例年に無い寒さだと騒がれた冬も、彼岸が過ぎて、春へと移り変わったはずなのに。
3月の末から降り出した雨は、やがて、雪に変わった。
その雪は、静かに舞い落ち、地面を薄らと白く変えていく。
そんな春の矢先に降る雪を、「名残り雪」というのだと八戒が教えてくれた。

名残り雪



朝、カーテンを開けてみれば、そこには季節外れの銀世界が広がっていた。
隣の寝台では、まだ三蔵が眠っている。
それもそのはず。
先月の半ばくらいから多忙になった三蔵が、突然変化した気温に伴って、体調を崩したのだ。
余程我慢していたのか、それともプライドが許さなかったのか、いざ三蔵が耐え切れずに倒れた時には、余りの高熱で。
僧達が慌てふためいていたものだ。
極度の過労状態で風邪をひいた上、体調不良であることを周りに漏らさずに居た為か、三蔵は肺炎になりかけていた。
否、悟空は三蔵の体調不良に気付いていたのだけれど。
悟空が言い咎めることを、三蔵が聞くはずも無く。
結局悟空は、僧達に「何故お前は、三蔵様と同室であるのに気付かなかったのだ」と責められ、悟空も悟空で三蔵を説得することが出来なかったことを悔やむことになった。

三蔵の体調は、山場を抜けた。
けれど寝台から抜け出る事は、医者から禁止されていた。
熱が、まだ下がりきっていない為だった。
無論、三蔵の愛煙するマルボロも、お預けだ。
その隠し場所は、悟空しか知らない。
悟空は、カーテンを少し開けたまま。
三蔵が眠る寝台に近付き、額に手を宛てた。
感じる三蔵の熱は、まだそれと分かる程熱い。
三蔵が倒れた時は、このまま燃えてしまうのではと思うほど熱かった。
そう考えれば、今の状態は大分下がった方だ。
そう無理矢理思うことにして、悟空はここ数日の日課となった、ストーブに火を点けた。
それから、先日八戒と悟浄が見舞いだと言って持ってきた加湿器のスイッチも入れる。
「風邪に乾燥は、大敵です」と、八戒が言っていた。
だから、加湿器は三蔵の枕元に置いてある。

日課を済ませてしまえば、悟空には他にすることが無かった。
何時もなら、外に遊びに出てしまうけれど。
三蔵が伏せっている今、そんな気にはなれそうにもない。
三蔵が眠る寝台の傍には、自分が座る用の椅子が置いてある。
其処に腰掛けて、眠る三蔵の顔を見詰めていた。
顔色も、幾らか良くなってきた方だと思う。
医者も回復に向かっていると、昨日来た時に言っていた。
だからきっと、三蔵が何時もの調子を取り戻すのももう直ぐなのだろう。
けれど、三蔵が倒れた時から、悟空の心の中には、小さな小さな影がある。
それはこうして眠っている三蔵を眺めている間、じわじわとその存在を大きくしていくのだ。
その影の正体は、分かっている。
不安、というやつだ。

「ねぇ、三蔵。」

悟空は徐に、眠っている三蔵に話し掛ける。
そう、何時もの調子で。

「八戒がな、『今年はどうしましょうか?』だって。」

眠っているのだから、当然に返事は無い。
そんなことは分かっているのだけれど。
それでも矢張り、何時もの調子で。
けれど眠っている三蔵の邪魔をしないよう、声の大きさを加減して話し掛ける。

「三蔵、忘れてんだろ?もう直ぐ、俺の誕生日じゃん。」

自分の誕生日がもう直ぐだと、自分で申告するのは何だか、プレゼントをせがんでいるようだ。
実際、そんな思いは勿論あったりもするのだけれど。

「三蔵。桜、咲いてんだぜ?」

言いながら、悟空はゆっくりと視線を窓に移した。
そこからは、太陽の光は差し込まない。
数日前から重苦しい雲で覆われた空からは、季節外れの雪が舞い落ちているからだった。
正しく、"花冷え"と言われるそれだった。
この数日間降り続ける雪は、薄らと地面を白くするだけで、深く積もることは無い。

「三蔵。せっかくキレイに咲いてんのに、こんな天気じゃ可哀想だよな。」

同意を求めてしまったけれど、それに答えは矢張り無かった。
悟空は小さく嘆息する。
これが、何度目かの溜息かなんて、数えていないけれど、三蔵が倒れてから溜息を吐く回数は増えたに決まっている。
立ち上がり、室内と外気の温度の差で、白く曇った窓を掌で拭って。

