あと何センチ?
寺院の門をくぐって執務室に向かう途中。
どこから見ていたのか、小猿ちゃんが駆け寄ってきた。
「悟浄、八戒、いらっしゃいっ」
頬を上気させ、いつにもまして嬉しそうな笑みを浮かべるその様は、小猿というよりも仔犬のようだ。あるはずがないのに、尻尾がさかんに振られている幻が見えるような気がする。
そして、キラキラと輝く大きな金色の瞳が見ているその先は――。
ふーむとちょっと考え、小猿ちゃんの視線を釘づけにしている包みをすぐ目の前にと持っていってやった。
と、途端に零れるような笑みがますます大きくなる。
あまりにもわかりやすい反応に、なんとなくからかってみるのも一興かと思ってしまう。
こちらに向かって差し出した手のうえに包みを置くと見せかけて、触れるか触れないかの瞬間に上に向かって勢い良く引いてやった。
ぽかんとした表情が浮かぶ。
なにが起こったのかわかっていないのだろう。
すごいまぬけ面。
思わず喉を鳴らすような笑い声を漏らすと、一瞬のうちに小猿ちゃんの眉が寄り、むっとした表情にと変わった。
そして、次の瞬間。
予想外の速さで、手が上にと伸びてきた。
が、対応できないほどの速さではない。
一歩後ろに引いて、取られる前に包みを横にと移動させる。
ますます頬を膨らませる小猿ちゃんと目が合い。
そして。
「っの〜!」
「甘い〜」
上下、左右にと、激しい攻防戦が始まった。
「う〜っ!」
が、どうしたって上背があるほうが有利である。
それに気づいたのか、包みではなく腹に向かって突進してこようとした小猿ちゃんを、片手で額を押さえて止めてやった。
「ずっりぃっ!」
両手をぶんぶん振り回すが、リーチの差で空を切るだけだ。
「ずるいもなにも、小猿ちゃんが、ちっこいからでしょ」
額を押さえたままそういってやると、ますます手の振りが早くなる。
「ぜってぇ、おっきくなってやるっ!」
「まぁまぁ」
叫ぶように宣言する小猿ちゃんの肩に、なだめるように手がおかれた。
ちらりと、少しとがめるように碧の目がこちらを通り過ぎる。
「あっちは、お酒とつまみですから。はい。こっち」
柔和な笑みとともに八戒が持っていた包みを差し出した。
「悟空の好きな柏餅はこっちに入ってますから」
その言葉を聞いて、小猿ちゃんの顔に輝くばかりの笑みが戻る。
「八戒、大好きっ」
そして包みごと、小猿ちゃんは八戒に向かって飛びついた。
「……っの、バカ猿!」
執務室に足を踏み入れると、怒声とともに『スパーン』とそれはもう素晴らしく良い音が響き渡った。
「ってぇっ! いきなりなにするんだよっ!」
ハリセンによる衝撃でよろめきつつも、包みはしっかり握って落とさなかったのは、さすが小猿ちゃんだ。がうっと噛みつくようにすかさず反撃に転じる。
「なにをするじゃねぇっ! ったく、窓から出入りするな、と何度も言わせるなっ!」
見ると、執務室の窓がひとつだけ開け放たれており、気持ちの良い風が吹き込んでいた。
どうやらここから俺たちがやってくるのを見つけ、そのまま乗り越えて外に出たらしい。
「お前ののーみそは空っぽかっ?!」
バシバシとハリセンが振り下ろされるたびに良い音が響く。
そこまで何度もたたかなくても、と思いつつ、なんだか本当に良い音がするので、これはホントに空っぽかも、と思っていたところ。
「まぁまぁ」
またもや八戒が割って入っていった。
「もうそのくらいで。行き過ぎた躾は暴力でしかありませんよ」
にっこりと笑ってはいるが、なんといっても、八戒は小猿ちゃん贔屓だ。
心なしか空気が冷たい。
「ご馳走を作ってきたんです。ひと休みしませんか?」
そう言いながら、手近な小卓に持っていた包みを置くと、中身を並べ始めた。
「おい、勝手に……っ!」
苦虫を噛み潰したような表情を見せる三蔵の前に、持ってきた酒瓶をかざしてやった。
「まぁまぁ。今日は年に一度の子供の日なんだし、子供の成長を喜んでやろうじゃねぇか」
この酒は、三蔵法師さまでも滅多に手にいれることのできない逸品である。
あらゆるコネを駆使して手に入れた幻の酒だ。
「……別に育ててるわけじゃねぇ」
見てわかったのだろう。三蔵の表情が少し和らいだ。
そうこうしている間に、テーブルの上には食べ物が並らび終わったが、いつもなら真っ先に手をつけるはずの小猿ちゃんがご馳走には目を向けず、八戒の腕を引いて小卓を離れる。
「背ぇ測って!」
とてとてと柱に向かう。
そういえば、去年、背丈を測ったことを思い出した。
「少しは大きくなってるのかねぇ」
なんだかワクワクとした表情をして、柱に印をつけてもらっている小猿ちゃんの方を見て、三蔵に話しかけた。
「さぁな」
「素っ気ないなぁ。子供の成長が嬉しくないのかね」
「だから、育ててるわけじゃねぇ」
「さんぞーっ」
と、小猿ちゃんが舞い戻ってきた。三蔵の腕に懐くように捕まる。
それに話しかけた。
「ちぃっとは、大きくなってたか?」
「ちょっとじゃないっ! たくさんっ! だから三蔵も、背ぇ測ろ」
体は大きくなってるのかもしれないが、頭の中身は全然変わってないような気がする。
いまの言葉も、どこにかかる『だから』だかわからない。
