緑桜


灌仏会が終わり、束の間、三蔵の仕事は暇になる。
暇と言っても通常業務に戻るだけなのだけれど、それでも年に何度かある大きな行事の前の忙しさに比べれば遙かに暇なのであった。
暇なのだが、書類の山は相も変わらずで、何処が暇になったと訴えたい気分の三蔵だった。

「…ったく、減らねぇ…」

いい加減手が疲れて、少し痺れてきた三蔵は筆を投げ出し、傍らの煙草に手を伸ばした。
火を点けて立ち上がり、窓辺へと向かう。
口に煙草をくわえたまま窓を開ければ、ふわりと風が三蔵の金糸に触れた。

桜の花の時期も終わり、庭先の桜の木々は柔らかな緑の葉に覆われている。
うららかと言うには少し強くなった日射しの明るさに紫暗を僅かに眇めて、三蔵はしばらくその新緑に視線を投げ、柔らかな風に身を任せていた。
やがて、長くなった灰を窓から落とし、短くなった煙草を窓の桟で揉み消す。
そして、吸い殻を投げ捨てると、諦めたようなため息を一つ吐いて、執務机に戻った。
いつもよりは少ないはずの書類を一束取って、椅子に座った途端、それを待っていたように執務室の扉が開いた。

三蔵の執務室の扉を応えも無しに開けて入ってくる勇者はこの寺院には二人しかいない。
一人は、三蔵の傍仕えを勤める僧侶である。
が、彼はよほどの緊急事態が起こらない限り、そのような荒技を行う人間ではない。
そして、もう一人は、三蔵の養い子である。
この子供は、三蔵が何度力を持って躾ようが、その行動を改める気配はない。
最もこの子供が入室前に扉をノックでもしようものなら、何かあったとしか思えないのだが。

勢いよく開いた扉と同時に名前を呼ぶ声に三蔵は眉間の皺を深くして、小さなため息を吐いた。
そして、

「静かに入ってこいといつも……」

顔を上げて怒鳴りかけた三蔵の顔が驚きに染まり、そのまま固まった。
そこには、一抱えもある桜の枝を抱えた悟空がいた。

「さんぞ、すっげぇだろ」

弾む声が桜の枝の向こうから聞こえる。
その声に三蔵はその花の枝を悟空が誰から貰ったのか、容易に想像が付いた途端、目眩を覚えた。
が、ここで気を失って現実逃避するには余りに、余りな状況に三蔵は椅子に座り直した。

「…悟空」

名前を呼べば、ばさりと花が置かれ、悟空のはにかんだような、ばつの悪そうな表情がようやく見えた。
そして、

「何でこうなったのか、ちゃんと話せ」

言えば、悟空は驚いたように金瞳を見開いた後、ふわりと笑って、頷いたのだった。












八重桜の花が満開を迎えたと、風が教えてくれた。
だから、風に導かれて裏山へ入り、辿り着いたのは桜の林だった。

そこには、春、既に咲き終えた桜の若緑の葉と、赤味の強い若葉を背に八重桜の重たそうな花が枝々にたわわに咲いていた。
薄紅、紅、白の花々が風に揺れている。
仄かな桜の花の香りと新緑の薫りに包まれて、悟空は誘われるまま林の中に入って行った。

「うわぁ…きれー」

目に映る八重桜の花々にそれは嬉しそうに笑って、悟空は林を歩き回った。
花達は花弁を振るわせて、大地の御子の訪れを喜び、普段にはない輝きを放つ。
愛しい御子の笑顔を自分だけに向けようと争う乙女の姿に似て、桜の林はより華やいだ。
八重桜の咲き競うその桜の中、悟空は一本の桜の前で立ち止まった。

「緑…?」

見上げた花は白いようにも見えたが、よくよく見れば緑の色を持っていた。

「緑の…桜…?!」

それは薄茶色に葉先を染めた若葉に溶けているように見えて、違う薄緑の八重の花びらがそこにあった。
花の中心を恥じらうような微かな薄紅に染めて、花弁は薄緑の衣を纏った桜。
その可憐な姿をぽかんと見上げる悟空に笑いさざめく声が聴こえ、目の前に突然、枝が落ちてきた。

「うわっ!」

驚いて飛び退く悟空の足下に、桜の枝が軽い音を立てて落ちる。
何がどうなったのか、落ちてきた枝と桜の木を交互に悟空は見やり、戸惑った視線を投げた。

「えっと…」

そして、どうしたものかと周囲を見回す悟空の耳に、桜の聲が聴こえた。

「くれ…るの?いいの?…確かに珍しいけど…」

桜の言葉に困惑した表情を悟空は見せる。

「だからって…こんな大きな枝……」

そう言って拾い上げた枝は一抱えもあった。
その大きさに悟空は申し訳なさそうな表情で、目の前の緑の八重桜の木を見上げる。

「こんなに落としたら…痛くない?枯れない?」

悟空の心配に軽やかな笑い声と共に、こんなことで枯れはしないと、聲が聴こえる。
その聲に悟空が安堵の吐息を漏らせば、ふわりと風が薫って、もう一度、”気にするな”と、緑の八重桜は枝を振るわせ、花を揺らした。

