ありがとうを君へ
ぐらりと視界が傾いた。
あれ……?
不思議に思った瞬間には、もう体は前のめりになっていた。
そして。
地面に倒れこむ前に、意識は闇に閉ざされた。
ふと気がつくと、暗いなかにいた。
黒一色で塗りつぶされた世界。
ここはどこだろう。
悟空は途方にくれて辺りを見回した。
が、なにも見えない。
真の闇。
目の前にかざした自分の手さえ見えないほどの。
見えない、ということは、自分の存在さえあやふやなものに変えてしまう。
もしかしたら、これが死の世界というものなのだろうか。
なにもない。
なにもかもが無に還る。
嫌だ。
突然、強い想いが湧きあがってきた。
嫌だ、嫌だ、嫌だっ!
悟空は駆け出した。
この場から逃げるように。
だけど、どこまで行っても、闇は闇。
そして、足元さえもおぼつかない。
嫌だっ!
それでも一歩、一歩、前に進みながら思う。
強く、強く。
闇よりも冷たい恐怖にのみこまれそうになりながら、悟空はただひとつだけ自分が確かに持っている言葉を叫んだ。
三蔵っ!
祈るような、縋るような、その言葉とともに、突然。
光が現れた。
「あ……れ……?」
まぶしい光が目に飛び込んでくる。
柔らかな春の日差しが、直接、顔に当たっている。
「……っの、バカ猿っ!」
と、聞きなれた怒声も降ってきた。
が、いつもならそれとともに落ちてくるはずのハリセンによる衝撃はない。
「三蔵……?」
悟空は、視線をさまよわせて、三蔵の顔を確認する。
なんだが視界にぼーっと霞みがかかっているようで、ものの判別がよくできない。
それでも、地面に座った三蔵に抱き起こされているのはわかった。
俺、どうしちゃったんだろう。
頭のなかにも霞がかかっているようだった。
だが。
「三蔵、汚れる……」
まっ白い法衣に土がつくのが気になった。
「……ホントにバカ」
ため息とともに、三蔵が呆れたようにいう。それから、その表情は不機嫌そうなものになった。
「そんなのは、どうでもいいだろう。それよりも、具合が悪いならなぜいわない?」
「具合が悪い……? なんかぐらぐらすること……?」
視界が揺れているような気がする。
気持ち悪いが、でも、三蔵の顔を見ていたくて目をこらす。
「それすらもわかってなかったのか、お前は」
さらに呆れたような声に、悟空は口をつぐむ。
わかっていなかったわけではない。
ここ二、三日なんとなく体の調子が普段と違うことはわかっていた。
なんといっても自分のことだ。わかるのは、当たり前だろう。だが。
「というよりも、野生動物か。坊主どもにナメられないようにするために、隠していたのか」
心の中を言い当てられ、悟空は大きな目をさらに見開いた。
「だからといって、こんな風にぶっ倒れてりゃ、世話ねぇだろうが。いっとけば、こんなことにもならねぇものを」
「だって……」
悟空の目が頼りなげに伏せられる。
その様子に、再度、三蔵はため息をついた。
「また捨てられるとか、そういうことを考えたのか。足手まといになるから、と」
三蔵の言葉に、悟空は泣きそうになる。
お見通しなのだ、と思う。
そして、こんな風に弱ってしまった自分はもういらないのだ……。
「あのな。捨てるつもりなら、わざわざこんなところまで来ねぇよ。そのままほっときゃいいだけの話だろうが」
言葉の意味がわかるまでに、少し間があった。
「さんぞ……?」
悟空は驚いて、伏せていた目を上げる。
あたたかな日差しは日中のもので、普段ならばこの時間、三蔵は執務室で仕事をしているはずだった。
それなのに、わざわざ探しにきてくれた。
「さんぞ……」
嬉しくなって悟空は自力で起き上がろうとするが、うまく体に力が入らない。
少し安心して、張りつめていたものがなくなったせいか、余計に体がつらくなったような気がする。
熱くて、頭がぼーっとする。
だけど、体の芯は冷たくて。
こんなのは知らない。
嬉しくなったのもつかの間。
「三蔵、俺、死んじゃうの?」
法衣の胸元を震える手で握りながら、悟空が問いかける。
「ただの風邪だろ。死にはしねぇよ」
「ホントに?」
「あぁ」
いいながら、三蔵は悟空を抱き上げる。
「……良かった」
ポツリと悟空は呟いた。
「どうした?」
いつもとは少し違う様子に気づいたのか、三蔵が問いかける。
「俺、ずっと『生かされている』ことは罰なのかと思ってた……」
そっと頭を三蔵の胸に預けるようにして、悟空は静かに言葉を紡ぐ。
「あの岩牢で、届かない明るい外の世界をずっと見ていなくちゃいけないのは、罰なのかと思っていた。全然覚えてないけど、なにか、途轍もないことをしたんだっていうのは、わかっていたから」
いつもの明るく元気な様子とはまったく違う暗く沈んだ表情。
「守りたいものがあった。とても大切な人。でも、守れなかった。そして、俺一人だけが置いて行かれた……」
法衣を握る悟空の手の力が少し強くなる。
「ずっと、ずっと、あの岩牢のなかで、こんな風に置いていかれるくらいなら、一緒に連れていってくれればよかったのに、と思っていた。こんな苦しい思いをさせられるくらいなら、いっそ、殺してくれた方が良かった、と。その方が幸せだった、と」
それから、ふっと悟空の体から力が抜けた。
「でも、違ってた。その人は俺に苦しい思いをさせるために俺を残したんじゃなくて、生きていてほしかっただけなんだ。ただ、生きてほしいと望んだ。今、それがよくわかる。生きていて良かったと思うから。この世界に存在することが幸せだと思うから」
悟空は顔をあげた。
澄んだ金色の瞳が、まっすぐに三蔵を見る。
「だから、ありがとう。俺を生かしてくれて」
「……礼をいう相手が違うぞ」
三蔵のその言葉に悟空はふわりと微笑み、それからゆっくりとまぶたを閉じた。そのまま引き込まれるように眠りにと落ちていく。
まぶたを閉じる最後の瞬間に見た金色の光を胸に大事にしまいこんで。
大切だった金色と同じ光を――。