微笑


「何だ?!」

寝所に戻ってきた三蔵は、部屋の有様に思わず声を上げた。
その声に驚いたように、机の上に椅子を積み上げた山の陰から悟空が顔を出した。
戸口に立つ三蔵の姿を見つけるなり、嬉しそうに笑った。

「おかえりっ」

その笑顔に一瞬、三蔵は紫暗を見開いたが、走り寄ってきた悟空が手にしているモノを見て、眉間に皺を寄せた。

「何の真似だ?」

悟空の手にしたそれと、部屋の有様を見比べて問えば、

「えっと…すす払い」

と、答えが返った。

「すす払いだと?」
「うん!今日はすす払いの日で、すす払いっていうのは、正月を迎えるための準備を始める日…?なんだって。だから、俺もしたいって言ったら、笙玄がじゃあ、この部屋の拭き掃除をして下さいって」

悟空の誇らしげな説明に三蔵は目眩を覚え、今、ここにいない笙玄を撃ち殺す幻を一瞬、見た。

「…で、水浸しか?」
「えっ?!」

言われて、床を見れば薄く水が張ったようになっている。

「いや…あ、こ、これは…えっと…さっきバケツの水をひっくり返したから…だから…」

しどろもどろに弁解する悟空が握った雑巾からぼたぼたと水が垂れる。
それを見た三蔵の口から盛大なため息が漏れた。

「わかったから、その雑巾、ちゃんと絞ってこい」
「うわっ!」

指差されて手元を見た悟空が、足許に溜まった水たまりを見つけ、慌ててバケツの傍へ駆け寄った。
その後を三蔵は呆れ果てた吐息をこぼしつつ、続いた。

不器用な仕草で雑巾を絞る悟空の様子を暫く見ていた三蔵は、遂に見かねて悟空の手の雑巾を奪い取った。

「さんぞ…?」

驚く悟空を尻目に、三蔵は法衣の袂を結び合わせて背中に廻すと、雑巾を濯いできっちり絞り上げた。
そして、

「おら、扉の端から順番に拭いてこい」

と、悟空に手渡す。

「う、うん…」

悟空は三蔵の手際の良さにあっけにとられ、言われるまま、寝所の入り口、扉の端から床を拭き始めた。
三蔵はそれを見届けると、残った雑巾を絞り始めた。
それに悟空は床を拭く手を止めて、呆然とした顔でその様子を見つめていた。
そんな悟空の様子に気付かない三蔵は、雑巾を絞る手を止めて、

「……すす払いか…」

と、呟く。





───そう、そう…そうやって…そう、上手くできましたよ、江流





そう言えば、自分も悟空を怒れる程、器用ではなかったことを思いだし、三蔵の口元が微かにほころんだのだった。














「ああ、江流、ダメですよ。そんな風に握りしめても雑巾は絞れませんよ」

小さな手で雑巾を絞ろうと、悪戦苦闘している幼い養い子の手を光明三蔵は止めた。
そして、

「貸してごらんなさい」

そう言って、子供手から雑巾を取ると、

「こうやって、細くして…」

説明しながら絞って見せた。
その様子を熱心に見つめる養い子に、光明は柔らかな笑顔を向ける。

「やって、ごらん?」
「はい、お師匠様」

言って手渡した雑巾は、養い子の手に余る程の大きさであることに気付いた。

「江流、雑巾を絞るのは私がしましょう。お前は部屋の端から私が絞った雑巾で拭いて行きなさい」

指示すれば、養い子は、

「ダメです。お師匠様にそんなことをして頂くわけにはいきません」

そう言って、バケツの底に沈んでいたもう一枚の雑巾を拾い上げると、光明に言われた通りに雑巾を絞ろうとする。

「江流…」

その頑なな態度に、光明は小さくため息を吐いた。

「淋しいですよ?江流」
「はい…?」

光明の言葉に養い子がきょとんと、表情を無くすのへ、

「では、一緒にしましょう。そうすればお前も気が楽でしょう」

そう言って、光明は楽しそうに笑った。













───こんなすす払いは、楽しいですねえ…





困惑する自分を余所に、楽しんでいた光明三蔵の姿を思い出し、三蔵の表情が軟らかく変わって行く。
それを見つめていた悟空は、何だかとても落ち着かなくなって、思わず手に持っていた雑巾をバケツに投げ込んだ。
途端、上がる水しぶきに三蔵は我に返る。

「…っめてぇ」

顔にかかったしぶきを拭いながら振り返れば、悟空が怖いモノでも見た顔で三蔵を見つめていた。

「……何だ?」

悟空の様子に三蔵の表情が訝しげに曇った。
それに、

「三蔵……壊れた…?」

と、恐る恐る悟空が訊いてくる。
その問いに思わず三蔵は、ハリセンで悟空の頭を殴っていた。

「…ってぇなあ!何すんだよ!」

痛みに瞳を潤ませて悟空が三蔵を睨む。

「誰が壊れただ!誰が!」
「だって、雑巾絞りながら楽しそうに笑ってるなんて、ぜってぇ壊れたとしか思えねぇって」

そう言い返されて、三蔵の紫暗が見開かれる。

「らしくないことすっから…」

悟空の言葉は途中で止まった。
なぜなら、三蔵の笑い声が聞こえたからだ。

「さ…んぞ…?!」

本当にどうかなってしまったのかと、悟空は三蔵を見て、今にも泣き出しそうな顔をした。
そして、

「さんぞ、三蔵、大丈夫か?」

と、縋るようにして訊いてくる。
そんな悟空の頭を軽く叩いて、三蔵は違うと首を振った。

「あのな…思い出していたんだよ」
「な…何を?」
「昔のことだよ」
「昔の…こと?」
「そうだ」

三蔵の言葉にまだ納得できないのか、悟空が胡乱な視線を向けてくる。

「ホント?」
「ああ…」
「ホントに本当だな?」
「しつこい!」

納得しない悟空の頭を三蔵はまた、殴った。
その痛みに悟空は本当だと、ようやく納得したのか、大きな息を吐き、安心したように笑った。

「よかったぁ…」
「あのなぁ…」

悟空の余りな態度に言葉を紡ごうとした三蔵に、悟空は、

「三蔵、じゃあ、手伝ってくれよな」

そう言って、三蔵が絞った雑巾を手に取り、嬉しそうに笑った。
その笑顔に、反射的にいつもの言葉が飛び出しそうになったが、悟空の嬉しそうな笑顔に、ま、いいか…と、三蔵は肩を竦めた。

「なら、ちゃっちゃとやっちまえ」
「うん!」

元気な悟空の返事に、三蔵の口元に楽しそうな微笑みが浮かんだ。



michikoさま/AQUA


michikoさまのサイト「AQUA」の5周年記念企画のフリー小説をいただいてきました。
その4「冬のお話」
光明と江流のやりとりと、三蔵と悟空のやりとりと。過去から今へと受け継がれていくものがあるんだと思わせるお話。とても微笑ましくて、とても好きです。

フリーのお話をまとめて4つも攫ってきちゃいました。
…だって、どのお話も素敵で外せなかったんですもの。欲張りですみません。
michikoさま、素敵なお話をありがとうございました。