「うん…わかった。じゃあ、遠慮無くもらうな」

桜の優しく、そして何処か誇らしげな聲に、悟空は何度も頷き、ようやく晴れた空のような明るい笑顔を浮かべ、その枝を受け取ったのだった。













「本当にあいつらは…」

悟空の話に、三蔵が頭を抱えてため息を吐いた。

「…うん、俺もそう思う」

三蔵のため息に悟空も頷けば、三蔵は苦笑を浮かべた。

「さて、どうしたものか…」

桜の枝の傍まで三蔵は近づき、その扱いに渋い顔を見せた時、執務室の扉が開いた。
そして、笙玄が今度はその場で固まった。

「これは…また……凄い…」

執務室の床に置かれた桜の大きな枝を見つめて笙玄が、その美しさにため息混じりに呟く。
そして、花の色に気付いて、また、驚いた顔を見せた。

「み、緑……の、桜…ですか?」
「うん、そう。すっげぇ珍しいだろ?」
「はい…本当に」

笙玄の言葉に嬉しそうに頷く悟空に、笙玄はほっとしたような、けれど何処か畏れを抱いたような笑顔を浮かべた。

悟空は大地母神が生み落とした子供だと、三蔵から聞いた。
だから、大地と自然は悟空をそれは慈しみ、愛でる。
例えば、悟空が綺麗だと花を褒めれば、花達は競ってその美しさを競うように咲き誇り、その身を投げ出して悟空の傍らに居ようとする。
例えば、悟空が美味しそうだと木の実を褒めれば、実は甘い芳香を競って放ち、悟空の手元へ花達と同じようにその身を投げ出してくる。
大地は、自然は少しでも悟空が笑っていられるように、幸せであるようにと、献身を惜しまないのだと、三蔵は教えてくれた。
親ばかも甚だしいとは、三蔵の言葉で。

だから、こういった人の目には触れたこともない珍しい花が、人の力では手折れそうにもない大きな枝が、それも手折るのを憚る桜の枝が目の前にある理由を考えれば、笙玄にはただ、畏れが先になってしまう。
その思いを抱いたまま桜の傍らに立つ三蔵へ視線を向ければ、三蔵は何処か不機嫌な顔をしていた。
それを見て、笙玄は三蔵も自分とは違う意味で、どことなく気分が重いのだと、纏う雰囲気で感じた。
けれど、素直な好奇心も湧いて来るわけで。

「で、これ…どうしたんですか?」

そっと桜に触れて問えば、

「サルが連中から貰ってきたんだよ」

と、悟空ではなく、三蔵から答えが返ってきた。

「はい?」

三蔵の言葉に悟空を振り返れば、悟空は困ったような、はにかんだような表情を浮かべていた。

「連中って…?」

至極最もな笙玄の問いに、悟空と三蔵は顔を見合わせる。
その様子に笙玄は、この桜を悟空に渡したのが誰なのかを悟り、ようやく得心がいったとばかりの笑顔を浮かべた。
そして、

「このままでは枯れてしまいますから、ちゃんと花瓶に入れてあげましょうね」

そう言った。
その言葉に悟空は嬉しそうに頷き、三蔵は大きなため息を吐いたのだった。

それからしばらく、珍しい緑の桜が、三蔵と悟空の住む部屋を飾っていた。



michikoさま/AQUA


michikoさまのサイト「AQUA」の5周年記念企画のフリー小説をいただいてきました。
その1「春のお話」
美しく咲き誇る桜の情景が目に浮かぶようで、いつもながらmichikoさまの文章は凄く清澄な感じで心が洗われるような気がします。なんかふぅって息がつけるような気がするんですよね。森林浴をしてるイメージでしょうか。
緑の桜。そんな珍しい桜を惜しげもなく与えるなんて、本当に悟空は愛されてますよね。三蔵さまもそれは取られちゃうんじゃないかと心配でしょうねぇ(笑)
ところでこの緑の桜。「御衣黄(ぎょいこう)」というのだと教えていただきました。(ありがとうございましたv michikoさま) ネットで検索をかけると写真が見れます。ホントに緑なんですよ。びっくり。死ぬまでに一度見てみたいな、と思ったまりえさんでした。
(追記)
その後、見れました! 「御衣黄」
このページの写真がそうです。ご覧の通り、ホントに緑です。すごい不思議な感じがします。