優しい子守唄。
いつのころから、雨の音があまり気にならなくなった。
それは小猿を拾ってきてからかもしれない、と思う。
いろいろと手を焼かされる騒がしい日々に、あんなにも辛かった痛みも紛れてしまった。
だが。
静かすぎるからだろうか。
今夜はやけに雨の音が響く。
傷の痛みと、そこからくる発熱とで、意識が朦朧としている。
眠っているのか、起きているのか、わからない夢うつつの状態。
そんななか、雨の音だけがやけに大きく響く。
うるさい、と思う。
うるさい、うるさい、やめろ――。
と。
突然、歌が聞こえてきた。
歌――というか、旋律というか。
耳を澄ませても、なんといっているのか、言葉はわからない。
ただ小さく、優しく、声だけが響く。
まるでなにか柔らかいものに包まれていくように、雨の音が遠のいていく。
あぁ。
この歌は――。
知っている。前にも聞いたことがある。
そう思う間に、意識はゆっくりと深く沈んでいった。
カタン、と小さな音がして目が覚めた。
「すみません。起しちゃいました?」
柔らかい声が聞こえ、視線だけ動かすと、固く絞ったタオルを額に乗せようとしていた八戒と目が合った。
にっこりと、声と同じように柔らかく笑う。
「少し顔色が良くなったみたいですね。今日はもう一日、ここに泊まることにしましたんで、ゆっくり休んでください」
勝手なことを、と少し眉間に皺が寄る。
動けないことはないし、一刻も早く西へ行かねばならぬというのに。
すると、表情を読んだのか、八戒の笑みがさらに大きくなった。
「雨なんですよ。良くなってるとはいえ、そんな体で無理して一日どころか一週間動けない羽目になったら笑えないですよ。ジープには幌はついてないですし、僕だって濡れるのは嫌ですからね」
笑みを浮かべているのに、目は笑っていない。
こういうときはなにをいっても無駄だ。
諦めて、溜息をついた。
「――あいつは……」
いいかけて口をつぐむ。
「え? なにかいいました?」
洗面器を持って出て行こうとしていた八戒の足が止まった。
「いや、なんでもない」
「そうですか」
カチャリ、と微かにドアノブが音をたてる。
「あ、そうそう。悟空なら元気ですよ。いまも三蔵に食べさすんだって、厨房で朝食のお手伝いをしてます。といっても、味見専門ですけどね」
クスクスと笑うのはその様子を思い出してか、それとも尋ねようとしたことがわかってか。
少しむっとするが、どうせもう変わらないので、気になっていたことを聞く。
「あいつ、ここに来たか、夕べ」
「は?」
八戒は意表をつかれたような表情を浮かべた。
「悟空ですか? 昨日は宿に入ったのが遅かったですからね。夕食に食堂に行ったっきり部屋を出てませんが。悟浄は例によって例のごとくでしたけどね」
河童の動向などどうでもいい。
「そうか」
「どうかしましたか?」
「なんでもねぇよ」
不思議そうに尋ねる八戒に、そういって目を閉じた。
と、クスリと笑う声がした。
「朝食は悟空に運んでもらいますね」
絶対になにか誤解しているな、と思ったが、面倒なので目を閉じたままでいた。
「もうちょっと待ってくださいね」
その声とともに扉は閉まり、八戒の気配は遠くなっていった。
「少し眠るよね?」
ほとんど手をつけなかった朝食についてひとしきり文句をいったあとで、悟空が覗きこむようにこちらを見た。
心配そうな表情が浮かんでいる。
なにか声をかけてやればすぐにそんな表情は消えるのだろうが、面倒なので背を向ける。
起きたときよりも大きくなった雨音が、やけに耳につく。
聞いていると、どんどんと気力が殺がれていくようだ。自分から、なにかする気になれなくなってくる。
それは心だけが過去に戻っているから、かもしれない。
――朱泱を手にかけたことを後悔しているわけではない。
だが、どうしても思い出されるのは、あの頃のこと。
「じゃ、俺、行くから。おとなしく寝てろよ」
食器を持って立ち上がる気配がした。その気配はやがて扉の向こうにと消えて行った。
響く雨音に、漂う意識は暗い方にと流される。
駄目だ、と思っているのだが、どうしても暗闇に沈もうとする。
一度起きた方がいい。
そう思うが、どうやって起きたら良いのかがわからない。目を開けようとやっきになっているのだが、意識がうまく繋がらない。
と。
また歌が響いてきた。
沈みそうになる意識を掬いあげるようにして、穏やかな流れの方に導く。
だが、そのまま気持ちの良い眠りに落ちようとするのをなんとか食いとめ、意志の力でどうにか目蓋をあげた。
歌が止まる。
ぼーっとした視界に、ひどく驚いたような小猿の顔が映った。
やはりそうか、と思う。
歌っていたのは――ずっと、寺院にいる頃から雨が降るたびに、静かに歌っていたのは、この小猿だ。まるで子守唄のように。
不思議と、人に弱みを見せたときに感じる負けたような気分にはならなかった。
ただ事実を、事実として受け止めただけだった。
手を伸ばして、悟空の手首を捕まえる。
途端にビクッと肩を震わせ、驚きから我に返ったような表情を見せて、悟空は逃げようとでもするように体を動かした。
が、その動きは途中で止まる。
無理やり振り払えば、怪我がひどくなるかもしれないと思っているらしい。
どうしたらよいのかわからないような、怒られるのを覚悟しているような、そんな情けない表情に笑みを誘われた。
「もう少し眠る。そこで歌ってろ」
いうと、零れ落ちるんじゃないかと思うほど、大きく目が見開かれた。
蜂蜜を溶かしたような瞳の色は、そのままこの小猿の本質なのかもしれない。
そんなことを考えながら目を閉じた。
と、ふわりと、暖かな空気が漂った。
きっと小猿が笑ったのだろう。
脳裏に浮かぶ笑顔と、静かな歌声が雨の音を祓う。
優しい旋律に身を任せた。