自然体


 清々しい朝の空気を、深呼吸してうちに取り込む。
 今日も良いお天気になりそうですね。
 そんなことを考えて、朝の空気に負けないくらい爽やかな笑みを浮かべた八戒は、朝食の準備をしようと水場に向かおうとして。
「……悟空」
 昨夜、野宿をしたところからさほど離れていない森の入口で、倒木に腰かけている悟空をみつけて、少し驚いたような声をあげた。
 いつもであれば、起こすまでぐっすりと眠っているはず。
 そして、起きたと思ったら、元気に活動する。
 そんな悟空が、八戒が起きる前からすでに起きていて、しかも座ったままで、ぼーっとしているとは。
「おはようございます」
 声をかけると、ぼーっとしたままの顔があがった。
「……あ、おはよ、八戒」
「どうしました? 夕べはあまり眠れませんでした?」
 暑すぎず寒すぎず。
 野宿をするのには、そんなに辛い季節ではない。
 それにこのところ、妖怪たちの襲撃もなく穏やかな日々が続いていたこともあって、野宿というよりもキャンプ気分で昨日も普通に悟浄とはしゃいでいた。
 第一、この子供に限って、眠れない、というのはあまりないと思うのだが。
 そんなことを考えながらも、そう声をかけたのだが。
「夕べ……」
 呟き声とともに、悟空の顔がみるみる赤くなっていく。
 そして。
「顔、洗ってくるっ」
 なんだか宣言するようにいうと、すくっと立ち上がり、水場の方へと歩いていった。
「なんだ、あれ」
 と、いつの間に起きてきたのか、後ろで悟浄の声がした。八戒は顔だけ、そちらに向ける。
「おはようございます」
「あぁ。おはよーさん」
 とりあえず、朝の挨拶を交わすと、悟浄は八戒の肩に手を置いて、肩越しに覗くように悟空の姿を見た。
「で、なに? 猿、なんかあったのか?」
「さぁ。僕にもわかんないんですけどね。……ヘンな歩き方ですね」
「右手と右足が一緒に出てんぞ。普通、そっちのが、意識しなきゃできねぇと思うんだが」
 ギクシャクと歩いていくさまを二人して眺める。
 と。
「あ」
「転んだ」
 ベチャ、という感じで、悟空が地面にうつ伏せになった。
「……顔からいったぞ。なにやってんだ、あいつ」
「うーん。どうしちゃったんでしょうね」
「おぉ?」
「おや」
「飼い主さん、ご登場〜」
 水場の方から、こちらも珍しくもう既に起きていたらしい三蔵が戻ってくるのが見えた。
 と。
「あ」
 二人同時に声をあげる。
 悟空が立ち上がったかと思うと、すごい勢いで、森に向かって駆け出したのだ。
 まるで逃げるかのように。
「なんなんだ?」
「さぁ」
 二人は、なんとなく悟空が森の中に消えるまで見送り、それから、なにごともなかったかのようにのんびりとこちらに戻ってくる三蔵に視線を向ける。
「おはようございます、三蔵」
 程なくして戻ってきた三蔵に八戒が声をかける。
「あぁ」
 そう言いつつ懐から煙草を出すさまは、起きたばかりという感じではない。
 低血圧な最高僧さまは、起きたばかりだとかなり呆けてたりするのだが。
「で、なにがあったわけ?」
 ポケットから取り出したライターで火をつけてやりながら、悟浄がきく。
「なにが、とは?」
「とぼけるなよ、小猿ちゃんだよ」
「別に」
「別にってことはねぇだろ」
「そうですよ。悟空、なんか様子が変だったんですから」
 八戒も加勢するが、三蔵は黙ったままでそれ以上は答えようとはしない。
 すると、ふいに悟浄の目に面白そうな光がうかんだ。
「まさか、お前」
 にやにや笑いが顔にはりつく。
「ヤっちまったとか?」
「悟浄」
 八戒が非難めいた声をあげた。
「だってよ、あいつ、夕べって単語に顔を赤らめてたんだぜ。あんな反応するなんてそうとしか思えねぇじゃん」
 どうやら、そこから見ていたらしい悟浄が、笑いをおさめようともせずに続ける。
「で、どうなのよ?」
 しばし、沈黙が落ちる。
「……ヤってねぇよ」
 答えなければ解放されることはないとわかったのか、三蔵が口を開いた。
「本当に?」
「信じる、信じねぇは、てめぇの勝手だ」
「ふーん。実は未遂だったとか」
「悟浄」
 今度はやんわりとながら、声に制止を含ませて八戒が声をかける。
「朝食の準備を手伝ってください。三蔵は、悟空を連れ戻してきてくださいね」
「腹がすけば勝手に戻ってくるだろう」
「朝食は、ちゃんとみんなそろってからという決まりじゃないですか」
 いつの間にそういうことになったのか。
 そんな反論も許さない完璧な笑みを見せて八戒がいう。
「お願いしますね」
 さらに念を押され、三蔵は舌打ちをしながらも、森へと向かった。



