瞬間
こちらに向かって伸びてくる手に肩を掴まれ、引き寄せられた。
ぽすん、と頬が胸にぶつかる。
衝撃はない。むしろ柔らかく暖かくて、なんだか嬉しい気持ちになる。
微かに含み笑いを漏らしていたら。
顎に手がかかって、上にと向けられた。
間近に綺麗な顔。
思わず息を止めた。
その顔が近づいてきて――。
「うっわあぁぁっ!」
叫ぶような声をあげて、悟空は飛び起きた。
ドッ、ドッ、ドッと心臓がうるさく音をたてている。鼓膜に直接響いてくるような鼓動は、自分以外にも聞こえるのではないかというくらいすごい音だ。
はぁ、はぁと肩で息をし。
ふと自分のいる場所に思いいたった。
寺院の寝室。
ぱっと、横のベッドを見て。
そこに誰もいないことに気づいて、ほぉっと息を吐いた。
そういえば、三蔵は昨日遅く寺院に帰ってきたときに、朝になったら三仏神のところに報告に行くといっていた。
悟空はもう一度、大きく息をついた。
心臓の音はまだやけに大きく耳に響いている。
「なんだって、あんな夢……」
寝台の上で飛び起きたときのままの状態で固まって、悟空は呟いた。
昨日。
三仏神からの依頼をはたしての帰り道に、遅くなってから町を通り抜けていた。
遅くといっても、真夜中まではまだ少しあり、繁華街であるその辺にまったく人影がないというわけでもなかった。
だが、そのほとんどは酔っ払いだ。
僧衣の青年と子供という組み合わせは珍しく、これまでにそれだけのことで絡まれることが多々あったので、ふたりの足は自然と早くなっていた。
だが、人通りの途切れたところで、ふと悟空の目が暗がりに立つふたつの影をとらえた。
通りすがりに、見るとはなしに目がいく。
別に三蔵の経文を狙っている輩だとか、酔っ払いだとか、そういう風に思って警戒していたわけでない。
ただ、なんとなく優しい雰囲気が漂っていたので気になった。
やがてふたつの影は寄り添い、重なりあった。
それを見て、悟空の足が自然と止まった。
なんだろう。
なんだかとても幸せそうな感じがする。
「この、バカ猿。なにしてるんだ」
引き返してきたらしい三蔵に腕をつかまれるまで、悟空はぼーっとそこで立ちつくしていた。
「さんぞ」
「三蔵、じゃねぇ。はぐれたら置いていくといつもいってるだろうが」
「ごめん、でも……」
そこで、三蔵は悟空が見ているものに気づいた。
「三蔵、あれ、なにしてるの?」
不思議そうに悟空が尋ねる。
割と距離があるからだろう。
こちらで話している声は届いていないようだ。
もとよりふたりの世界にいるというのもあるのだろうが。
重なり合った影はいったん離れ、それからふわりと抱きあった。
「あ……。あれ、三蔵もしてくれるやつ。俺、あれ、大好……」
最後まで言えず、突然、ハリセンが落ちてきた。
「いってぇな。いきなりなにすんだよ」
「あれとそれは違う」
「はぁ?」
「だから、俺がしてることと、あれは違うんだ」
「違うって……どこが?」
怖いと感じたときにやってくれることと同じじゃないか、そんなことをいおうと三蔵の方を向いて初めて、三蔵がなんだか困っていることに悟空は気づいた。
といっても、相変わらずのポーカーフェイスで表情に出ているわけではないが、悟空にはなんとなくわかる。
「三蔵……?」
そんな三蔵には見覚えがなくて、悟空の方も戸惑ってしまう。
「……あれも、その前のも、好き合った男女のするものだ」
しばらくして三蔵がそう答える。
「ふぅん」
イマイチよくわからなかったが、悟空はとりあえず相槌をうっておく。
「行くぞ」
いつもなら『わかってねぇのに、適当に答えるな』とかなんとか怒りそうなのに、三蔵は短くそう言って、歩きだす。
なんとなく腑に落ちない気持ちになりながらも、悟空はそのあとをついていった。
「さっきの」
その背中に話しかけると、ぴくんと肩が揺れたような気がした。
どうやら珍しく苦手な話題らしいと思ったが、思いついたことは口にしなくてはならない性分の悟空は先を続ける。
「俺と三蔵もいつかするの?」
聞いた途端に、ハリセンが飛んできた。
「いってぇ」
しかも、先ほどの比ではない。なんだか頭がくらくらするほどの強さだ。
「てめぇはなにを聞いていたんだ?! 好き合った男女といったろうがっ!」
「だから、俺、三蔵、好きだしっ!」
怒鳴られて、思わず怒鳴り返す。
むぅっとした顔で睨めば、はぁぁ、と気の抜けたような溜息が返ってきた。
「バカ猿」
そう言い捨てて、三蔵は再び歩きだす。
「もう、なんなんだよっ!」
悟空は足を早めて、三蔵に並ぶ。
「だって、三蔵にぎゅってしてもらうの気持ちいいから。怖いのなんて、すぐ消えちゃうくらいだからっ。さっきのみたいのしてくれたら、もっと気持ちがいいと思うし」
「だから、男女と言っているだろうが。男と女だ。だいたい男同士でなんて、気色悪いだけだろうが」
吐き出すように三蔵は言う。
「もう、この話はおしまいだ。さっさと帰らねぇと朝になっちまう」
三蔵はさらに足を早め。
「待てよ」
悟空もそのあとを追った。
寝台のうえで、悟空は昨日の記憶を反芻した。
夢は、昨日のあのときのことからきているのだろう。
三蔵にしてもらったら、きっとあのふたりみたいに幸せな気持ちになると思っていた。
だけど。
こんなにドキドキするなんて、思ってもみなかった。
夢の中のことなのに。
実際に起こったことではないのに、ドキドキは止まらない。
こんなんで、実際にしてもらったらどうなっちゃうんだろ。
実際に――?
