世界の外側
雪が、降っている。
ちらちらと降り積もる雪を、悟空は部屋の片隅に座り込んでじっと見つめていた。
去年は――寺院に来て初めての冬は。雪を見ることができなかった。
白い世界が怖くて。
音のない世界が怖くて。
怖いと思うことが怖くて。
全てを遠ざけて、目を塞ぎ、耳を塞いで過ごした。
けれど、耳を塞いだら三蔵の声が聞こえないし、目を塞いだら三蔵の姿が見えない。
それは寂しくて、嫌で。
だから。
白い世界は怖いけど。音のない世界は怖いけど。
でも、決めた。
三蔵の姿や声を確認できないことに比べたら、雪の怖さの方がずっとずっと、マシだと思うから。
石造りの床は冷たくて。一応下に毛布は引いているけれど、身体が冷えてくるのは止められない。
ベッドに座ってしまえばよいのだが、そこから窓の外を見ようとすると、白く積もった雪が見えてしまう。
本当に怖いのは、降ってくる雪ではなくて積もった雪。
「逃げないって、決めたのに……」
怖いと思うことをまず、認めた。怖いことから逃げたら、もっと怖くなるのだと知った。
逃げるために悟空は音を失ったのだ。今にして思えば、どうしてあんなことが出来たのか、自分でも不思議でならない。
耳を塞いでも聞こえる音が嫌だからって、本当に耳が聞こえなくなってしまうなんて。今となっては、嘘みたいな話だと思う。
今はもう、雪が降っても音を失うことはない。雪の積もる白い世界はいまだに見ることができないけれど。
降り続ける雪と灰色の空を悟空は、睨みつけるように見つめ続けた。
心に巣食う恐怖は確かにあったけど、目を逸らしたくはなかった。そんなことを考えながら、積もった雪を見れない自分を情けないとため息をつく。
「三蔵、呆れるよなあ」
とてもとても、三蔵は強いと思う。だから三蔵についていくためには、強くならなきゃいけなくて。
なのに自分はこんなにも弱い。
自覚はあっても、いまだ恐怖に打ち克つことのできない自分。
せめてできることはと言えば、三蔵の仕事の邪魔をしないことだけ。どういうわけか三蔵は、悟空が不安や恐怖の中に堕ちた時には、どんなに遠くに居ても必ず察して来てくれる。嬉しいのだが、仕事の邪魔はしたくない。
だから。
白い世界は直視できないけれど、代わりとばかりに、空から落ちる雪を見つめている。
三蔵を呼ばないように。雪の恐怖に支配されないように。
◆
筆を走らせる音だけが響く執務室。次々と書類を片付けながら、三蔵はちらと自室の方へと視線を向けた。壁と扉に遮られて、見えるはずのない場所に。
寝室の奥に、悟空は1人、閉じこもっている。
「あの、バカ猿……」
悟空が今もまだ、雪の恐怖に囚われていることを知っている。
いつもならば三蔵が仕事に入ると、悟空はすぐに外に遊びに出る。それをしないということは、つまり、今もまだ雪が怖いということで。
呼べばいい。そうすれば三蔵は、それを理由に悟空に構ってやれる。
「……」
思い至った思考を自ら散らした。
構ってやれる?
自分は、悟空を構ってやりたいのだろうか?
