恋の波紋


 あの日、冷たい雨と共に始まった俺の恋――――

「いらっしゃいませ」
「いつもの」
「はい」

 一ミリの進展も無いけれど、全くの脈無しでもなさそう。と、希望的観測が続いていた。

「お待たせしました」
「ああ」

 いつもお客が引けた頃。 
 初めて来たあの日と同じ席に座って、コーヒーと煙草。眼鏡を掛けるのは本を読む時。
 ゆっくりと煙草を燻らせながら、ページを捲る指。女性的ではないのに、凄く綺麗。
 俺はいっつも邪魔しないようにと、必要以上に固まって…八戒は相変わらず、ニコニコしてるだけ。
 声なんてとても掛けられなくて、結果、俺は未だに彼の名前も知らない。

「ありがとうございました」
 レジで後姿を見送って、ふぅとため息。
「今日も名前は聞けず仕舞いですか?」
「うん…」
 カウンターの隅で帳簿をつける八戒が、ノートから視線を外さずに聞いてくる。
「悟空らしくありませんね」
「だって、ホントに話すきっかけが無いんだぜ」
 ウジウジしてるのはらしくないって、自分でも分かってるけど。
「確かに、いきなり名前を教えろと言うのは、失礼ですけどね」
 そう言って八戒は顔を上げると眼鏡を外して俺を見た。
「ところで悟空、春からは三年生ですけど、バイトはこのまま続けていきますか?」
 そうなんだ。
 あの人の事だけじゃなくて、俺は自分のこの先の事も実は悩みのタネ。
「別に、大学に行くわけじゃないし。ってか、俺の頭じゃムリだしさ、親はアルバイトも立派な社会勉強だって言ってるから、このまま続けてもいい?」
「それはもちろん。―――悟空は何かやりたい事は無いんですか?」
「やりたい事かぁ…―――まだ、分かんないや」
 曖昧に笑って、俺はモップを動かし始めた。本当に、自分の未来なんてこれっぽっちも、俺は考えてなかった。


 暖冬、暖冬なんてニュースで騒いでたけど、ここ数日は寒さが厳しくて、俺は肩をすくめながら店への足を早くした。
「あ…れ?」
 夕方の、薄闇が迫ってくる中。店の前に長身の人影、近付いて誰だかわかった途端、心臓が跳ね上がった。
 だって、まだ六時前だよ、そんな早い時間に居るわけがない。ドキドキしながら、俺はその人の前に立った。
「い、らっしゃいませ…今日は、早いんです、ね」
 そう声を掛けた俺を見たと思ったら、いきなり腕を取られた。
「え?え?」
「付き合え。マスターには言ってある」
「ほ、へ?」
 言われて見れば店の奥、八戒はカウンターの中からいつもの笑顔で手を振っている。
「行くぞ」
 俺は訳も分からず、コレって拉致?っぽい。なんて、場違いな事を思いつつも心臓のドキドキが淡い期待に変わっていくのを感じていた。
「あの…」
 助手席に縮こまった俺は、何度目かの信号停止に漸くその人の顔を見た。
「ひと月前の礼だ」
「ひと月前?」
 んー、と首を捻って思い出した事に、身体の熱が2℃は上がった。


『えと…バ、バレンタインですから』
 雨の中から現れた今目の前に居る人。
 なんだかとても疲れているようだったから、コーヒースプーンに置いた一粒のチョコレート。
 帰り際に、思わず口を出た。
『特別…』
 だって、その疲れた顔を見た俺まで、なんだか苦しくなって…

『一目惚れですか?』
 八戒の言葉は間違ってない。


「あれは…その」
「特別―――なんだろ」
 にやりと笑った口元に、ほっぺたが火を噴きそう。
 17年間でこんなに緊張するホワイトデーは初めてだ。や、多分この先だって無いハズ…
「で―――喰いたいモンのリクエストはあるか?」
「え?」
「先月の礼だ。晩メシを奢ってやる」
 それはもう、数少ない「お返し」の中でも、最っ高〜!!の瞬間だった。