「三蔵……『名残り雪』が、まだ止まないんだ。」

その呟きは、随分と心細く室内に響いたのだった。




頭が酷く重苦しく、まるで金槌か何かで殴られているようにガンガンと痛む。
ギリと奥歯を噛み締めて痛みを堪えようとするが、それは失敗に終わった。
意識が浮上しているのが分かっているけれど、瞼がまるで張り付いてしまっているように開くことが出来ず、仕方がないとそのままの状態で居ることにした。
ふと、気付いた人の気配。
自分の直ぐ傍に居るのが分かる。
その気配が誰のものかも、直ぐに分かった。
どことはなしに安堵している自分が居るのは、きっと病に伏せている所為だという事にして、その気配の主に意識を集中させる。
何時に無く大人しいその存在は、じっとこちらを見詰めている様子だった。

「ねぇ、三蔵。」

突如として話し掛けられ、それでも熱の所為か、声は遠くから聞こえてくる気がした。
それから、まだ朦朧とする意識の中、唯一つの声が、ぼんやりと大きくなったり小さくなったりして耳に届く。
『三蔵』と呼ぶ、声。
普段どおりに話し掛けてくる割に、自分の名前を呼ぶ回数が多いなと、矢張りぼんやりとした意識の中で思う。
そして聞こえた、最後の言葉。

「三蔵……『名残り雪』が、まだ降ってるんだ。」

どうして猿が"名残り雪"なんて言葉を知っているのかとか、そんなこともふと過ぎったりもしたのだけれど。
それよりも、そう呟いた声が余りにも心細く聞こえてしまい、朦朧としてながらも心中が動揺しているのが分かった。
きっと、確かに心細いのだろう。
きっと、不安に思っているのだろう。
自分がこんな状態で居るのに、何時ものように元気で居られるほど、あれはそこまでバカじゃない。
もう一度瞼を持ち上げようと試みたけれど、それは適わなかった。
気配が、窓辺の方に移動していることを知って、心がざわついた。

───『名残り雪』、か……。

先程、話し掛けてくる悟空が、桜がどうとかと話していた。
自分の記憶の中の最新の桜の状態は、まだ蕾がふっくらとしてきていたところだ。
どれほどの間、自分がこうして病に伏せているのかは分からないけれど、きっと桜がもう咲いているのだろう。

───サイアクだな……。

この様といったら。
元はと言えば、悟空はこちらの体調不良にちゃんと気付いていて、心配してくれてさえ居たのに。
それでも悟空の進言を聞くような性分ではないし、それに無理をしたのには理由があった。
4月に入ったら直ぐに、花祭りがある。
いくら普段、細々とした行事には面倒だと欠席していても、寺を挙げての祭事となれば別だ。
花祭りの準備で、寺の僧共は大忙しだった。
それは当然、寺の責任者である三蔵も一緒で、唯でさえ雑務がある上にそういった準備も重なり、仕事は常に無く山積み状態。
けれど文句も言っていられない。
何故なら、どうしても一日、休みを取りたい日があったからだ。
大概湧いているとは思うけれど、そうせずには居られなかった。
五行山から拾ってきた頃は、まだ幼子のようにしていた悟空だったけれど、共に過ごしているうちに、あれも多少は大人になったのだろう。
最近、めっきり我侭が減った上に、寺の中では大人しくなった。
聞き分けのいい猿は、気色が悪い。
成長すべきは喜ばしいことなのに、この矛盾した居心地の悪さといったら無かったから、自分は決意したのだ。
近く迫った悟空の誕生日とした日、仕事を一切放棄してあれの好きなようにさせてやろうと。
その一日の休みを確保するのに、無理をした。
無理をした所為で体調を崩し、あれの前で倒れた。

───サイアクだ……。

三蔵はもう一度心中で呟いて、ゆっくりと息を吐いた。
じっとしていた所為か、幾らか身体が楽になった気がしたので、瞼を持ち上げてみることにした。
まず視界に入ったのは、見慣れた天井。
緩慢な動作で視線を移動させると、窓辺に立つ悟空が居た。
じっと佇み、微動だにしない。
声は、出せるだろうか。
自分の身体なのに、そうでない気がして、一々考えないと腕一本も動かせやしない。
口を開き、大きく息を吸って、腹に力を込めた。

