自分だけの……
ドアの開く音は小さすぎて聞こえなかったが、外のざわめきが大きくなって、ドアが開いたのだとわかった。
三蔵は手を止め、戸口に顔を向けて、入ってきた客に声をかけようとした。
が、言葉が途中で止まる。
入ってきたのは少年で、泣きはらした赤い目をしていた。
「髪、切ってください」
だけど、うつむくでもなく、視線をそらすでもなく、まっすぐに三蔵を見つめていった。
充血して、腫れているのにも関わらず、その瞳は綺麗だった。
綺麗な黄金色の瞳。
きっとその瞳のせいだろう。
この美容院は明日オープンで、まだ準備中だと告げて驚いた少年に、道具のチェックをするのにちょうどいいかもしれない、などと言い訳のように付け加えたのは。
金色の瞳には魔性が宿っている。
そんな言葉が三蔵の頭をよぎった。
少年は、腰まで届くくらいの長い髪をしていた。
華奢な体格で、ともすれば少女にも見えた。
が、強い目の輝きには、少女らしい柔らかなものはなく。
かといって、男を感じさせるものはなにもなく。
どこか中性的な、不思議な雰囲気を持っていた。
どんな髪型にするのか、最初に相談する前に、三蔵は一度奥に引っ込むと、ハーブティを淹れて戻ってきた。
少年の目の前に置く。
少し驚いたような顔が、意外に幼く、可愛く見えた。
「すみません」
「もともと客に出すように買ってあったものだ」
手を伸ばし、少年はひと口飲むと、ふっと溜息をついた。
張り詰めていたような雰囲気が少し柔らかくなる。
「で、どうしたいんだ?」
三蔵が聞くと少年はクスリと笑みを浮かべた。
綺麗な笑顔だった。
「それ。客に対する態度じゃない」
「いいんだよ。オープンは明日だ。だからまだお前は客じゃない」
「ヘンな理屈」
ひとしきりクスクス笑うと、少年は大きく息を吐いた。
再び、三蔵にと向けられた顔には覚悟を決めたような表情が浮かんでいた。
「この辺から、ばっさりと切っちゃって」
少年が指し示したのは、耳の下。
本当にばっさりと、少年らしい髪型にしてほしいとのことだった。
「……いいのか?」
「なにが?」
「その髪。大切に伸ばしていたんだろう?」
三蔵の言葉に少年の目が見開かれた。
「凄いね。美容師さんってそんなことまでわかるんだ」
「そりゃ、な」
茶色の髪は、染めたものではなく、もとからこの色なのだろう。
毛先まで艶やかで、枝毛ひとつなさそうだった。
「大切にしてたんだけどね、でも、もういいだ。それに、切らないと先に進めな――あれ?」
どこか間の抜けたような声があがる。
少年はびっくりしたような顔をし、それから目から零れ落ちる涙をごしごしと袖口でこすった。
「やめろ」
その手を三蔵は押さえる。
「でも」
「無理にとめることもねぇだろ。こすると腫れるぞ。押さえるくらいにしておけ」
いって、取りだしたハンカチを押し当てる。
「ごめん……。ありがと……。もう散々泣いたから大丈夫だと思ってたんだけど」
ハンカチを受け取りながら少年がいう。
「なにかあったのか?」
三蔵はそう口にし、普段は絶対に言わないことを言ったのに気がついて慌てたように付け加える。
「いや、話たくないのなら……」
「失恋、したんだ」
突然、少年がハンカチで目を押さえたまま、ぽつりといった。
「すごくすごく好きだったんだけど、その人は別の人が好きで。その二人がうまくいったから、諦めなくちゃならなくなった。俺、その人が好きな人も大好きだから」
いまどき、失恋したからといって髪を切るなんて、ものすごく珍しいことかもしれないが。
だが、この少年にとっては、とても真剣なことなのだろう。
三蔵は椅子から立ち上った。
目の前の茶色の髪をくしゃりと掻きまわす。
「ちゃんと綺麗に切ってやる」
あとに残らないように。
そう、心の中で付け加えた言葉が聞こえたのか。
少年は顔をあげた。
「ありがとう」
告げられた言葉は、いつまでも記憶に残った。
涙を湛えた綺麗な金色の瞳とともに。
その後しばらくして。
三蔵はそのときの少年が、海外ではとても評価の高いモデルであったことを知った。
紹介されていた雑誌の写真は、どれも綺麗な笑みを浮かべていた。
だが。
あのとき見た涙を浮かべた笑みに敵うものは、どれひとつとしてなかった。
あれは、自分だけに向けられたものだから。
その笑みは、三蔵の胸だけにしまわれる――はずだった。
ふたたび、少年と出会うまでは。
―――――ふたりの物語は、まだ始まっていない。