっかりと抱きしめた。
「三蔵…おれ」
「何処へ行くと言うんだ。お前は、ずっとここに…俺の傍に居ればいい」
 耳に響くテノールは余りにも心地よくて、背中から伝わる温もりは涙が出そうなほど温かい。
 
 このまま、三蔵の胸に抱かれていれば――――

「お前は何の心配もすることは無い。俺の傍にいて、好きな事をしていろ」
 囁かれる言葉は麻薬のように、じわりと悟空を浸蝕していく。
 三蔵が居てくれるなら、俺は何も要らない。このまま、その気持ちに身を委ねてしまおうか。
 そんな思いが頭をもたげる。その時。
「俺が、お前を守ってやる」

 一瞬、耳を疑った。次いで頭の片隅から冷えた感覚が生まれる。

 お前を守ってやる――――

 三蔵が、自分を守る。
 違う、三蔵はそんな事は言わない。
 そして、自分もまたそんな事は望んでいない。
 急速に冷めていく思考の中で、悟空は自ら三蔵の腕を振り解いた。
「違う!三蔵じゃない」
「悟空」
「三蔵だけど、三蔵じゃないんだ」
 目の前の大好きな人。けれど、自分の知っている彼では無い人。
「三蔵は、そんな事言わない。俺は三蔵に手を引かれたい訳じゃない―――俺は…俺は」
「悟空、何を言ってる。戻って来い」
「行けない!俺は、三蔵と一緒に歩きたいんだ。今は無理でも、いつか三蔵と肩を並べるようになりたい。それだけなんだ!」

 悟空――――

「さん、ぞ?」
 それは目の前から発せられたのではない、悟空の心に直接響く声。
『戻って来い、悟空』
「うん…今、行く」
 無意識に動く足。一歩、また一歩と歩き出す。
「悟空!」
 三蔵であって三蔵ではない大好きな人が、顔を歪ませて叫んでいる。
「三蔵…ごめんね、でも大好きだよ。どんな三蔵も、俺にとっては大切な人だから…だけど行かなくちゃ、三蔵が呼んでるんだ。さよなら三蔵―――今帰るよ、三蔵!」



「悟空」
 ずぶ濡れの身体を抱き寄せられて、最初に飛び込んできたのは深い深い紫暗の瞳。
「さん、ぞぉ?」
 互いに頭から雫を滴らせて、しかし三蔵の腕はしっかりと悟空の身体を抱き留めていた。
「悟空、大丈夫ですか?」
「おい、大丈夫か?」
 それは幻聴ではない、確かな仲間の声。
「八戒、悟浄」
 姿を認めた途端、悟空の意識がふつりと切れた。

 ぼんやりと見上げた先は、古びた天井。
 飛び起きて、無意識に荒くなっていく呼吸に、悟空は知れず拳を握り締めた。
「起きたのか」
「―――っ!!」
 咄嗟に口を押さえたのは、本当に心臓が飛び出しそうだったから。
「何だ、気持ち悪いのか」
 次の瞬間、悟空の顔から血の気が引いた。
「嘘…まだ、俺アッチに居んの?」
 三蔵が優しい。そんな事…や、でも。ど、どうしよう…
「おい」
 半身を起こしたまま、一人ブツブツと呟く悟空を見下ろし、だがそんな三蔵にも気付いていないのか悟空はすっかり、一人の世界にはまり込んでいる。
 そして、三蔵がグッとそれを握り締める。
「こ、の―――バカ猿がーっ!」

 スパーンッ!!――――

「うぎゃ〜!」
 目の前に盛大な火花が散って、見上げた先には眉間に深い皺を刻んだ不機嫌な顔。
「散々人に迷惑掛けやがって、その上なに寝惚けてやがる、大バカ猿」
 それが余りにも三蔵すぎて…
「さん、ぞ…三蔵、三蔵!」
「おい」
 抱きついて、その胸元へ思い切り擦り寄る。
「おい、離れろ!バカ猿」
 引き剥がそうとする以上の力で抱きつく細い身体。ふと、その肩が震えているのに気付いて、三蔵は大きく息を吐いた。
「ったく」
 襟首を掴んでいた手は、そのまま濃茶の頭に乗せられ、柔らかいその髪をゆっくりと梳き始めた。
「あまり、心配かけんな…」
 咎める口調でない、諭すような穏やかな声。
 同じなのに違う、優しい声。
「三蔵…」
 やっぱり、この胸は安心する。
 三蔵だ。俺の大好きな三蔵だ。
 トクントクンと自分と同じリズムで刻まれる心音。
「三蔵だ…俺の、大好き…な―――さん、ぞ」
「悟空?」
 見下ろした先、安心しきったあどけない寝顔。
 苦く笑って、そっと身体を横たえた。
 何に怯えていたのかは解らない。ただ、ずっと儚い声で呼ばれていた。
 今は穏やかに眠る、まだ幼い顔。
 そっと、口唇を寄せて、
「傍に居ろ」
 同じ声で、けれどたくさんの意味と想いを込めて、囁いた。




花淋さま/Reincarnation


花淋さまのサイト「Reincarnation」さま3周年フリー小説を攫ってきました。
悟空が相変わらず可愛いのですが「対等でいたい」と思うところがとても好き。うん。守られるだけじゃ嫌ですものね。
それと。
「傍に居ろ」
も、この台詞がすべてなんじゃないかと思います。
それにしても、あんな優しい三蔵さま。いろいろなことが少しずつずれていたら、もしかしたら本当に居たかもしれないと思うと、なんか感慨深い気がします。
花淋さま、いつも攫っていくばかりですみません。(←でも反省の色なし) ありがとうございました。