夜香


冴え冴えと辺りを照らす月の光に浮かび上がるように白い大輪の菊が溢れるように咲いていた。
辺りに漂う濃厚な花の香りが秋の夜を彩っている。

白い夜着のまま、悟空は眠れぬ夜の淋しさを紛らすように、寝所の庭先にいた。
冴えた月光が悟空の躯を包み、優しく愛し子の頭を撫でる。
その感触に悟空は仄かな微笑みを浮かべた。

そして、まるで今、ここにいない彼の人を思い出させるような姿で咲く真っ白な菊に悟空はそっと触れた。

「綺麗に咲いたね」

そう呟いて、悟空は夜露に濡れる白い花達に笑いかけた。






三蔵は月の初めから遠くへ出掛けている。
長い行列を設えて、皇帝と共に出掛けたのだ。
そんな行列に悟空が加えられるはずもなく、悟空は一人留守番となった。
三蔵が傍らに居ない間、悟空を心ない仕打ちから守るために、本来なら連れて行った方が楽である三蔵の側仕えの笙玄を悟空の傍らに置いていったのだった。

出発の日の朝、白い三蔵法師の法衣と金色の七条袈裟を纏い、金冠を頂いた三蔵が、紫暗を僅かに翳らせて見送りに起きてきた悟空を見つめた。

往復と滞在期間を含めてひと月。
悟空が三蔵の元に来てから初めての長期に渡る仕事だった。

悟空を拾ってからしばらくは、三蔵と離れることを怖がった悟空のために、遠出の仕事は極力断った。
寺院での生活に慣れてきた頃、今度は三蔵が心配で置いて行くことも出来ずに、遠出の仕事には何度か連れて出掛けた。
今は、一週間程度なら、三蔵も置いて出掛けることが出来るようになり、悟空も我慢して留守番が出来るようになった。

だが、これ程長い間、互いの傍を離れるのは三蔵も悟空も初めてだった。

一度は、行列に悟空を紛れ込ませて連れて行くことも考えた。
けれど、それはどう考えても無理な話で。
だから、笙玄を悟空の傍に置いて行くと決めた。
決めたが、やはり心配で、心許なくて。

気持ちに踏ん切りが付かないまま、出発の朝を迎えてしまった。

「いいか、大人しくしてろよ」
「…うん」

俯いた顔は未だに上がらない。

「何でも笙玄に言え」
「……うん…」

頷く大地色の頭が揺れる。

「悟空」
「………うん…大丈夫…」

名前を呼ばれてようやく上がった顔に浮かんだ仄かな笑顔に、三蔵の胸は痛んだ。
綻んだ金瞳が、悟空が告げた言葉を裏切って、揺れている。
行かないで、連れていってと、声なき聲が三蔵の胸を刺す。
けれど、口が裂けても連れて行ってやるとは、言えないのだ。

「そうか…」
「…うん」

三蔵は悟空の言葉に微かに頬笑んで、大地色の頭に触れた。
それに、一瞬、悟空は瞳を見開いて、悟空を見下ろす三蔵の微かに揺れる紫暗に、もう一度悟空は、今度はふわりと明るく笑って頷いた。
その笑顔に三蔵は小さく吐息をこぼし、背中を向けた。

「行ってくる」
「いってらっしゃい」

寝所の戸口で小さく手を振って、悟空は三蔵を見送った。






それがもう半月も前になる。

「あと半月…だって」

白い菊の花達にまた、笑いかけ、悟空は晴れ渡った夜空を見上げた。
そして、

「三蔵…俺、元気だからな」

そう言って、今度は花が綻ぶように笑った。












今日一日の全ての行事が終わって、三蔵は日付が変わる時間になって解放された。
与えられた部屋にある湯に入り、凝り固まった躯を解し、ようやく一息つくことが出来た。

濡れた髪を拭きながら、今日初めての煙草に火を点ける。
一息吸って、三蔵は躯からやっと力が抜けた気がした。
吸い込む煙草が、瘧のように溜まった疲れをほぐすような気がして、口元が僅かに綻んだ。

