ねぇ、例えば。
其処に至宝の光が埋まっているのならば。
虹の袂
「あーっ!虹だっ!」
悟空がそう叫んで指をさすけれど、今はそれどころではないのだ。
「悟空。その前に、先ず着替えましょうね。」
苦笑した八戒が、悟空の髪をタオルでワシャワシャと拭いてやると、悟空は至極気持ち良さそうにその大きな瞳を細めた。
西への旅路。
町を目前に、降り出した雨。
大粒の雨が、あっという間に地面と一行を濡らしていった。
通り雨だったのか、街中に入り、宿を見つけて部屋に通された時には、既にポツポツと雨粒が落ちてくる程度で。
それでも僅かな時間で、一向は濡れ鼠となった。
「カーっ。全身ぐっしょりだぜ。」
「悟浄も。ちゃんとタオルで拭いてくださいね。風邪をひきますから。」
悟空の髪を拭き終えた八戒は、次いで悟浄にタオルを渡す。
三蔵はと言えば、濡れた法衣を既に脱いで、着替えも済ませて煙草を燻らせていた。
「……おい、猿。」
眉根を寄せて、三蔵が悟空に声をかける。
悟空は未だに、窓に張り付いたままだった。
「んー?」
返事はすれど、悟空は一向に振り向く気配がない。
そんな悟空に、三蔵の眉根の皺が、更に増える。
「……風邪でもひきやがったら、この町に置いてくからな。」
その言葉に反応した悟空は、漸く振り返って慌てて首を振った。
八戒に用意してもらった着替えに袖を通し、悟空はポテポテと歩いて三蔵の傍に寄る。
「ねぇ、三蔵。覚えてる?」
「……。」
「俺が、初めて虹を見たときのこと。」
悟空が三蔵にそう話し掛けるけれど。
三蔵は黙ったまま、紫煙を吐き出した。
反応を示さない三蔵に構わず、悟空は話を続ける。
「あの時、三蔵が教えてくれたんだよね。」
言って悟空は、視線を窓に移した。
窓の外、薄暗い雲の切れ間に架かる、大きな七色の橋。
鮮明に覚えている。
あの感激と、切ない胸の痛み。
「この、バカ猿っ!だからさっさと帰るっつっただろうがっ!」
「だって、あそこの店の肉饅がどうしても食いたかったんだもん!」
ギャアギャアと喚き合いながら走って、沢山の枝を伸ばす大きな木の元に逃げ込んだ。
三蔵の公務に連れて行ってもらえて、悟空は至極ご満悦であったのだ。
だから、寺への帰り道に町を通った時、お気に入りの店で肉饅を強請った。
最初は渋っていた三蔵も、結局は買ってくれて。
店の軒先で、買ったばかりの肉饅を5つばかり悟空一人で頬張った。
お腹も満たされ、更に気分が上昇した悟空だったのだけれど。
さて寺に帰ろうと歩き出した矢先、突如として降り出した雨。
既に町を出、寺へまでの道程の途中には家は一軒も建っていない。
雨宿りをする場所もなく、仕方なしに走って漸く見つけたのが、逃げ込んだ木だった。
寺までは、あと少し。
けれど、雨は一向に止む気配がない。
ふぅ、と一つ息を吐いてチラリと三蔵を見遣れば、不機嫌も露わに煙草を咥えるところだった。
三蔵が身に纏う法衣は雨に濡れてしまっていたけれど、煙草は難を逃れたようだ。
これで煙草も雨に濡れていて、吸うことも出来ないとなっていれば、怒られるだけでは済まなかっただろう。
心中で安堵しながら、悟空は今度は視線を空へと移動させた。
どんよりと、重苦しい雲が空を覆っている。
止みそうにない、雨。
三蔵は雨が苦手なのだから、早く止んでくれないものだろうか。
願うような気持ちで、空を見上げていた。
すると。
「もうすぐ、止むだろ。」
ポツリと呟くように、三蔵が言った。
「え……?」
まだ、こんなに雨が降っているのに。
まだ、こんなに空が曇っているのに?
