桜雪



いつも遊びに行っている裏山で、行ったことのない場所へ迷い出てしまった。
遊び慣れた場所、という油断が悟空を迷子にしてしまったようだ。
けれど、悟空は迷子になったその事よりも、新しく見つけた場所の探検に好奇心は向いて、鬱蒼と茂った木々と灌木、下草の間を縫い、物珍しい様子で歩き廻った。

春は生命の目覚める季節。
今日は清明。
二十四節気の一つで、草木の花が咲き始め、万物に清朗の気が溢れて来る頃だ。

今年は冬が異常に暖かく、寒いはずの二月が暖かく、暖かいはずの三月が真冬のように寒い、三月と二月の気候が入れ替わったようだった。
そんなよくわからない気候も彼岸を過ぎた辺りからめっきり春らしくなり、世界は新たな生命の芽吹きに賑わっていた。

そんな季節の移ろいも知らぬげに、悟空の養い親の三蔵は、桃源郷随一の寺院の最高責任者で、仏教界に五人しかいない最高僧三蔵法師であるが為に、近く行われる灌仏会の準備に日々忙しく立ち働いていた。
そんな忙しい三蔵のことをよく理解していても、少しでも傍にいて話がしたい、一緒に過ごしたいと悟空は思ってしまう。
が思っても、それは叶い難い願いで、悟空は淋しい想いを抱えて三蔵とのすれ違いの生活に我慢していた。
けれど、そんな悟空の淋しさも季節の輝きには関係なく、桜は満開の時期を迎え、世界は春の息吹に輝いていた。

そんな日、悟空はいつものように裏山へ遊びに出掛け、迷子となったのだった。

「うわぁ…」

木々の切れ間から覗く景色の美しさに悟空は歓声を上げた。
まだ冬枯れた様子の残る木々の間に常緑樹の濃い緑が見え、所々若芽を吹いた木の煙るような薄い黄緑が見える。
そんな木々の間に薄桃色の山桜の花が色を添え、山の景色は春の錦に染まっていた。
悟空はその景色を瞳を輝かせて見入った後、帰る道を捜すように、初めての場所をまた歩き出した。

ちらほらと花を付け始めた下草や花を咲かせる灌木の茂みを抜けて、鬱蒼とした森や林に時々ある開けた場所に出た。
そこは丁度木々の切れ目で、太陽の光が地面まで届くので、丈の短いはずの草が青々と茂っていた。

その小さな草原と森の境にその桜は咲いていた。

白に近い淡い桃色の華奢な花弁を揺らす枝はまるで柳のように地面へと流れ落ちていた。
その枝が風に揺れるたび、はらりはらりと花弁が枝の周囲を舞う。
それは今まで悟空が見たこともない大きな枝垂れ桜の古木だった。

悟空はその花の美しさに魅入られたような覚束ない足取りで、青々と茂った草原を掻き分けて近づいた。

近づく程にその枝垂れ桜の木がどれ程大きいのか知れた。
風雨に耐えた幹は黒く節くれ立ち、空へと伸びた天辺の枝と滝のように流れ落ちる花の枝。
その淡い桃色の花は二重に花びらを重ね、所々に伸びた若芽の若緑と相まって、夢のような情景に見えた。

「……すっげぇきれー…」

呟く感歎の言葉も何処か虚ろで、悟空はただただ桜の美しさに見惚れていた。
と、その桜の根元に人影を見つけた。

「…?」

ここは寺院の裏山であったが、初めての場所で、位置を考えればかなり山奥にあるはずである。
この山は寺院の敷地であるから人が住んでいるはずもない。
桜の化身なら悟空の気配に気付いて声をかけてくるだろう。

では、一体誰なのか?

悟空は小首を傾げたまま、そっと枝垂れ桜の根元にある人影に近づいて行った。













ここは日当たりが良くて、静かだ。
この空間を支配するように枝を広げる枝垂れ桜の花は今年も見事に花開いた。
桜を包む静寂と桜の美しい花の姿は申し分なく、ここは三蔵の密かなお気に入りの場所だった。

灌仏会が近づく程に仕事は忙しさに拍車がかかる。
決まった仕事以外に、誰にでも出来る仕事と決裁がこの時とばかりに増えて、我慢ならなくなった三蔵は側仕えの僧侶、笙玄の目を盗んで逃げ出してきたのだ。
きっと今頃、笙玄が呆れた顔と怒った顔で、三蔵のことを捜しているだろう。
だが、三月に入ってから今日まで、三蔵は不眠不休と言っても過言ではない状態で仕事をこなしてきた。
少しぐらいの休みと息抜きを自主的に取っても文句を言われる筋合いはないはずだ。
それにこの後、悟空を構ってやるつもりでもいた。

養い子の悟空が淋しさを我慢して、構って欲しいのを辛抱して、傍に居たいのを堪えていたのを三蔵は知っていた。
しかし、忙しすぎる仕事は三蔵に起きて居る悟空と顔を合わせ、言葉を交わす僅かの時間さえ奪ってしまっていた。
そんなすれ違いの生活がもうひと月以上続いていた。