そこで、悟空はふと三蔵に言われたことを思い出した。
――だいたい男同士なんて、気色悪いだけだろうが。
「あ……」
ドキン、とまた心臓が跳ねた。
だが、今度のはさっきまでとは違い。
すぅっと、体中から熱がひいていくような感じがした。
執務室で、ようやく片づけ終わった書類を前に、三蔵はため息をついた。
煙草をとりあげ一服する。
ふぅ、と煙を吐き出すと、このところずっと気になっていることが頭に浮かんできた。
ここ、二、三日、悟空の様子が変なのだ。
いつもならば、ウザいくらいにつきまとってくるのに、どこか三蔵を避けているような感じがする。
そのくせ視線を感じる。
視線を向けると、別のところを見ていて、一瞬遅れて「なに?」とでもいうようにこちらを見る。
なにもくそもねぇだろう、と思う。
先に見ていたのは悟空の方だ。
たとえその瞬間を捕まえられなくも、確実にそうとわかる。
そんなことが繰り返され、そのたびに覚えるるわけのわからない苛立ちに、三蔵はかなりストレスを溜め込んでいた。
だからだろう。
その時、窓の外から感じた視線に、三蔵は乱暴に椅子を引き、窓の方に向かった。
バタン、と大きな音をたてて窓を開ける。
窓のすぐ下に悟空の姿。
それは別に珍しいことではない。
三蔵が執務室にこもっているときには、よくこの辺で遊んでいたりする。
だが。
「猿、用があるならちゃんと言え」
「へ?」
驚いたような表情で顔があがり、悟空は立ち上がる。
そんなことをしても、三蔵にはわかる。
驚いている表情をしているだけ。そんなふりを装っているだけ。
「だから、ただ見てるばかりじゃなくて、ちゃんと言葉に出していえといってる」
三蔵は手を伸ばし、強引に悟空を抱き上げた。
あの怪力がどこからでるのかというほど、華奢で軽い体は、簡単に窓枠を乗り越えて、室内にと運ばれる。
「な……っ。いきなりなにすんだよっ!」
ぱっと悟空が三蔵の手から離れた。
「だいたい、窓からなかに入るなっていつも自分でいってるじゃないかっ」
がうがうと噛みつくようにいってはいるが、それは表面のことだけだ。
そうしながら、ここからの逃げ道を探っている。
逃がさない。
とでもいうように、三蔵は悟空の手をとった。
途端に息をのむ気配。
先ほどまでの勢いはどこにいったのか、悟空は顔を伏せた。
「だからウゼェといってるんだよ。いつも、なにかいいたそうに人のことを見て。気づかれていないとでも思っていたのか」
かすかに悟空の体が震え出した。
「離……して」
か細い声が漏れる。
それを見て、戸惑いにも似た感情が三蔵の胸に湧き上がってくる。
これは、どういうことだろう。
いつもなら、ここで元気の良い、子供じみた反応が返ってくるはずだ。
なのに、これは。
悟空自身も覚えていない過去のなにかに怯えて、のことではない。
それとはまったく別のもの。
いや。
悟空自身が別の存在にと変わってしまったかのようだ。
どこからともなく、花の香がしてくる。
くらり、と。
香にあてられたかのように、三蔵はめまいを起こしそうになった。
「悟空」
なんだか急に、すべてが現実味を失っていくようだった。そんななか、ただひとつ、確かな名を呼ぶ。
呼びかけに、悟空の体の震えが大きくなった。
「や……だ。離して……」
「顔をあげろ」
「や……」
「なぜ?」
ふるふると頭が振られる。
「悟空」
再度、促す。
「や……。嫌わ……れ……」
微かに涙を含んだ声。
それでいながら、さらに三蔵にめまいを起こされるような声音。
甘い花の香が、胸のうちに広がっていくようだ。
そっと三蔵は手をのばした。
悟空の頤に手をかけて。
そして。
ゆっくりとあがる顔。
ゆっくりと現れる金色の目。
その瞬間
囚われたのは――。