そう問いかけようとした時。
雨足が、少しずつ和らいでいく。
空をもう一度見上げれば、遠い向こうに、少しの隙間から覗く青い空。
その少しの青い空は、雲に消されたり、再び現れたりしながら、その範囲を広げて行った。
雲の切れ間から、差し込む光り。
悟空はじっと、空を見上げている。
すると、空に薄らと、何かが現れ始めた。
やがて少しずつ色を増やしていくそれは、空の橋。
「さん、ぞ……。」
その、なんてキレイなこと。
初めて見たそれは、見事に弧を描いて空に架かっていた。
「さんぞっ!三蔵っ!あれ、何っ?」
興奮の余り上擦った声で空を指差せば、三蔵は短く答えた。
「虹だ。」
「に、じ?」
「……空に浮かぶ水滴で屈折した太陽の光、だ。」
「……く、せつ?え?」
「……兎に角、あれは太陽の光なんだよ。」
理解出来ていない悟空に、三蔵は諦めの溜め息を吐きつつ。
端的に教えてやれば、悟空は「太陽……」と一つ呟いてまた空を見上げた。
「すっげ、キレイ……。」
そんな悟空の声に釣られて、三蔵も空を見上げてみた。
その虹は、鮮やかに七つの色を輝かせていた。
思わず眩しいと、手を翳す。
その七色は、似ている……と。
そう思った。
例えばそれは、自分の傍らで輝かせているその大きな金瞳であったり。
自分にだけ向けられる、花が咲いたような笑顔であったり。
「……虹の袂には、宝が埋まっている、ってな。」
「宝?」
三蔵が言うと、不思議そうに小首を傾げて悟空が振り返る。
三蔵はそれを見て、新しい砲身を取り出し、火を点けた。
「ああ。海を渡った東の小国では、そんな話があるそうだ。」
「へぇ……。」
忽ち漂う、マルボロの苦い香り。
悟空はまたも虹を見詰て、すぐに振り返り。
「ねぇ、三蔵!探しに行こうよ!」
「あ?」
「宝!ホントにあるか、探しに行こう!」
後から考えてみれば、それはほんの気紛れだったとしか言い様がない。
まだ止みきっていない雨の中、再び歩き出して。
虹が架かる方へと向かって行く。
どんなに歩いても、近付く気配がないそれに、悟空が不安そうに振り返る。
そうしているうちに、雲が段々と晴れてきた。
気付けば、雨は止んでいた。
太陽の光が、どんどん増えていく。
それとともに、薄くなっていく虹。
「三蔵……!消えちゃうっ……虹が、消えちゃう!」
焦った悟空は、走り出した。
けれど、終ぞ虹の袂に辿り着くことは出来なかった。
辿り着く前に、虹は消えてしまった。
「さんぞ……。」
泣き出しそうな悟空に、三蔵は一つ溜息を吐く。
元々、そんな迷信を信じる方が馬鹿なのだ。
そう思いはすれど、その話を持ちかけたのは、三蔵自身で。
悟空の提案に乗じたのも、三蔵自身だ。
罪悪感が、胸の内を燻る。
「……虹は、空が晴れれば何れ消える。」
「……。」
「空が晴れれば、雨が止むのと同じだ。」
「……。」
原理は、きっと理解したのだろうけれど。
それでも納得できないのか、悟空は俯いたままだった。
「……そんなに宝が欲しかったのか?」
聞けば、悟空は首を振った。
「宝が欲しかったとか、そんなんじゃなくて……。」
「じゃあ、何だ。」
「……なんか、ココがギュってなって、苦しくなって……。」
悟空は言いながら、胸元に手を置き、服を強く握った。
「キレイだったのに……。何時までも、見てたかったのに……。」
何時までも、空に架かっていて欲しかった。
何れ消えてしまうものだと、分かっていても。
綺麗だったのだ。
魅入られたのだ。
初めて見た、七色の橋に。
「……じゃあ。」
三蔵は徐に呟いて、空を見上げる。
その声を聞いて、悟空が顔を上げた。
そして、空を見上げる三蔵に釣られて、悟空も同じ様に空を見上げる。
「虹をまた見つけたら、探しに行くか。」
その提案は、またしてもほんの気紛れ。
聞いた悟空は、キョトンと首を傾げて「何を?」と問う。
三蔵は、視線を空から悟空に移して。
「宝、だ。」
言えば悟空は暫し目を丸くしていたが、やがて大きく頷いて、飛びついてきたのだった。
あれからというもの、何度か虹を見かけたことがある。
けれど、実際に約束した通りに宝を探しに行ったかと言えば、そうではなかった。
虹が出る度、悟空は矢張り魅入られたように、一心不乱に見詰め続ける。
実際、魅入られているのだろうけれど。
そして、虹が消えていく時は、初めて虹を見たときと同じ様に泣き出しそうになるのだ。
そんな表情も、年々薄れていった。
悟空の中で、何かしら納得したのかもしれなかった。
「へぇ……そんなことがあったんですか。」
悟空が語った当時の話を聞いていた八戒が、珍しそうに三蔵を見遣る。
