ABC
「ちょっと、待ったっ!」
寺院の三蔵の私室で。
悟空は迫ってくる三蔵を一生懸命ぐいぐいと押し返そうとしていた。
普段なら、こんなに近くで綺麗な三蔵の顔が見れて嬉しい、と思うかもしれない。
だけど、どうしてだが、今の三蔵は雰囲気がヘンで。
なんとなく身の危険のようなものを悟空は感じていた。
だけど、そんなものを三蔵に感じるなんてありえないことだから。
逃げも隠れも、ましてや反撃することもなく、悟空はただひたすら三蔵の手の届かないところに退こうとしていた。
「酔っぱらってんのかよっ!」
つい先ほどまで、酒と肴を持って訪ねてきた八戒と悟浄と宴会みたいなことをしていた。
そんなに飲んでたようには見えなかったのだが、もしかして顔に出てないだけで、相当酔っぱらっているのだろうか。
だから、こんな普段なら絶対しないようなことをしようとしているのだろうか。
触れることすら珍しいのに。
これは――抱きしめようとしている―――――?
そんなの、死ぬほど酔ってでもいなきゃ、ありえない。
そう思ったのだが。
「あれくらいで酔うわけねぇだろ」
至極マトモな表情で三蔵がいう。
「じゃあ、なんなんだよ、一体っ!」
「……教えてほしいといったのはお前だろうが」
叫ぶようにして問いかけると、むっつりとした答えが返ってきた。
「教えて、って……」
悟空は少し困惑する。
そう。
確かに先ほどまでしていた酒盛りの席で、「教えろ」と騒いだ覚えが悟空にはあった。
だけど、それは。
「もう教えてもらったじゃん。八戒に」
にっこりといつもの笑顔で八戒が教えてくれた。
八戒は凄い。
他の国の言葉だなんて。
もっとずっと遠くには、他の国ってのがあって、そこでは使われている言葉が違うなんて。
そんなの全然知らなかった。
と、思い返して悟空が感心していると、苛ついたような三蔵の声がした。
「その答えじゃねぇ。もうひとつ、意味があるって河童がいってたろ」
そのとき確かに悟浄はそんなことをほざいていた。
というか。
もとはといえば、その言葉自体、悟浄が持ち出してきたものだったのだが。
「でも、もうひとつのイミなんてないって八戒はいってたし、三蔵だってそうだっていってたじゃんか」
ぷくっと頬を膨らませて、悟空がいう。
「じゃあ、なんだよ。三蔵、嘘ついたってことかよ」
「そうじゃねぇ」
ぐっと、いつの間にか抵抗することを忘れてしまった悟空を、三蔵は腕の中に抱き寄せた。
あまりの近さに悟空は息を止める。
かつてこんなに間近で三蔵の顔を見たことなんてあっただろうか。
綺麗――。
「あの言葉には、秘密の意味があるんだよ。人前ではいってはいけない意味が、な」
ほとんど触れあうほどの近さで三蔵が囁く。
だが、悟空の耳にその言葉は届いていなかった。
声は音として聞こえてはいたが、意味をなさない。
ただぼんやりと三蔵の顔を見つめていた。
綺麗だ。
なにもかもがものすごく綺麗。
「ちゃんと教えてやるよ」
言葉とともに三蔵の顔がもっと近づいてきた。
そして。
柔らかな――初めての感触が唇に触れた。
――直接の引き金は、怒りだった。
ただ無性に腹が立ったのだ。
金色の瞳をした子供のあまりにも無邪気で無防備なさまに。
だれにでも懐くさまに。
簡単に人を信用するなといつもいい聞かせているというのに。
このままではいつかきっと痛い目をみる。
いつかだれかにだまされて。
でなければ、甘い言葉に丸めこまれて。
結局、泣く羽目になるのだ。
そうなる前に教えといてやるのは、保護者としての務めだろう。
まるでいいわけでもするかのように、三蔵はそう考えて悟空の手をひいた。
大きな金瞳をさらに大きくして見上げてくるこの子供に、ほかのだれかが触れるかもしれないと考えたときに湧き上がった嫌な感情には目をつぶって。
初めて触れた唇は、思っていた以上に柔らかく――そして、甘かった。
「さ……んぞ……?」
どういうことかわかっているわけではないだろうに、悟空の声は甘く震えている。
金色の目に薄く水の膜が張ってゆらゆらと揺れている。
「全部、ちゃんと最初から教えてやる――」
三蔵は囁き、今度は深く口づけた。