ゆびきり


 三蔵がいないのは、初めてじゃない。
 だけど。
「いってらっしゃい、三蔵!」
 一緒に朝ごはんを食べて、見送る悟空の表情には明るい笑顔。けれどその瞳に寂しさが光るのはどうしても消せなかった。
「ああ」
「なるったけ早く帰ってきてね」
 これはただの我がままだ。
 昨日も散々我侭言って――「行っちゃヤダ」とか、どうにか納得したあとも、「一緒に寝て」とか、いろいろ――呆れさせてしまっただろうに。
 これから仕事に行く三蔵を不機嫌にさせてしまったらどうしようと思う心がないわけではない。だけどどうしても、言わずにはいられなかった。
「……」
 案の定三蔵は予想通りの、呆れたようなうんざりしたような表情をする。
「あ、えと、でも、別にっ……!」
 慌てて前言を撤回しようとした悟空の前で、三蔵は思いっきり眉の間に皺を寄せて腕を組んだ。
「ったく。俺だって好きで行くわけじゃねえんだ。面倒な仕事なんざさっさと終わらせるに決まってるだろう」
 告げられた言葉を聞いた瞬間、悟空の顔にぱあっと明るい笑顔の花が咲く。
「うん、うんっ!」
 理由はなんだっていい。
 ただ、三蔵が少しでも早く帰ってきてくれればそれでいい。
「いってらっしゃい、お仕事頑張ってね」
 これから出かけていってしまう三蔵のぬくもりを少しでも残して置けるようにぎゅぅっと思いきり抱きついたら、鬱陶しいとハリセンで叩かれたけれど。そんなやりとりすらも嬉しくて――だってこれからしばらくは、そんなやりとりすら出来なくなるのだ。
 本当はずっとこのままで居たかった。
 だけどもちろん、そんなわけにもいかなくて。
 三蔵が本当に出かけてしまう。扉に向かうその背中が、遠くて、遠くて。
 ……怖くて。
「戻ってきてね、ちゃんと」
 どうして。
 何が、こんなに怖いのか。
 わからないままに告げる。
 チラと振り返った三蔵は大きなため息をついて、もう一度悟空の方へと向き直った。
「おい、猿」
「……なに?」
「てめぇはそんなに俺が信用できないのか」
「え?」
「ちゃんと戻ってくるっつったろうが」
 わかっている。
 何度も、何度も。
 不安が消せずに問いかける悟空に、三蔵にしては珍しく根気強く、何度も同じ言葉を繰り返してくれた。
 ちゃんと戻ってくると、告げてくれた。
「うん……」
 頷いて俯いてしまった悟空を見つめて三蔵は先ほどよりも深いため息をつき、呆れた様子で肩を落とした。
「おい」
 ぐいと。言葉と共に頭に手を置かれて、そのまま顔を上げさせられた。
 すぐ傍にある、きらきら輝く金色の髪と、深い深い吸い込まれそうな紫色。何度見ても見飽きない……。
 ぽけっと見惚れているところに、不機嫌そうな三蔵の声がかかった。

「いい加減にしろよ、猿」

 目の前で消沈している悟空の様子を見て、くだらないと三蔵は思う。
 悟空がどう、ではなく。自分の思考をだ。
 どれだけ口で告げたとて、どうしても信じ切れていないらしい悟空の様子に、ひとつ――思いついてしまったことがあったのだ。
 あれはいつの頃だったか。
 まだ、光明三蔵が生きていて。
 三蔵がまだ、光明について回るだけの幼子だった頃。
 その頃から三蔵は……まあ、なんていうか、意地っ張りというか、素直じゃない性格で。
 いつだったか。
 どうしても外せない用事があって、金山寺をしばらく離れると告げられた時。
 本当は不安だったのに、そんなこと、言えなくて。
 かといって、表情までも抑えてしまえるほど大人にもなっていなくて。
 幼くて。行かないでという言葉を押し留めるだけで精一杯で。
 そんな三蔵に――江流に、光明はいかにも楽しそうにゆったりと笑って告げた。

『お土産をたくさん持って帰ってきますよ。約束します』

 言うが早いか江流の手を取り、突然のことにぽかんとマヌケ面を晒していた幼子の小指に自身の小指を絡めていきなり歌い出したのだ。

『お師匠様……。なんですか、それは』
『おや、知らないんですか? 約束の歌ですよ。嘘ついたら針を千本飲ませますっていう』
『物騒な歌ですね』
『約束を守れば、問題ありません。ね』