 さて、森の中では。
 ひときわ大きな木に寄りかかり、悟空はせわしなく呼吸を繰り返していた。
 心臓がドキドキいっている。
 それは走ったからではなく――。
 ずるずるとそのまま倒れるように木の根元に膝をつく。
 なんだか力が入らなかった。
 それは、あの紫暗が――。
「わーっ!」
 思わず大きな声をあげて、脳裏に浮かんできたものを追い出そうとする。
 間近に迫った、綺麗な紫暗の瞳。
 見慣れているはずなのに、あんなに近くで見るのは初めてで。
 そして、その瞳に宿るのは、今までに見たこともないような光で。
「わー、わー、わーっ!!」
 思い出すまいとすると、余計にそのときの情景が頭に浮かんできて、悟空はぽかぽかと自分の頭を殴りながら、大声をあげた。
「……なにしてるんだ、お前」
 と、呆れたような声が響いた。
 それは、今、一番会いたくない人の声。
「……さんぞ」
 恐る恐るという感じで振り返った悟空は、視線の先に予想に違わぬ姿を見出し、慌てて逃げようとする。
「お前なぁ」
 腕を掴んでそれを簡単に阻止し、三蔵は心底呆れたかのような声を出す。
「三蔵っ、やだっ、離し――」
 ぎゅっと目をつぶり、顔をそむけ、それでも、じたばたと悟空が逃げようとする。
 が。
「さ、さ、さんぞーっ」
 引き寄せられ、腕のなかにふわりと抱かれて、ぴきんと音がするように悟空は固まった。
 かぁっと熱が頭にのぼっていくのがわかる。どくどくと心臓は波打ち、呼吸がうまくできなくて、酸欠で倒れそうだ。
「三蔵……、離して」
 普段からは想像もつかないような小さな、震えるような声で悟空がいう。
「離してってば。このままだと……死んじゃう」
「死ぬわけねぇだろう」
 呆れた、でもどこか面白がっているような、そんな声が響く。
「死んじゃうよ。……息、できない」
 今にも泣き出しそうな声の切実な訴えがきいたのか、三蔵がそっと身を離す。腕は捕まえたままで。
 悟空は、ほっと息をつくが、目を上げるとそこに――。
 一対の宝石のような紫暗の瞳。
 すぐ目の前にある綺麗な瞳は、昨日のことを思い出させ――。
「っ!」
 声に出さない声をあげ、悟空は逃げ出そうとするが、掴まれている腕が外せない。
 普段であれば、こんな戒め、簡単に外せるはずなのに。
「離してっ」
 身をよじり、もがいてなんとか離れようとするが、腕のなかに閉じ込められ。
「静かにしろ」
 そんな風に、低く耳元で囁かれて、悟空は再び動きをとめた。
 心臓の鼓動は相変わらず激しく、頭がクラクラして、いますぐにも逃げ出したいのに、三蔵の腕のなかにいる、それだけでなにひとつ抵抗できない。
 こんな自分は知らない。
 知らなくて――怖い。
 震えて、目に涙が滲んでくるが。
「お前は俺から逃げたいのか?」
 そんな声が頭のうえから聞こえてきた。
「どこか――俺のいないところに行きたいのか?」
 一瞬、頭のなかが白くなる。
 言葉の意味に。
「ちがっ!」
 反射的に悟空は三蔵にしがみついた。
「じゃあ、なんで逃げようとする?」
「だって、だって――三蔵、昨日、あんなことするから」
「あんなこと……? あぁ、これか」
 少しだけ三蔵が離れ、顎に手がかかって上を向かされた。
 あ、と思う間もなく、ふわりと軽く唇が重なり合った。
「〜〜っ」
 声も出せずにさらに赤くなる悟空を、悪びれもなく、それどころか楽しそうに三蔵はみつめる。
 ショック療法か。
 なんだが冷静に、三蔵が面白がっているのだということに気づいて、悟空は三蔵を少しにらみつけた。
「ずるい」
「なにが?」
「だって、なんで三蔵はそんなに普通なんだよっ。なんで平気でいられるんだよっ」
「あのな」
 ふぅ、と三蔵はため息をつく。
「いまさら、どう変われっていうんだ? 別に変わるものなんてなにひとつないだろうが」
 その言葉に悟空は、きょとんと意表をつかれたような表情を浮かべる。
「お前はこれからもここにいるんだろ」
 またもや抱きしめられた腕のなか。
 ドキドキはするけれど、先ほどまでの頭に血がのぼってなにもかもがわからなくなるようなパニック状態にはならない。
 ただ暖かくて、なんだか嬉しい気持ちが満ちてくる。
 優しく包み込まれている気がする。
 悟空は、ふっと体の力を抜いた。
 ずっと一緒だ。
 ずっと三蔵はこうしてそばにいてくれた。
 なにも変わるものはないのだ、そう思う。 
「三蔵、大好き」
「何度も聞いてる」
「うん」
 その気持ちも、変わらないのだと思う。
 静まり返った森のなか、柔らかな風に揺すられて、木の葉をさやさやと音をたてた。
 そんな優しいひとときに、悟空はこのうえなく幸せそうな笑みを浮かべた。
 キスひとつで、こんなにも動転してしまう子供に、それ以上のことをしたらどうなるのだろうと、不埒な最高僧さまが考えているのも知らずに。



「自然体」
なんだか書けば書くほどお題からズレていくような…。
それとムダに長くてすみません。前半は悟浄&八戒から見た悟空の行動がどうしても書きたくて、削れませんでした(>_<)
で、出直してきます。