その視線を感じて、三蔵は心中で舌打ちした。
「もう、宝探しはいいんですか?」
問い掛ける八戒に、悟空は少しばかり首を傾げて。
そして、ふるふると首を横に振る。
「いいんだ。」
「何で?宝、ホントに埋まってるかもしんねーぜ?」
意地悪そうに、悟浄が横槍を入れる。
それに悟空は不貞腐れたように、頬を膨らませて悟浄を睨み付けた。
「いいんだよ!」
「だーかーら!何で?」
「……だって。」
どうしても理由を聞き出したいのか、悟浄が執拗に迫る。
悟空は唇を尖らせ、三蔵をチラリと見た。
そんな悟空の視線を、三蔵は気付かぬフリをして受け流した。
「だって……宝なんて、いらねーから。」
だって、思うのだ。
確かに、虹の袂に埋まっているという宝の話に興味を持った。
けれど、やがて消えてしまう虹に、追いかけても追いかけても、結局は追いつけないことを知った。
消えてしまう虹を見詰めながら、こうして、自分の欲しいものは手に届かないのだと、その時思ったから、空の橋がが消えてなくなっていく時はとてつもなく寂しくて、悲しかった。
手を伸ばしても届かないのは、三蔵と一緒。
いつも自分よりずっと先を歩いている三蔵と虹が、重なって見えたのだ。
でも。
こうして今でも、三蔵は傍に居てくれる。
今でも三蔵は、自分よりずっと先を歩いているけれど、三蔵が消えてなくなることはないのだと、分かった。
それだけで、充分。
あの綺麗な虹も三蔵と一緒だけれど、悟空にとって三蔵という存在は、宝物と一緒だ。
こんなに、いつまでも傍に居たいと思わせる。
こんなに、ずっと好きで居させてくれる。
何より、傍に居ることを許してくれている。
高価な宝石も、沢山の金貨も要らない。
悟空にとって三蔵は、何よりも大切で、それが宝物と言わずして何だというのだろう。
宝は、手に入れた。
だからもう、宝探しをしなくてもいいのだ。
「……そうですか。」
ニッコリと笑って、八戒が淹れたてのココアを差し出してくれる。
一口飲めば、雨に濡れて少しばかり冷えた身体がほんのりと温かくなった気がした。
その日の夜。
夕食を終え、風呂にも浸かって、寝る準備は整った。
今日は二人部屋が二つ取れたので、三蔵と一緒だ。
既に寝る態勢の三蔵は、丁度ベッドに横になるところだった。
悟空は部屋の電気を落とし、ペタペタと歩いて自分に宛がわれたベッドに潜り込もうと思ったのだが。
チラリと振り返れば、三蔵はこちらに背を向けている。
数秒考えて、悟空は三蔵が眠るベッドに近付いた。
「三蔵、眠っちゃった?」
聞けば、即座に。
「寝た。」
素っ気無い返事。
それにクスリと笑って、徐に上掛けを捲り、同じベッドに潜り込む。
「おい。」
「いーじゃん。」
直ぐ様咎められたけれど、最終的には許してくれるのを知っている。
本当に咎めているのだったら、蹴落とされているだろうからだ。
「へへっ。温かい。」
三蔵の背中に擦り寄れば、より温もりが伝わってくる。
その温もりが心地好くて、段々と瞼が重くなってきた。
眠りの淵まで、あと少し。
そんな時に、背中越しに三蔵が話し掛けてきた。
「……宝は、見つかったのか。」
多分、三蔵は分かってて聞いてくるのだ。
自分にとっての宝が何なのかを。
それでいてそんなことを聞いてくるのだから、意地が悪いと思う。
思うけれど、眠りの淵から落ち始めた悟空には、そんな意地悪さはどうでもよかった。
「見つけたよ、宝物。……一番、大事で……ずっと、ずっと……俺だけの……。」
やがて、規則正しい寝息が聞こえてきて、三蔵は身体を反転させる。
そこには、眠りこけた猿が一匹。
幸せそうに、何やら笑んでいる。
悟空が思う宝物が、自分を指していることは分かっていた。
そうだと言われた訳ではないけれど、言われなくても分かる。
悟空が思うように、自分もそう思っているからだ。
『一番、大事で……ずっと、ずっと……俺だけの……。』
寝入る間際の悟空の言葉を引き出したかったのは、三蔵の我侭だ。
悟空から与えられる信頼と愛情を受けるのが、何時の間にか喜びとなってしまっているのだ。
「相変わらず、馬鹿面。」
一つ苦笑をして、悟空を起こさない様に腕を絡め、抱き込むと、悟空はもう一度幸せそうに笑った。
なちさま/beat sweet
なちさまのサイト「beat sweet」の三空の日記念フリー小説をいただいてきました。
綺麗な虹と綺麗な三蔵を重ねて見る悟空に途中ちょっと切ない感じもしましたが、最後は甘く終わっていただけてほわほわです。
で、ちゃんと言葉に出していってほしかったのね、三蔵さま(笑)
なちさま、暖かな気持ちになれるお話をどうもありがとうございました。