ワンホール(ケーキ)
勝手の知らない場所でお茶を淹れるのは、ただそれだけのことでも、結構手間取ったりするものなのだが、ここの持ち主は整然とした性格の持ち主らしい。あるべき場所にものが収まっていて、使いやすく整理されていた。会ったこともない人物に、八戒は少し好意を抱いた。
淹れたばかりの香り高いお茶を持って戻ると、オーブンの前に真剣な顔をして立っている子供がいた。
一心不乱に中を見つめている。
その様子に思わず、八戒の顔に笑みがこぼれた。
「見ていても一緒ですよ。少し休憩しましょう」
声をかけてテーブルにお茶を置く。
「ちゃんと膨らむかな」
長い髪を揺らし、とてとてと歩いてくると、悟空は少し心配そうな顔で八戒を見上げた。
お茶を淹れる前に呟いた『後はちゃんと膨らんでくれれば』という言葉が聞こえていたらしい。
「大丈夫ですよ。悟空が一生懸命、卵白を泡立ててくれましたからね」
そう言うと安心したように、悟空は明るい笑顔を浮かべた。
1週間ほど前、目の前に置いたとりどりのケーキが、もとは丸い一つのものを切り分けたのだ、という話になったのはどういう経緯からだったろう。もはや覚えていない。
だが、悟空はいたく感心し、見てみたいと言い出した。
それならば、と、2、3日前に長安の町に行く用事があるときに、八戒は悟空も一緒に連れてケーキ屋を訪れたところ……。
店は固く扉を閉めていた。
近所の人の話では、店主が過労で突然倒れたから、ということだった。
西から来たこの珍しいお菓子は、評判になりかけていたところだった。それで、少し無理をしたらしい。再開のメドはたっていないと聞いて、悟空はひどくがっかりした顔をした。
その日は、悟空の好物の肉まんを大量に買って帰ったが、いまひとつ悟空の気分は浮上しなかった。
よほど楽しみにしていたのだろう。
健気にも普通に振舞おうとしていたが。
そして、今日。
八戒は再び悟空と連れ立って長安の町に行き、件の店の前で「ケーキを作ってみましょうか」と言い出した。
「できたっ」
最後のイチゴを飾って、悟空が満面の笑顔とともに言った。
「おー、やっと完成?」
いつの間にきていたのか、悟浄が顔を覗かした。
「ふーん。ハジメテにしては上出来じゃねぇ?」
そして、出来栄えを品定めするかのように、ケーキを見回した。
確かに多少不恰好で売り物にはならないだろうが、初めて作ったにしては上出来と思われた。
「じゃあ、お茶を淹れ直しますか。悟空、頬にクリームがついていますんで、手を洗うときに鏡を見るの忘れないように」
「うん。……あっ」
八戒の言葉に素直に頷き、奥に引っ込もうとした悟空は、突然、ピクンと顔を上げると、表へ通じるドアへと駆け出していった。
「三蔵サマ?」
「たぶん」
「わかりやすいな」
おかしそうに悟浄が笑う。
「ベタベタの手で触るんじゃねぇよ」
程なくして、まごうことなき、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
相変わらずの仏頂面の三蔵と、この上なく嬉しそうな顔で三蔵の腕にしがみついている悟空が部屋に入ってくる。悟空の頬のクリームはいつの間にか消えていた。
「あ、れ?」
八戒が淹れ直してきたお茶をテーブル置いていると、悟空ががきょんとした声をあげた。
「八戒、包丁とお皿は?」
「お前、一人でそれ食う気じゃないのか?」
悟浄が口を挟んでくる。
「あー、うん。最初にこんな形をしてるんだって聞いたときはね。でも、皆で食べたほうがきっとおいしいよ」
屈託のない笑顔で悟空はそう言った。
「小猿ちゃんってば、お前と三蔵に礼を言っていたけど」
後片付けはしておきますから、と八戒が言って、満足そうな笑顔の悟空と対照的にずっと変わらずに無愛想な表情をしていた三蔵を送り出した後。洗った皿を拭きながら悟浄が言い出した。
「自分に言われなかったのを、拗ねてるんですか?」
「いんや。ま、多少はあるが……。でも、同じように何にもしてないはずの三蔵に礼を言うなんて、小猿ちゃんってば、ココを借りたのが三蔵だってわかっているってことか?」
「あぁ、そうかもしれませんね」
あまりに落ち込んでいたのを見かねたのだろうか。
昨日、唐突にココを借りたと、三蔵が言ってきた。
「ウチもオーブンを買いますかね?」
洗ったお皿を渡しながら、八戒が言う。
「小猿ちゃんの餌付けに?」
そう返された言葉に、八戒はクスリと笑いを漏らす。
結局のところ、ケーキの4分の3は悟空のお腹に収まった。
「そうですね。そうすれば、ウチにくる回数も増えるから、独り占めされることなくなって、僕達のチャンスが増えるかもしれませんよ?」
「それはいいかもな」
顔を見合わせて、二人は笑い合う。
クスクスと笑う声は、いつまでも部屋に響きわたっていた。