タオルを寝台に放り投げ、三蔵は窓を開け広げた。
途端、夜風が舞い込み、火照った躯の熱を奪って行く。
その心地よさに、無意識に三蔵の口から吐息が零れた。

そして、目を庭に向ければ、冴え冴えとした月光が辺りを青く染めていた。

「……?!」

ふと、呼ばれた気がして三蔵は辺りを見回し、やがて何を思ったのか、裸足のまま部屋に面した庭に下りた。
庭に降りれば、まるで水底のような薄明るい世界が三蔵を包む。
歩みを進めれば、冴えた月光の下、純白の花が煌めくように咲いていた。

「……菊か」

その白い花に誘われるように三蔵は花に近づく。

大輪の花。

重たそうにたくさんの花弁を厚く、丸く形作り、夜露に濡れて咲いていた。
その花の白さに、残してきた養い子を思い出し、三蔵の口元が綻んだ。

「泣いてねぇだろうな、サルは…」

誰にともなく呟けば、”大丈夫”と応えが聴こえた。
それに三蔵の紫暗が見開かれるが、すぐに、

「……そうか…笑ってればいい…」

と、柔らかな笑みを浮かべた。

三蔵の養い子は大地が産み落とした子供だ。
大地が、自然が愛して止まぬ愛し子だ。
そのことを三仏神から知らされた時、三蔵は素直に納得した。
悟空をあの岩牢で見つけてから、寺院へ連れ帰る道中で垣間見た姿や、一緒に暮らし始めて知った事実が三仏神の言葉を裏付けていたからかも知れないが、疑いを欠片も持たなかったことも事実だ。

そして、時折、本当に、ごくごく稀に、こうして大地からの聲が聴こえることも、三蔵を納得させることの一つだった。
いつも三蔵の中にあるあの悟空の声なき聲とは違う穏やかで、少し拗ねたような聲が聴こえるのだ。

大地と自然は、悟空をその手に取り戻したいと願っている。
その妨げになる三蔵を悟空から遠ざけたいと思っているらしいが、それをすれば悟空が悲しむことを知っている。
こうして聲を聴かせるということは、きっと、本意ではないのだろう。
けれど、寺院に残してきた悟空の姿にどうにも居たたまれなくなったからだろう事が三蔵は理解できた。
常に在る声なき聲は、淋しいと訴えているのだから。

基本的に大地と自然は悟空に甘い。
そのことがこうして、例え気紛れであっても離れた悟空の様子が知れて、三蔵には何よりのことだった。

「もうすぐ帰ると、気が向けば伝えてくれ…」

つんと、菊の花に触れて、そう三蔵は花に話しかけると、踵を返した。













冴えた月光に菊の甘い薫りが匂い立つ。
その夜の静寂に立つ姿は、今にも消えそうに儚い印象を見るものに与える。
そんな悟空をそこへ留めておこうとするように、月はその腕で悟空の躯を抱き込んだ。

と、悟空の躯が、ひくりと、震えた。

そして、驚いたように辺りを見回し、月を見上げ、やがて白い菊の花に視線を落とした。

「お前…なの?」

掠れるような声で問えば、花弁が誇らしげに揺れた。
それに悟空は大きく金瞳を見開いたかと思うと、泣きそうな表情を浮かべた。
そして、

「………うん…待ってる…待てるよ、三蔵…」

何度も頷いて、悟空ははらりと透明な雫をこぼしたのだった。



michikoさま/AQUA


michikoさまのサイト「AQUA」の5周年記念企画のフリー小説をいただいてきました。
その3「秋のお話」
暗い闇に浮かぶ白い菊に、悟空の涙が重なって、とても綺麗で切ないお話です。
初めての長い三蔵の不在に心が揺れる悟空の姿に、胸がぎゅって感じでした。これは…仲が悪くても、三蔵と悟空の間を取り持たずにはいられませんねぇ。かなり「自然」は不本意だったと思います(笑)