「───悟空。」

酷く掠れてはいたが、声は出た。
それに少し安堵する。
悟空はビクリと身体を震わせ、それからゆっくりと振り返った。

「悟───。」

もう一度呼ぼうとしたけれど、それは叶わなかった。
悟空が、泣き出しそうに、それでいて微笑んだから。

ああ、なんて悲しい笑顔なのだろう。

それだけ、寂しくも、不安にも、悲しくもさせたのだろう。
そんな顔をさせたかった訳ではなかったのに。
未だ今一つ言う事を聞かない自分の身体に叱咤し、なんとか半身を起こすと、悟空は慌てて寝台に駆け寄った。

「三蔵、無理すんなよ。」
「無理なんか、してねぇ。」

そんなことを言ってみるけれど、近寄った悟空が背中を支えていてくれているから、なんとか身体を起こしていられる。
明らかに、無理をしていた。
それでも減らず口を叩くのは、矢張り性分だった。

「三蔵、何か飲む?」

甲斐甲斐しく世話をし、気遣ってくる悟空の態度に、胸の内が痛まないと言ったら嘘になる。
但し、そうとは見せないけれど。
水差しを手に、心配そうにこちらを覗き込んで来る悟空の手を取って。
それからそっと抱き締めれば、腕の中で悟空が小さく息を呑んだ。

「……悪かったな。」

素直に謝ってみれば、抱き締めた悟空が小さく震えた。
そして、ふるふると小さく首を振る。

「分かってるから。」

三蔵が、何故無理をして執務をこなしていたのか。
本当は分かっていた。
言葉や明からさまな態度では示したりしないけれど、三蔵が優しいのはちゃんと知っている。
そんな、自分のためにそんなことをしてくれなくてもよかったのに。
だから、余計に辛かった。
三蔵が倒れてしまったこと、体調を崩している三蔵を、止めることが出来なかったこと。
何より、三蔵が無理をしてくれたことを喜んでしまったことが。

「ごめ……なさっ……。」

震える声では、巧く謝ることが出来なかった。
三蔵が無理してまで休みを取ろうとしてくれたことを、嬉しく思った、だから三蔵が倒れたのは、自分への罰だ。
喜ぶことなんて、自分には痴がましいことだったのだ。

「テメェが謝って、どうする。」
「だって……っ。」

腕の中で鼻を啜り、震え泣く悟空の両頬を包んで、三蔵は顔を上げさせた。

「俺、嬉しいと思った。三蔵が具合悪いのに、無理してくれること、嬉しいと思った。だからっ……!」

だから、三蔵が倒れたのは自分の所為だと、この子供は言うつもりだろうか。
そんなこと。

「お前の所為じゃねぇ。」
「でもっ!」
「勝手に無理したのは、俺だ。」
「っ───。」

言い聞かせても、固く目を瞑り、何度も首を振る悟空を見て、三蔵は溜息を吐いた。
矢張り。

───サイアクだ。

悟空を不安にさせ、辛い思いをさせ、更に自己嫌悪に陥らせて。
全く以って、情けない。

「悟空。」

呼べば、徐に悟空は顔を上げた。

「5日は、奴らに好きにしろと言ってある。」
「……三蔵、は?」
「寺の連中を言い包めるなんて、造作ねぇ。」
「……5日、明後日だよ?」
「だからどうした。」

そこまで話せば、悟空は再び、涙を浮かべながら笑顔を向けた。

「ありがと、さんぞ。」

ぎゅ、としがみ付いて、小さく言う悟空に、矢張りどこからしくないと思いながらも。
それでも悟空が喜ぶのなら、と思ってしまう辺りがどうかしているのだが。
三蔵は悟空を抱き締めたまま、窓の外に目を向けた。
降り続く名残り雪も、一人で眺めるには心細いが。
二人で見れば、それはそれで風情がある。
だから、明後日、たとえまだ雪が降っていたとしても。
二人で眺めればいい。
そう思い、悟空を抱き込んだまま寝台に横になり、慌てる悟空を無視して目を閉じた。
悟空の体温が、優しく染み込んでくるようで、眠りは直ぐに訪れたのだった。



なちさま/beat sweet


なちさまのサイト「beat sweet」の悟空お誕生日記念フリー小説をいただいてきました。
無理して頑張って、その結果が…でも。悟空を本当に大切に思っているんだな、という三蔵がなんか嬉しいです。
なんだかふわりとした心持ちになるお話をどうもありがとうございました。