雪の季節は年末年始が近い時期でもあり、寺院が忙しい時期のひとつでもある。悟空がひとりで静かに大人しくしてくれるのなら、万々歳ではないか。
頭で考えればそういう結論がでる。だが感情はそんな結論を出してはくれない。
去年の冬は結局、雪が降っている間、悟空は一歩も部屋から出なかった。精神的要因から耳が聞こえなくなった悟空の音ををどうにかこうにか取り戻しはしたが、それで全てが解決するわけではもちろん、ない。
むしろようやく恐怖と向き合い、やっとスタート地点に立てただけのこと。あの頃はまだ寺院に来てからそれほど時が経っていないこともあって、昼間は執務室に入り浸るのが普通であったから。だからまだ、マシだったんだろう。
なんでもいいから自分以外のものの音がしていれば、少しは安心するらしく。三蔵が筆を走らせる音や三蔵の息遣い、そんな些細な音に耳を済ませて安堵の表情を浮かべていた。
それでも、例えば、夜中。シンと静まり返った静寂の中、何かの拍子に目を覚ましてしまったらしい悟空がベッドに半身を起こして固まっている姿を見た時には、慌てて声をかけたものだ。
けれどこの1年の間に、三蔵は仕事の間の執務室立ち入り禁止を言い渡した。寺院での暮らしに慣れてきた悟空は、少しずつ、三蔵への遠慮もなくなって。それはそれで良いことなのだが、仕事中に何かと報告に来るのは困りもので、よほどの急用以外は話は全部夜にしろと言い渡した。
冬になり、雪がチラつきはじめて。
三蔵は実は少し、迷ったのだ。せめて雪の間だけでも、執務室への立ち入り禁止を解除するかどうか。だが悟空が執務室に来たがることはなく、むしろ自分でどうにかしようとしているようだったので、ならばしばらく様子を見てみようと決めた。
のは、いいのだが。
どうにもイラついてイラついて、仕方がない。
別に悟空に呼ばれているわけではない。
我侭を言うでもなく、かつてのように音なき声で呼ぶこともなく。本当に悟空は静かで大人しくて。
だがそれは食事の時にも及んでいた。外に出かけないだけ空腹も少ないのか、食べる量が常より少なくなる。それだけならまだしも、食事中の会話も激減した。
今日はどこで遊んだとか、何があったとか。いつもならば喋るか食うかどっちかにしろとハリセンを落とすくらいに事細かに話してくるのに。外に出かけないならば当然、そういった話のタネもないわけで。
三蔵は自分から話題を振るような性格でもなく、悟空が喋らない食事の時間は、とても静かで。
静か過ぎる空間の静寂が喧しかった。
執務室が静かなのはいつものことなのに、どうしてか今も、静寂が煩く感じる。静かで、音がなくて――なのに、煩い。
本当は、何か言ってやれればいいと思う。
けれど何を言ってやればいい?
優しい慰めの言葉なんてガラではない。
悟空が抱える闇の深さを知っているから、無理やり外に放り出すような荒療治もできない。
結局できるのは、ただ待つだけ。
だって悟空はもう、決めているのだ。怖くても向き合うこと、怖くても逃げないことを。
だったら三蔵に出来るのは、余計な手を出さずに待つことだけ。
「とっとと出て来い……」
早く、早く、気付けばいい。
三蔵が何度繰り返して説いても、悟空の心はまだ、岩牢に囚われていて。岩牢の中に居て。
雪を克服したからとて、全てから解放されるわけではないことを知っている。
それでもひとつずつ、少しずつ。悟空の心はちゃんと、岩牢の外へと足を踏み出している。
いつまでだって、何年だって待ち続けるから。必要ならば手を差し伸べ、その背を押してやるから。
だから、早く。
日向葵さま/ひまわり畑
最初に葵さんのところのサイトに伺ったとき。
いろいろと心惹かれるお話が多かったなかでも、雪に関するエピソードがとても印象に残りました。
それで「雪に関する話が好き」と書いたところ、こんなステキなお話を書いてくださいましたっ!
500年に渡る孤独はとても深いもので、完全にわかることはできないかもしれないけれど、こうやって寄り添おうとしてくれる限り、大丈夫なのじゃないかな、と思います。
慰めて、頭を撫でてあげて、手をひいてあげるだけが愛情じゃないですものね。
「捧げます」は捧げられた人がお持ち帰り可だそうで、しっかり攫わせていただきました(笑)
葵さん、ありがとうございました<(_ _)>