涼風


今日も暑い。
暑いと言ったら暑い。

じっと座っていても汗がじわりと湧き、背中と言わず流れる。
筆を持つ手も汗で濡れて気持ち悪い。
手が触れる紙が汗で張り付いて鬱陶しい。

何より、窓を開けているにもかかわらず、熱気ばかりが入ってきて、涼しい風なんぞ欠片も吹いて来ない。
背中から当てられている扇風機の風も生ぬるいばかりで暑さを払う役目を果たしているとは思えなかった。
机の上に先程笙玄が持ってきた冷たい麦茶のグラスだけが、涼しげに露をつけている。
が、それが暑さを払うわけではなく、三蔵はもう嫌だとばかりに筆を投げ出すと、執務室から姿を消した。













「笙玄、三蔵様はどちらにいらっしゃる?」
「はい?」

笙玄の仕事部屋を応えもなく開けた勒按の剣幕に、笙玄は持っていた書類をもう少しで床にばらまく所だった。

「だから、三蔵様はどちらにお出でになるのだと、訊いている」

要領を得ない笙玄に勒按は、苛立ちを隠すことなく、三蔵の居場所を訊いてくる。

「どちらって…執務室にいらっしゃいますけど?」

何を言っているのだと言う笙玄に向かって勒按は怒鳴った。

「執務室にいらっしゃらないから、訊いておるのだ!」

その言葉に笙玄はびっくりしたが、それは怒鳴られたことにであって、三蔵が執務室にいないことにではなかった。

「そうですか…そろそろとは思っていましたが、案外我慢なさったんですねぇ」

笙玄の独り言じみた言葉に、今度は勒按が目を見開く。

「何を言っておるのだ?」
「あ、いえ…何でも…。で、何かお急ぎのご用でも?」

訝しげな勒按に、何でもないと笑いかけ、素知らぬふりで話しを元に戻す。
笙玄の言葉に勒按は、はたと気付いて眉間に皺を寄せ、笙玄に詰め寄った。

「おお、そうであった。皇帝陛下が夏の避暑にお出かけになられる往復の道中と滞在中の安全のご祈願にご下向されたのだ」
「皇帝陛下が?!」

勒按の言葉に今度は笙玄が驚く。

「そうだ。三蔵様に是非と、客殿でお待ちなのだ」

続けられた勒按の言葉に、笙玄は思わず天井を見上げた。

今日は朝からとても暑かった。
それはもう、じっとしていても汗が噴き出る程だ。
その上、午後からは僅かばかり吹いていた風も止まり、息苦しい程の暑さになっていた。

そんな中、三蔵は朝から真面目に仕事をしていた。
いつもならとうに逃げ出しているはずの三蔵がだ。
急ぐ書類が多かったのが理由と言えば、理由で。
午後のこの時間までよく持った方だと笙玄は内心、思っていた。

夏が苦手なのか、三蔵は暑いとすぐに何処かへ姿を隠してしまう。
たいていの場合、涼しい本堂の石の床に薄い敷物を敷いて、昼寝をしていたり、彼の養い子が見つけた涼しい場所に居たりする。
すぐに三蔵は見つけられるだろうと笙玄は一つ頷き、勒按に告げた。

「三蔵様をお捜しする間、陛下のお相手をよろしくお願い申し上げます」
「わ、わかった…」

笙玄の言葉に勒按は硬い表情で頷いたのだった。












そんなことが起こっているとも知らず、三蔵は寺院の裏山の奥へ来ていた。
自分の養い子である悟空が、暑い時に来ると涼しくて気持ちいいと教えてくれた場所だ。

木々の作る日陰と森の冷えた空気に三蔵の暑さによって下降を辿っていた機嫌が上向いてくる。
時折吹く風が、汗に湿った躯に心地よかった。

だらだらした坂を上りきり、登ってきた道を右手に見ながら山道を辿る。
微かに聞こえる水の流れの音に、険しかった三蔵の顔が綻んでゆく。
道に被さった茂みを抜けて、ようやく三蔵は目的の地に着いた。

そこは、湧いた水が溢れ出て、流れ落ちる川の源泉の一つだった。

岩の間から湧き出る清水が寄り集まり、一つの流れになって池に落ちる。
その池から水がまた溢れ、一つの流れになって、川になり、山を流れ下っていた。

三蔵は流れの上、池の縁に立つ木の木陰に腰を下ろした。
水面を渡る風が冷たく、歩いてかいた汗と暑さにかいた汗を乾かして行く。
その心地よさに三蔵は大きく息を吐き、木に背を預けて目を閉じたのだった。













一通り寺院内を三蔵を探した笙玄は、寝所の中庭で悟空の姿を見つけた。

「悟空、三蔵様を見ませんでしたか?」
「へっ?!」

きょとんと笙玄を見返してくる悟空の様子に、笙玄はこれは三蔵は見つからないと、確信する。
そう、悟空が三蔵の居場所を知らないと言うことは、これから悟空が三蔵を探して、戻ってくるように悟空が三蔵を説得してということだ。
けれど、三蔵が悟空の説得に応じることは滅多にない。
むしろ、ミイラ取りがミイラになることは必定だ。





さて、どうやってあの…三蔵様大好きなお方を宥めましょうか…





どうかしたのかと、見上げてくる悟空に、小さくため息を吐きながら、笙玄は客殿に待つ皇帝に何と言い訳をしようかと考え始めながら、もう一度念を押す。

「知らないのですね」

笙玄の念を押す言葉に、悟空は困ったような顔で頷きながら聞き返した。
悟空も笙玄の様子から三蔵がまた、逃げたことに気付く。

「逃げた?」

確認するように悟空が問えば、

「はい、それはもう綺麗さっぱり」

いっそ清々しい程の笙玄の返事と口調に、悟空は思わず声を立てて笑った。

「用事があるんだ」

くすくすと笑いながら笙玄を見やれば、

「まあ…ねぇ…でも、何とかしますからいいんですけど…」

笙玄は困ったような諦めたような顔付きをしていた。
その様子に悟空は結構大事な用事があるのだと気付く。

「探して引っ張って来ようか?」

伺えば、

「でもねえ…今からじゃちょっと遅すぎると思いますので、引っ張って来なくても良いですから、探して伝言をお願いします」

何事かを決めた答えが返ってきた。

「うん、いいよ」

頷く悟空に、笙玄は、

「では、明日、たっぷりと大将のお相手をよろしくお願いしますって」

と言って、それはそれは優しい笑顔を見せたのだった。
その笑顔に悟空はヒヤリとした空気を感じて、

「……怒ってる?」

と、恐る恐る問えば、

「少しですよ、悟空」

と、また、優しい笑顔が返ってきた。
そして、

「では、後始末に行ってきますので、三蔵様への伝言頼みましたよ、悟空」

ぽんと、悟空の肩を叩いて、笙玄は踵を返した。
その背中を見送って、悟空は明日の三蔵の姿を思って小さなため息を吐いたのだった。



michikoさま/AQUA


michikoさまのサイト「AQUA」の5周年記念企画のフリー小説をいただいてきました。
その2「夏のお話」
悟空をちゃんと理解して接してくれる笙玄さんは大好きvです。
結局、三蔵さまをお休みさせてあげた…んですけど、三蔵さま、あとがとってもたいへんだったそうです。
皇帝陛下、それってセクハラぢゃ…? いいな、権力者って。(マテ) みたいなオチがあるそうで。ちょっと読んでみたいですよね、その話(笑)