 穏やかに笑う光明に。繋げられた小指の温かさに。
 とても、安堵したことを覚えている。

 こんなこと、自分らしくない。
 それは三蔵自身が一番よくわかっている。
 だけれど、こんな様子の小猿をそのまま放置して出かける気になど、とてもとてもなれなくて。無言のままでぐいと悟空の右手をひっぱり上げれば、悟空は驚きに目を丸くした。
 ぽかん、と――多分、あの時の三蔵も似たようなものだったんだろう――マヌケ面を晒している猿がいる。
 持ち上げたその手の小指に、強引に自分の小指を絡めてやった。
「ったく。俺の言葉を疑うなんていい度胸だ」
 悟空はきっと意味なんて知らないだろうけれど、言葉だけではない約束なら、少しは落ち着くかもしれない。
 そう思っての行動だった。
 だが――。
「……ゆびきり……」
 ぽつり。
 まだマヌケ面を晒したままの小猿の口から零れ落ちた、言葉。
 なんでもかんでも珍しがって、日常の常識すら危ういバカ猿が『ゆびきり』を知っているとは思わなかった。
 悟空が知らないと思ったからこそ出来た行動だったのに、相手がそれを知っているとなれば三蔵はそれ以上指を繋げていることなどできなくて。繋げた時と同じように唐突にぱっと指を外した。
 悟空は、少しばかり乱暴に離れて行った指を気にすることなく、ほんのついさっきまで三蔵に触れていた小指を反対の手で柔らかく包み込むようにして撫でている。
「約束……」
 ほんわりと。
 淡く微笑む金晴色に安堵した。
「明後日には戻ってくるから、大人しく待ってろよ」
「うん」
 ぼんやりと。どこか夢見心地な様子で。
 けれど、さっきまでの不安に揺れる顔ではなかったから。
 三蔵は悟空に背を向け、扉の外へと出て行った。


  ◆


 繋がれた小指がとても、とても、あたたかかった。
 じんわりとした心地よいぬくもりに、ホッとした。
 だから、大丈夫だと思った。
 三蔵が帰って来るまで、きちんと待っていられると思った。
 それなのに――。

「……」

 眠る時になって唐突に、その不安は襲ってきた。
「さんぞー」
 藍色の空にぽっかりと浮かぶ月を見上げて三蔵を思う。
 約束をもらった。
 言葉よりももっと確かな、ぬくもりをもらった。
 今までだって「待ってろ」という言葉ひとつで――その裏には「戻ってくる」という言葉ももちろんあったけれど――待っていたのだ。
 だから今回も大丈夫。
「大丈夫……じゃないよ。三蔵」
 まだ1日目。
 たった1日。
 1人で眠った夜がなかったわけじゃない。寺に着たばかりのころは、納屋で1人で眠っていた。
 けれどよくよく思い返せば、夕飯を持ってきた三蔵はそれで踵を返してしまうようなことはなかった。時間が許すギリギリまで、一緒に夜を過ごしてくれた。
 だからそう考えると、本当に1人で過ごす夜はこれが初めてということになる。
 だからだろうか。
 こんなに不安になるのは。
 夜が明けないような。
 朝が来ないような。
 光がもう見れないような。
 そんな不安に駆られるのは。
「大丈夫っ!」
 ほんのついさっき零したばかりの弱気な台詞を振り払うように、無理やり自分に言い聞かせる。
 約束の小指をぎゅっと握り締めて、悟空は頭から布団をかぶって瞳を閉じた。
 まだまだ眠れそうになかったけれど……。


  ◆


 出かけてからまだ1日も経っていないというのに。
 頭の中に響く呼び声に、三蔵は頭痛を覚えて額を抑えた。
「あの、バカ猿……」
 仕事はくらだない説法だった。
 三蔵法師という名前だけしか見ていない輩を相手に、なんの感情もこもっていない説法をする。
 それでも彼らは満足する。結局のところ、必要なのは三蔵法師が訪れて説法をしたという事実であって、その内容はどうでもいいのだ。
 本当に、くだらない。
 それでも三蔵には『三蔵法師』という責任があり、義務がある。だからさすがに、仕事を放棄してまでは帰れない。
 だが……。
 当初は明日説法をしてその日は寺に泊まり、明後日の朝イチで発つ予定だった。
 この寺は慶雲院から半日強のところにあるから、説法を終えたその足で出ると夜通し歩くことになってしまうのは間違いない。
 だけれど。
「ちっ」
 やかましく頭の中に響き続ける寂しげな呼び声にイライラしながらでは、どうせまともに睡眠など取れないのだ。