岩牢から連れて帰って一緒に暮らすようになってずいぶんと経つが、未だに悟空は孤独を感じるのを嫌がる。
一緒に暮らして、寝食を共にしていても、三蔵の仕事の都合で悟空をひとりにしてしまう。
話すことは勿論、顔を見ることすら無い時すらある。
けれど、そういう時に限って自由になる時間は極短く、疲れた身体が要求する僅かばかりの睡眠に費やされてしまうのだ。
そういう時、人一倍寂しがりな悟空のことは気に掛かるが、ままならない仕事と己の立場に三蔵はジレンマと苛立ちを感じるばかりで。
今回もそう言う状態に陥っていた。
それでも悟空を可愛がる笙玄が何とか仕事の都合をつけようと努力はしていたようだが、想像以上に多い仕事の量に振り回されるばかりで、三蔵の仕事が減ることはなかった。

だから、三蔵は逃げ出した。
逃げ出して息を抜き、ゆっくりと疲れた身体を休ませ、寂しがりな養い子を構うために。
この場所で、過ごすために。

けれど、悟空は遊びに出掛けたらしく、寝所に姿は見えなかった。
寺院の中を捜しても良かったのだが、見つかればまた仕事に連れ戻されてしまうため、三蔵は悟空を連れてくることを諦めたのだ。





もったいねえ…





この桜を見れば悟空が喜ぶことがわかっていただけに、三蔵は残念な気分を引きずっていた。
それでも疲れた身体と気持ちにはここの景色は優しくて、三蔵は大きく息を吐き、目を閉じた。
すぐに微睡みは訪れ、三蔵はそのまま寝入ってしまったのだった。













桜の木の下の人影に近づいた悟空は、それが誰だか気付いた途端、その金瞳を見開いた。

「……う、そ…なん、で?」

そこには寺院で仕事に追われているはずの三蔵が居たのだ。
気持ちよさそうに桜の幹に身体を預けて、柔らかな陽差しと桜の花に囲まれて、三蔵が眠っていた。
信じられない気持ちのまま眠っている三蔵の傍らに座り込み、悟空はそっとその顔を覗き込んだ。
見上げる三蔵の寝顔は酷く疲れた顔色で、最後にちゃんと顔を合わせた時より幾分痩せたのか、桜の落とす影が濃く見える。
そんな様子でも悟空には三蔵が綺麗に見えた。

桜の花影からちらちらこぼれる陽差しに金糸は柔らかく輝き、少し疲労で青ざめた肌はそれでも白く透明で、閉じた瞼を縁取る睫毛が青い影を頬に落とす。
眉間の皺も今はなく、引き結ばれている唇も柔らかくほどけ、いつも三蔵を覆う険が取れた姿は儚げな印象を持つ程に繊細な美しさと穏やかさを見せていた。

「…さんぞ」

吐息のように眠っている三蔵の名前を呼んで、悟空は仄かに笑った。
見上げれば枝垂れ桜の花びらがひらりひらりと舞い落ち、陽差しが緩やかに花影の二人を照らす。

「……うん…ありがと…」

ふわりと届いた桜の聲に、悟空はまた仄かな笑顔を浮かべ、ころりと三蔵の寝顔を見上げる位置に寝転んだ。

「お疲れさま…」

呟いて悟空はそっと、地面に投げ出された三蔵の手に触れた。
ゆっくりとその手の先を握り、

「やっと、逢えた…」

そう言って笑った。






嬉しそうに三蔵の寝顔を見上げていた悟空もいつしか微睡みに沈み、安らかな寝息をこぼし始めた。
それを待っていたかのように三蔵が目を覚まし、傍らの悟空に気付いた。

「…ご、くう…?」

驚いて身体を動かしかけた三蔵の動きが止まった。
見やれば悟空の手が三蔵の手に重ねられ、指先を握っていた。
そのささやかな行為に三蔵は悟空の気遣いと逢えた嬉しさに微かに表情を綻ばせ、そのままの姿勢で桜を見上げた。

はらりはらりとあるかないかの微かな風に、時折舞い落ちる花びら。
それは雪の欠片のようにも見えて、三蔵はそれを慈しむように吐息をこぼし、瞳を閉じたのだった。



michikoさま/AQUA


michikoさまのところの悟空のお誕生日話です。
お誕生日より少し後のアップで、公にフリーとはなっていなかったのですが、日記で「このお話を欲しいと思われた方はこっそり教えて下さい」とのお言葉をみつけ、「はいっ、はいっ!」とすぐさま挙手しました。…こういうときのお返事は良いですね>まりえさん。
寂しい気持ちを我慢している悟空に、ちゃんと気づいてなんとかしようとしてくれた三蔵さまがとてもステキです。
やっと逢えた、と呟く悟空に感無量な気持ちになりました。
そして、咲き誇る桜の綺麗な情景が目に浮かぶような美しい描写にはうっとり、なのです。
michikoさま。ふんわりと暖かな気持ちになれるお話のお持ち帰りの許可、ありがとうございました。とっても幸せですv