はぐれ蛍
ふと、悟空が頭を起こしたのがわかった。
呼吸がゆっくりと深いものに変わっていたから、もう眠っていると思っていたが、どうやら違ったらしい。
「どうした?」
「あれ、なに?」
問いかけに答える声が幾分幼く、語尾が甘い感じなのは、ただ眠いだけではないだろう。暗闇の中でも、いつもとは違って、金色の瞳が濡れたように艶かしい色を浮かべているのがわかる。
「三蔵?」
促されて、悟空から窓の外にと視線を転じる。
そこにはふわりふわりと、風に舞っているかのように、小さな光が明滅しながら揺蕩っていた。
「蛍だ」
「……ほたる?」
「昆虫だ。あんな風に光る虫のことをそう言う」
「虫が光るの? 大丈夫なの? 熱くないの?」
「別に燃えているわけじゃない」
悟空の問いにクスリと笑って答え、もう一度、窓の外を見る。
「どうしたの?」
「いや、本来なら、ここにいるはずはないんだが……。寺への献上品の中に紛れていたのかもしれん」
ふと思いついて言った言葉だったが、悟空の体がピクリと揺れた。
「……はぐれちゃったの?」
ややあって、悟空がポツリと呟いた。
それから、何を思ったのか、いきなりパッと飛び起きると、ベッドから飛び出して行こうとした。
「待て。そんな格好でうろつくな」
腕を掴んで引き止める。
「でも、可哀想。戻してあげなくちゃ」
ジタバタともがくのを、羽交い絞めにするかのように抱き込む。
「戻すっていっても、どこから来たのかもわかんねぇだろうが。わかったとしても、戻すには遅すぎる」
「え?」
「あれの命はそんなに長くはない。場所にもよるが、戻そうとしているうちに死んでしまうだろう」
微かに息を呑む声が聞こえてきた。
そして、悟空の目から透明な雫が溢れ出す。
「も、会えないの? 仲間に? こんなところで一人ぼっちで……」
「しかたねぇだろ、迷い込んじまったもんは。与えられた場所で生きるしかない。それが自然の摂理だろう」
「でも……」
しゃくりをあげて悟空が泣き始める。
その様子に、ふっとため息をついて、腕に力を入れた。
「お前が泣いているのは、蛍のことか? それとも蛍に自分を重ねているのか?」
悟空が、はっとしたように身を硬くした。
「戻りたいのか? あの岩牢に閉じ込められる前に」
「違うっ」
悟空は、パッと振り返った。
「違う、そんなんじゃない。そんなんじゃなくて」
腕がこちらにと伸びてきた。
「離れたくない」
ぎゅっと抱きついてくる。
「絶対に、離れたくない。離れない。でも……でも、わかんないじゃないか。そんな風に思ってても、何かのせいで――何か思いもかけないことで、離れ離れになることだってあるかもしれない。あの蛍だって、きっと一人ぼっちでこんなとこに来るなんて思ってもみなかったはずだもん」
「だが、お前は蛍じゃない」
そう言ってやると、悟空の顔があがった。
「戻ってくりゃ、いいだろ。自力で。自分の手と足を使って」
言いながら、首の後ろでぎゅっと組まれている悟空の手を解き、手首を掴まえたまま、悟空の目の前にと持ってきた。
「自力で……?」
悟空は掴まれた自分の手を見つめて、呟く。
「……でも、動けなかったら? 前みたいに、岩牢に繋がれちゃったら?」
「そのときは呼べ」
あっさりと返してやると、悟空の目は大きく見開かれた。これ以上はないくらいにまん丸に。
「呼べば、来てくれるの?」
「気が向いたらな」
悟空は一度ぱちくりと瞬きをし、それから笑い出した。
「ひでぇ」
クスクスと声を立てて笑う。
それから、ふっと悟空の体から力が抜け、肩口にコツンと額の金鈷があたった。
「ね、三蔵」
顔を上げずに、静かに悟空が口を開いた。
「もし、三蔵が俺を置いていっちゃうことがあっても、俺、待ってるから。ずっと待ってるから――」
だから、また迎えにきて。
ほとんど消え入りそうな囁き声が伝わる。
それが、『現在』のことを言っているのではないことはわかった。
いつか。いつか遠い未来。
この生を終えたあと。
「そんな先のことはわかんねぇよ」
「うん。でも……待ってる」
その言葉の祈るような響きに、ため息をついた。
「……覚えていたらな」
「うん」
明るい返事とともに、顔があがる。嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
それから、悟空はするりと腕から抜け出すと、窓辺にと立った。
「俺はお前と同じ仲間じゃないけど、でも、ここにいるからな。ちゃんと見てるから」
一人じゃない。
そう、窓の外の蛍に向かって呼びかける。
「――そんな格好でうろつくな、と言っただろう」
気のすんだ頃を見計らって、腕を引いて強引にベッドに沈めた。
腕の中に閉じ込めて、シーツでくるみこむ。
「あったけぇ」
ほわんと笑って、悟空が擦り寄ってきた。ほどなくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。
柔らかな髪を指に絡ませて、穏やかな寝顔を見つめた。
はぐれても。
覚えていなくても。
あんな聲で呼ばれれば、行かずにはいられないだろう。
何度でも。
きっと――。