  ◆


 私室の扉を開けた瞬間、見えた光景に三蔵は思わずその場に固まった。
 うっすらと朝焼けに照らされた部屋の中で悟空は、ただ、そこに在った。白んだ空に薄くなった月を見つめて、そこに居た。
 泣いているかもしれないとか、寂しがって布団の中で丸くなっているかもしれないとか。いろいろ考えていたけれど、そのどれとも違う様子に、どう反応して良いのかわからず惑う。
 扉を開けた瞬間に見た悟空は、三蔵の大嫌いな、ぼんやりと生気の薄れた硝子色をしていて。
 不安よりも寂しさよりも、恐怖に耐えるような瞳をしているのが印象的だった。
 そう。
 孤独を怖れるのならわかる。寂しさに震えるのならわかる。三蔵がいない不安に怯えるのならわかる。
 けれど悟空はどれとも違う――正体のわからない『恐怖』に竦んでいた。
「ごくう……」
 呼ぶのが精一杯だった。
 眠っていなかったらしいバカ猿を怒ってやればいいものか、もっと違う何かを告げてやるべきか。
 しかし悟空を引き戻してやれるような気遣いの言葉や態度など、咄嗟には思いつかなくて。だから三蔵に出来たのは、名前を呼ぶこと。
 それだけだった。
「……さん、ぞ……」
 その声に反応してゆっくりと悟空が振り返る。
「帰ってきた……」
 ゆらりと。動く様子が酷く頼りない。
「悟空?」
「良かった……さんぞ……」
 ふらふらと覚束ない足取りで、それでも三蔵の傍まで歩いてきた悟空は、ぎゅっと三蔵の腰に抱きついたまま動かなくなってしまった。
「おい」
 いつもならばハリセンのひとつも落としてやるところだが、今の悟空を見ているとそんなことはできなくて。
「――こわかった」
 しゃくりあげるような声で告げられたのに、見れば泣いている様子はなかった。
「戻ってくると言ったろう」
「うん。でも」
「でも?」
「……戻って、こなかったんだ……」

 約束をしたのに。
 ゆびきりをしたのに。
 ずっと一緒に居ると約束したのに。
 ずっと一緒に居たかったのに。

「さんぞももどってこないんじゃないかって、すごく、すごく、怖かった」

 ゆびきりをした時にはその暖かさにホッとしたのに。
 時間が経てば経つほど――三蔵のぬくもりが薄れていくのが、怖かった。
 約束が、怖かった。

 心の深い深いところから、搾り出すように。細く、頼りなく、必死な声。
 重なるように聞こえる、おそらく悟空自身は自覚していないんだろう声なき声。
「どうしてかわかんないけど……でも、怖かったんだ」
 不安定な感情に任せて紡がれる悟空の言葉に三蔵は、苛立ちを隠すことなく小さく舌打ちをした。
「……」
 時折ほんの少しだけ、失われた記憶のカケラを何かの拍子に掴んでしまう悟空。
 カケラは氷のようにすぐに溶けて――ひとときのこの混乱が過ぎた頃には、忘れてしまうのだろう。
 これまでもにも似たようなことが何度かあったが、悟空はいつも……掴んだ記憶のカケラを捕まえることができずに、結局、忘れてしまっていた。
 今回もたぶん、悟空は、忘れてしまうんだろう。
 ずっと昔にも誰かとゆびきりをしたこと。
 その相手が戻ってこなかったこと。
 肝心なことは忘れてしまって、けれど約束が怖いという感情だけは残るのだろう。
 まるで抜けない棘のように。
 しっかりと施錠されてしまった記憶の扉は開かないのに、チクリチクリと、微かな棘だけが残る。
「……悟空?」
 吐き出すだけ吐き出して落ち着いたのだろう。ふいに悟空の身体から力が抜けた。
 一瞬どうしたのかと青くなった三蔵であったが、よくよく見れば、規則正しく上下する胸。
「バカ猿……」
 眠ってしまった悟空を抱き上げて、三蔵のベッドの上へと放り投げる。
 次からはどうやってこの小猿を置いていこうか。
 どうすればこの猿が泣かなくてすむのか。
 考えても答えは出そうになかった。


日向葵さま/ひまわり畑


ぽろりと「お留守番している話も読んでみたい」といったところ、書いてくださいましたっ!
うお。悟空、健気じゃのぅ。ほろり。
真面目な話、叶わなかった約束があるからこそ、覚えていなくても怖いんでしょうね。
でも、大丈夫。そのときには叶わなかったかもしれないけど、今は皆いるから。
形を変えてその約束は果たされたのだと、いつかなんとなくで良いので、わかってくれるといいなと思いました。
葵さん、ステキなお話をありがとうございましたっ!