チェリー
「ただいま」
家の中に元気な声が響いた。
「おかえりなさい。……おや、一人ですか? 悟浄は?」
奥から手を拭きながら出てきた八戒が、戸口に立っている悟空を見、それからその後ろを探すように視線を彷徨わせてたずねた。
「えぇっと、グーゼン懐かしい知り合いと会ったから、ちょっとお話をしてくるって」
「まったく、あの人は……。買い物ひとつ満足に頼めないんですかね」
「あ、ダイジョウブ。ちゃんと買うものは買ってきたから」
悟空が八戒に袋を差し出す。
「ありがとうございます。悟空がいてくれて助かりましたよ」
受け取りながら、八戒が笑みを見せる。
褒められて、嬉しそうに悟空は笑った。
「このまま、うちの子になっちゃいませんか? 悟浄よりも、悟空がいてくれるほうが僕としても助かりますし」
誰がこの家の家主なのだろう、という台詞をさらりといった八戒を、困ったように見つめて悟空は口ごもる。
「えぇっと、それは……」
「やっぱり寺院の方がいいですか」
「うん。心配してくれるのはすごく嬉しいけど、でも、俺の居場所はやっぱりあそこだから」
まっすぐで、強い瞳。
その『居場所』は必ずしも、この子供にとって居心地の良い場所ではないだろうに。
この揺るぎない強さには、いつも驚嘆させられる。
微かに八戒は笑みを浮かべた。
「そうですか。でも、今回みたいに、三蔵が留守にするときにはいつでも泊まりに来てくださいね」
「うん。あ、そうだ」
突然なにかに気づいたかのように、悟空はもうひとつ持っていた袋をごそごぞとあさると、包みを取り出した。
「これ。三蔵が迎えにきたときに出してやれば、って悟浄が言ってた」
心なしか『三蔵が迎えに』といったときの悟空の表情が明るくなる。
「ぴったりだろ、って言ってたんだけど、なにがぴったりなんだろ。聞いても答えてくれなかった」
受け取り、包みの中身を確認した八戒の口元がそれとわからないくらいにひきつる。
「な、どういうことか、八戒にはわかる?」
「……さぁ。ま、あの人の言うことなんて、あまり意味がないですからね」
にっこりと完璧な笑みを見せていう八戒が手にしている包みの中身は、さくらんぼ、だった。
結局、いつまでたっても悟浄は帰ってこず、八戒とふたりだけで、それでも和やかに夕食を終えた悟空は、窓のそばに椅子を置いて外を眺めていた。
公務で1週間ほど寺院を留守にした三蔵が帰ってくるのは、今日の夜。
その間、八戒のところにでもいろと言われ、いつもよりも待っているのが楽だったような気はするが。
でも、やっぱり少しでも早く会いたい、と気持ちは募る。
「悟空、さくらんぼ、食べないんですか?」
食べ物に罪はない、と夕食のデザートに出したさくらんぼは手つかずのままだった。
「三蔵と一緒に食べる」
窓の外を見つつ、悟空が答える。
と。
突然、悟空が椅子から飛び降りた。
「三蔵、帰ってきたっ」
窓の外は真っ暗でなにも見えないだろうに。
「おかえりっ」
しばらくして、戸口から悟空の明るい声が聞こえてきた。
そして、三蔵の腕に嬉しそうに張りついた悟空が部屋に戻ってくる。
「おかえりなさい。……おや、悟浄も」
にこにこと笑って出迎えた八戒は、その後ろから見えた影に気づいて、付け足すかのようにいう。
「……なんか微妙にヒドくねぇ、その言い方」
「買い物を途中で子供に押しつける大人よりもヒドくないと思いますよ」
「へいへい」
悟浄が肩を竦める。
「三蔵、三蔵。座って、疲れてない? あ、そうだ、これ」
その間にもかいがいしく椅子を勧めたり、お茶を淹れたりしていた悟空が、さくらんぼの入った皿を三蔵の前に置いた。
「悟浄が買ってくれた。三蔵にぴったりだからって」
それから、悟浄の方を振り向く。
「な、悟浄、そういえばそれってどういう意味?」
一瞬の沈黙。
空気が凍りついた。
「……くだらねぇ。帰るぞ、猿」
その沈黙を破るかのように、ガタン、と椅子から立ち上がり、三蔵が吐き捨てるかのようにいった。
どことなく緊張していた空気が霧散する。
扉に向かう三蔵の背中に、どうやら銃を振り回すことはなさそうだと踏んだ悟浄が、くつくつと喉の奥で笑いながら、声をかけた。
「だって、本当のことだろ、チェリーちゃん」
「悟浄」
八戒はそれに咎めるような視線を送った。
「え? なに? チェリー?」
悟空が目をぱちくりとさせて問いかける。
「なんでもねぇよ」
苦虫を噛みつぶしたような三蔵。
にやにやと笑う悟浄
ため息をつきそうな表情をうかべる八戒。
悟空はひと通り三人の顔を見回した。
つまり、それは。
「ひっでぇよ」
ひとりだけその場の雰囲気から取り残されたかのように感じ、悟空は大きな声をあげた。
「なんでだよ。なんで、みんながわかってることを俺に教えてくんねぇの? 俺だけ仲間はずれなんてヤダっ」
潤みだす目で三人を見つめる。
その表情に、三人が三人とも、はっとしたような表情を浮かべた。
500年という長い年月を孤独に過ごしてきたせいか。
悟空はこんな風に仲間はずれにされるのを、ひどく嫌がる。
「えぇっと、つまりですね……」
子供をうまく丸め込むなら、八戒だろう。
そんな大人ふたりの視線を受け、八戒がしぶしぶながらも口を開く。
「チェリーというのはさくらんぼの別の言い方なんです。で、清らかな人っていう意味もあるんですよ。ほら、三蔵はなんといっても位の高いお坊さんですからね」
いっているうちに調子が戻ってきたのか、最後はにこにこといつもの笑顔で八戒がいう。
「清らか……?」
だが、悟空は眉根を寄せた。
「なわけねぇじゃん。三蔵、オーボーだし、キチクだし、エロいし。悟浄、それ、使い方間違ってる」
「だから、清らかにもイロイロ意味があって……ってか、お前、今、なんつった?」
反論しようとし、悟浄ははたと先ほどの悟空の台詞に気づいて、問いかける。
「なにって? 悟浄、耳遠くなった?」
「なってねぇよ。エロい、とかいわなかったか?」
「いった」
こともなげに悟空は答える。
「二人とも知んねぇだろうけど、三蔵、けっこうひでぇんだから。今回だって、1週間分補充させろとかなんとかいって……」
さらに言葉を続けようとする悟空の口を三蔵が塞いだ。
むがーっと悟空は怒ったような声をあげるが、耳元で三蔵になにか囁かれ、真っ赤になる。
やがて三蔵は手を離したが、それ以上、悟空の口からは何も言葉は出ず、ただ三蔵を軽く睨むばかり。
「邪魔したな」
そんな悟空の頭を小突くようにして、三蔵は出口に向かう。
もちろん、走るように悟空はその後を追い――。
二人の姿は扉の向こうにと消えていった。
「つまりは、そうじゃないってこと――?」
「僕が知るわけないでしょ」
後には、どことなく呆然とした大人がふたりに。
つやつやと鮮やかに輝くさくらんぼだけが残った。