だが、そんなことはよくあることで。
だいぶ後になって、悟空のなかではちゃんと意味のある言葉だったのだとわかったが、このときはたいして気にもかけなかった。
「三蔵はあんまり変わんねぇんじゃないか」
そう声をかけたところ。
「念のため」
という答えが返ってきた。
……わけがわからん。
おそらく三蔵も同じ気持ちだったのだろう。少し眉間に皺を寄せたまま、それでも引っ張られていくのは、やっぱり保護者さんだからかもしれないと思う。
結局、小猿ちゃんには甘いのだ。
ま、それは俺も含め、みんな同じなんだが。
「えぇっと、去年が……で、……んと……」
三蔵の身長を測りおえると、小猿ちゃんを指折り数えながら、なにやら計算をし始めた。
どうやら去年の身長との差をもとめようとしているらしい。
珍しくも自分から計算を始める小猿ちゃんに、感動したように八戒が横から助け舟を出す。
ちょっとした勉強会だ。
ま、これくらいの計算はできとかなきゃこれから先困るだろうし、そのまま放っておく。
「にしても、なんだかやる気だなぁ」
熱心に八戒に教わっている小猿ちゃんを横目で見ながら、持ってきた酒をあける。
「そういえば、今日は朝から背比べだと騒いでいたな……」
横柄に杯を差し出しながら、三蔵がいう。
あまりにも三蔵らしくて、むっとするよりも呆れる。
それにしても。
「柏餅でなく?」
小猿ちゃんにしては、珍しいこともあるもんだ。
「うーん。あとちょっと。来年かな」
とやけに真剣な小猿ちゃんの声が聞こえてきた。
「柏餅っ!」
それからいつもの笑みが浮かべ、こちらに向かって突進してきた。
「15センチってわかります?」
いつものように飲み食いをし、ほろ酔いなのも手伝って、少し楽しい気分を引きずったまま家路を辿っていると、突然八戒がそんなことを言い出した。
「へ?」
意味がわからなくて聞き返す。
「なんだが、悟空がこだわっているみたいで。聞いても『内緒』といって答えてくれなかったので。そういうのって、あなたが噛んでることが多いでしょ」
「ちょっと待て」
それは言いがかりだと思う。
「15センチ?」
だが、まぁ、あることないこと吹き込んで小猿ちゃんをからかうのは面白いからたまにしてるし、とりあえず考えてみる。
「……覚えはない、と思う」
割と真剣に、つらつら考えてみたが、思い浮かばない。
「そうですか」
なんなんだろう。
その場では二人して首をひねったが、その後はなにがあったというわけでもなく、そんな出来事は忘れ去ってしまった。
だが。
それを思い出したのは、その翌年の、やはり子供の日のこと。
15センチ。
その意味が、そのときになってようやくわかった。
目の前で起こったことに、度肝を抜かれた。
「よしっ!」
去年と同じように、身長を測ってもらい。
去年と同じように、ぶつぶつと計算をしていた小猿ちゃんが突然、叫び声をあげた。
握りこぶしをつくっている。
なんなんだ?
と思っていたところ、とてとてと三蔵のもとに近寄ってきた。
「さんぞっ」
腕をひいて、立ち上がらせようとする。
「なんだ? 身長ならさっき測っただろうが」
杯を片手に、もう飲み始めていた三蔵が不機嫌そうにいう。
「うん。だから、ね。ちょうどぴったりになったんだ」
言いつつ、お構いなしに小猿ちゃんは三蔵を立たせた。
にっこりと三蔵に笑いかける。
そして。
背伸びをするようにして、三蔵の方に顔を近づけた。
ガチャン、と手から落ちた杯の音が、どこか遠くで聞こえた。
目の前で起こったことに、去年言っていたという「15センチ」の意味がようやくわかった。
15センチ。
それは理想の身長差。
――キスをするときの。
女性がつま先立ちになり、男性が少し身をかがめ。
キスをするときに一番綺麗に見える身長差が15センチなんだそうだ。
確かに、小猿ちゃんに向かってそんなことを言ったような気はする。
だがそれはあくまでも男女間のことであって。
しかも。
いくら理想の身長差になったからといって、いきなり人前で見せつけるようにすることじゃないだろっ。
「三蔵と15センチ差になったら、絶対キスしようって思ってたんだ」
そっと離れ、小猿ちゃんはふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
それから。
「ね、綺麗だった?」
あろうことか、こちらを向いて問いかけてきた。
あまりのことに、俺も八戒も固まって、答えも返せないでいたところ。
「――お前ら、もう帰れ」
最高僧さまの低い声が響いた。
「え? 三蔵、ちょっと……俺、まだなにも食ってないっ!」
そして、さりげなく腰にまわしっぱなしだった手を引いて、隣の寝室にと入っていく。
――おいおい、最高僧さま。ナニヲスルキデスカ???
パタン、と音をたててしまった扉を、なす術もなく見つめる。
視界から二人が消えたおかげで理性が戻ってくるが。
途端に、なんだかあたりの空気が冷たくなっているのに気がついた。
八戒……。
まったく、揃いも揃って、人の迷惑も考えず、後先も考えず、自分勝手に行動してんじゃねぇっ!
出てこい、このバカップルがっ!
今後の運命を思って、心のなかで空しく叫んだ。