 夢の始まり。
 その人―――三蔵が連れてってくれたのは、リバーサイドのいわゆる隠れスポットといわれてる所。
 すっごくお洒落で、何ていうか大人の隠れ家って感じなんだ。若くて浮ついた感じがしない静かな、本当に三蔵に似合う場所。
 リクエストはって聞かれて、任せます。って答えたら、着いた所がここ。
 制服の俺とシルバーグレーのジャケットを羽織った三蔵。どんな風に見えるんだろうね。
 恭しく通された個室で、目の前のご馳走と三蔵を交互に眺めて、でも最後はお皿に釘付けで、出てくるそれを夢中で空にしていた。
「見事な喰いっぷりだな」
 そんな笑いを含んだ言葉に、俺は我に返って箸が止まる。
「すいません…」
 恥ずかしくなって俯いた途端。
「気にせず喰え。見てて小気味いい」
 それは初めて聞く、穏やか声。
 顔を上げた俺は、その綺麗な菫色の瞳とモロに眼が合った。
「美味いか」
「…は、い」
「そうか」
 それっきり俺は顔を上げずに、さっきとは別の意味の夢中で、皿の中身をかっ込んだ。


「あの、今日は本当にご馳走様でした」
「満足か」
「はい!すっごくすっごく美味しかったです」
 腹いっぱいご馳走になって、挙句に俺は家までしっかり送ってもらっていて、それはもう「人生で最高の一日」と言うに相応しい日。
 マンションの入り口のちょっと手前で車を降りて、運転席のドアに凭れている三蔵に、深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
 顔を上げて、街頭の下の瞳は濃い闇色で、それがすっと細くなった次の瞬間。
 目の前の端正な顔がぼやけて、それがあまりに近い距離の所為だと気づかないまま、口唇に感じた柔らかい感触に身体中の機能が止まった。
 それからどれくらいそうしてたんだろう。気がついたら、三蔵の姿も車も無かった。
 フラフラと、どうやって部屋まで辿り着いたのかもよく覚えていない。
 そう、覚えているのは口唇の暖かさと柔らかさ。それと少し苦い香り。
「…キ、ス…された」
 頭のてっぺんから、プシューっと湯気が出た。

「昨日は楽しかったですか」
「…うん」
 俺の顔は絶対真っ赤。
 でも、八戒はそれ以上は何も言わずに、やっぱりいつものように優しく笑っていた。
「ねえ八戒。あの、お願いがあるんだけど」
「お願いですか?」
 俺はまっかな顔のまま、でも真っ直ぐに八戒を見て、
「コーヒーの淹れ方、教えてください」
 身体が二つになるくらい頭を下げた。
 自分のやりたい事、この先はどうなるか解らないけど、今一つだけ見つけたんだ。
 三蔵に美味しいコーヒーを淹れてあげたい。
「僕の特訓は厳しいですよ」
 八戒の言葉に、
「よろしくお願いします!」
 店中に、俺の声が響いた。


 一粒のチョコから始まった俺の恋は、のんびりとこれから続いていく感じ。





――――の、ハズだったんだ。

「ヤベえ、新学期早々遅刻かよ」
 カバン片手に音速で学校の門をくぐって、教室に駆け込んだ。
「すいません!遅くなり…まし、た―――三蔵!」
 その瞬間、教室が静まり返る。
 待ってよ、何で三蔵がこんなトコに居んだよ。俺は金魚みたいに口をパクパクさせて、三蔵はというと何ていうか、酷く楽しそうな。そんな感じで口の端を上げた。
「新学期から遅刻の上に、担任を呼び捨てにするとはいい度胸だな」
「た、た、担…任」
「放課後、指導室だ」


 俺の恋は、急展開…みたいだ。


花淋さま/Reincarnation


花淋さまのところからホワイトデーのフリー小説を奪取してまいりました。これの前にあります「一粒の恋」の続きですよ。
可愛らしい恋が、これからがどうなるのかなーと期待していたのですが、おぉっ、な急展開です。
まだまだ続くようで、そちらも楽しみなのですが、もっと楽しみなヒトコトが書いてありましたので、背中をグイグイと押してきちゃいましたよ。
放課後の指導室v
期待してますねー♪(←おい)