10000円
「いいですか悟空」
いつものように三蔵の執務机の前、机と平行するように床に胡坐をかいて、向かい合わせに座る少々あきっぽい少年を集中させるために、しっかりと一度視線を合わせてから、八戒は尋ねた。
「この三つの中で一番金額が高いのはどれですか」
悟空側から見て、床の上には左から順番に、1万円札1枚、1000円札10枚、500円玉20枚を置いてある。
今日のために三蔵に頼んで用意してもらったのだ。
「えっと、いちじゅうひゃくせんまんだから、これが一万だろ。
で、いちじゅうひゃくせんがぁーひとふとみつよついつむーななやーここのとおでー……」
八戒に促された悟空は、金髪美青年という外見からはかけ離れて意外に、いやかなり爺むさい保護者に教わったという数え方で、床に座り込んでたどたどしく数字を追い始めた。
〈そうそう、落ち着いて。今の悟空なら分かるはずです〉
うーんうーんと考え込んでいる悟空を見守りながら、八戒はぐっと拳を握り締める。
この半年間の家庭教師の結果、悟空は足し算、引き算、簡単なかけ算くらいなら―まだわり算はあまりできない―できるようになった。
というわけで、今日のこれはおさらいなのだ。
「せんがじゅっこだろ。だからえっとえーと」
〈何でそんなに時間かかってんだ。全部1万に決まってんだろーが〉
無関心を装って書類に筆を走らせていた三蔵も、口出ししたくなるのを我慢しながら、イライラと悟空を見つめる。
八戒と三蔵がじっと息を詰めて見つめる中、悟空はたっぷりと時間をかけて課題に取り組んだ。
そして――――、
「分った!」
「できましたか」
「うん。これが1万、これも1万、これも1万だろ」
「悟空」
〈ああ、あの引き算もできなかった悟空がとうとう〉
決して嫌だったわけではないけれど、砂漠に水を撒くような無力感に襲われたこともあったこの半年間が脳裏を走る。
感極まった八戒が、悟空の頭を撫でようと手を伸ばしたとき、
「でこれが一番高い」
自信満々な顔で悟空は500円玉の山を指差した。
「――――――――――――」
「――――――――――おい」
ハリセンを召喚して席を立つと、地の底を這うような声で三蔵は問いただす。
「バカ猿。どうしてそれが一番多いんだ」
「だって一個よりいっぱいの方がたくさんじゃん」
「お前はバカか。本当のバカなのか。全部一万だとさっき自分で言っただろうが!」
バシンっ。
「いたっ、何で叩くんだよ三蔵のバカっ!」
ドガっ。
「ってーな。俺を蹴るとはいい度胸だ猿!」
「先に三蔵がたたいたんじゃんかっ」
「いい度胸だ」
「俺悪くないかんなっ」
三蔵のハリセン攻撃をきっかけに、ぎゃあぎゃあと喚きながらど突き合いを始めたふたりをぼーっと眺めながら、八戒は耐え難い脱力感に襲われ深く深くため息を吐いた。
きちんと計算はできた。できたのだが、どうやら悟空は結果と貨幣の価値を重ね合わせることができないらしい。
いくら計算ができるようになっても、それを日常生活に正しく応用できないのでは学ぶ意味などないではないか。
〈この半年間はいったい………………僕ちょっと泣いちゃいそうです〉
ひとり静かに落ち込んでいたい。
しかし、そんな八戒を気にもせず、三蔵と悟空は怒突き合いから取っ組み合いへと移行し、上に下にとごろごろ床を転がって怒鳴りあっていた。
「――――――――なんだよ。さんぞーが悪いんじゃん!オレお金なんて使ったことないもん」
「当たり前だ。『働かざるもの食うべからず』、何で役に立たないどころか面倒ばかり起す猿に金をやらなきゃなんねぇんだ。お前にやるくらいなら、俺が使うわ!」
「ひどいっ。暴力坊主、ケチ坊主っ」
うぎーっと悟空は三蔵の背中を床に押しつけ、勢いよく腹の上に跨り叫ぶ。
「さんぞーの人でなしーっ!」
飛び乗られた衝撃に、うっと呻いた三蔵も負けてはいない。
即座に上半身を起して腹の上から悟空を突き落とすと、青筋を立てて怒鳴った。
「誰が人でなしだっ。お前の飯から服からおもちゃから全部俺が買ってやってんだろうが」
「――――――――ああ、そうですか。だから悟空は分らなかったんですね」
そもそもの生活環境が一般人とはかけ離れていたところに、原因があったらしい。
そうと分ればさっそく今後の教育課程を組み立て直さねば。
八戒はぽんと手を打つと、〈ではそろそろ二人の顔が原型を留めなくなる前に止めましょうか〉と立ち上がる。が、次の瞬間、耳に入ってきた言葉に凍りついた。
「あれ? でもさー三蔵が買ってくれるんだから、別にオレがわかんなくてもいいんじゃん」
「―――――まぁ今のところはそうだな。答えは1万であってたしな」
「なんだぁ。んじゃ三蔵ごほうびちょうだい」
よいしょ、と悟空は身軽るに起き上がると、床に胡坐をかいている三蔵の真正面に立つ。そして三蔵の首に両腕を回してぎゅっと抱きついた。
「約束したじゃん。正解できたらごほうびくれるって」
「ああ、何がいいんだ」
寄りかかる悟空の腰に両手を回すと、そのまま抱き上げて三蔵が立ち上がる。
「んと、飯食いにいきたい♪」
「分った。じゃあこれから行くか」
「それから、それからクレヨン買って。
こないだ悟浄に連れて行ってもらってみたやつ、すっげーんだ色いっぱい入ってんの」
「ああ」
「やったー飯めし、くっれよん♪」
床に下ろされた悟空はぴょんぴょんと弾むような足取りで三蔵の手を引っ張り出口へと向かう。
そしてくるりと振り返り唖然としている八戒に笑いかけた。
「八戒も一緒に行こうぜ」
「―――――――いいえ、僕は遠慮します。悟浄も家で待っていますし」
「そうなの?」
「んじゃ一緒に街まで行こ♪」
るんるんと手を繋いで部屋を出て行く二人に、沈黙したまま続きながら、その内心で八戒は絶叫していた。
〈僕の半年間を返しなさい。このバカ親子!〉
織花さま/森の家
なんだか報われない八戒さんに、笑みが……いえ、涙がさそわれます。
こういう八戒も(楽しくて)いいかも、と思い、いただいてきちゃいました。織花さまのサイト「森の家」さまが10000Hitを迎えられたときのフリー小説です。
織花さま、ありがとうございました。