夜の聲
その聲は夜になると聞こえてきた。
泣いているような、嘆いているような聲。
声――言葉ではない。ただ感情だけが流れ込んでくる。
聞いているだけで、こっちまで悲しくなってくる。
だから布団から抜け出して彷徨い歩き、ようやく庭で聲の主を見つけたときに思わず話しかけた。
「ねぇ。なんで泣いているの?」
でも、その人はこちらを見向きもしない。
そうやって話しかける夜を何度となく繰り返しても同じ。
ただどこか遠くを見つめて、静かに涙を流している。
どうしたらその涙を止められるのだろう。
声をかけても届かず、手を伸ばしても触れることはできずにすり抜けてしまう。
それはこの世のものではないから、と三蔵に教わったけど。だからしてあげられることはとても少ないのだと言われていたけれど。
でも。
「どうしたら笑ってくれるの?」
お願いだから――笑って。
笑った顔が見たい。笑ったら、きっと綺麗だろうから。
そう思っているうちにも、その人の姿は薄くなり、消えていく。
ただなにもしてあげられない痛みだけを残して。
「うぎゃっ」
いきなりハリセンをかまされて、床に頭をぶつけた。
ハリセンがあたった後頭部と床にぶつけた額がジンジンと痛い。
「ってぇなっ。いきなり、なにすんだよっ」
がうっと噛みつくように言うと、パシン、と今度は軽く頭をはたかれた。
「人が仕事してるわきで、寝こけてるんじゃねぇよ」
怖い顔をしていう三蔵に、うっと言葉が詰まる。
暖かな日差しの差し込む執務室。
今日は三蔵のそばにいたくて、頼み込んでなかに入れてもらった。絶対に邪魔はしないから、という条件付きで。
煩くして邪魔をしたわけではないけれど、三蔵の背後の机の上には山のように積まれた書類。それを全部見なくちゃいけないなんて、考えただけでもたいへんだと思う。それなのに、横で寝てたら――うん。俺でも腹が立つかも。
「……ごめんなさい」
しゅんと項垂れていうと、三蔵が溜息をついた。
「眠いなら、昼寝でもしにいきゃあいいだろ、ここにいないで」
「……」
ううう。
邪魔なのはわかってる。わかってるんだけど――。
と、三蔵がまた溜息をついた。
「今度、寝たら速攻追い出すからな」
「うんっ」
良かった。
そう思って飛びついてゴロゴロと懐く。
いつもなら呆れたような顔をしつつも、二、三回頭をポンポンと軽く叩いてくれるんだけど。
今日は顔を上げさせられた。なんだか怖いような、真剣な表情を浮かべてる。
「お前、ここ四、五日、夜にどこに行ってる?」
聞かれたことに目を見開く。
「……どこ、って」
少し考える。
「えと……トイレ、に行ってるけど……それのこと?」
「違うだろ、それ。そうじゃなくて――」
「そうだよ。それ以外に、なにがあるっていうの」
三蔵には知られたくない。あの人のことは。
三蔵は、ここにいるべきじゃない人を還すことができるけど。でも。
還すのならば無理やりではなく、あの人の涙を止めてからにしたい。
あんな哀しそうに泣いているままで還したくはない。
「……後悔、してるのか」
と、静かな三蔵の声が聞こえてきた。
なんのこと? といつの間にか俯けてしまった顔をあげる。すると、いつになく無表情な三蔵の顔があった。
なんだろう。どうしてこんな顔をしているのだろう。
三蔵は機嫌が悪い時にはよくこういう表情を浮かべるけれど、でも、あまり俺に向けられることはない。
なにか機嫌を損ねるようなこと、したのかな。
「……やっぱり、お前、出てけ」
「え? 三蔵?」
「邪魔だ。昼寝でもしてろ」
いきなり豹変した態度に驚いている暇もなく、ぐいぐいと押されて執務室から追い出される。
「ちょっと、三蔵っ」
抗議の声はバタンと閉まった扉に遮られた。
「……三蔵」
閉ざされた扉に、途方に暮れたような気持ちになった。
それから。
ずっと三蔵は機嫌が悪いままで、いつもは一緒に食べる夕食も別にされて、待ってるのに夜中過ぎても寝室に帰ってこなかった。
暗い中、ひとりでいるのはすごく嫌だ。
「三蔵……」
そっと呟く。
いつもなら呼べば応えてくれるのに。
今日は――。
「三蔵……」
やっぱり嘘をついたのがよくなかったのかな。ちゃんと説明すれば良かった。きっと三蔵は話せばわかってくれたはずだから。
泣きたいような気持ちになったとき。
また、あの聲が聞こえてきた。
はっとして顔をあげる。それから腰かけていた寝台から降りて、執務室に向かった。
三蔵も一緒に連れて行って、そしてこの人をみていたんだよって、言おうと思って。
そうやってちゃんと説明して、ちゃんと謝ったら、きっと三蔵は機嫌を直してくれるはず。
「……さんぞ?」
そぉっと扉を開ける。仕事の邪魔をしちゃうとまた機嫌が悪くなるかもしれないから。
けど。
その心配は無用だった。
だいぶ減った書類のなかで、三蔵は机に突っ伏して眠っていた。
こんなに疲れ切ってしまうまで仕事をすることないのに。変なところで三蔵は生真面目だ。
まだまだ夜は冷える。先ほどから聲は聞こえ続けていたけれど、三蔵の方が先。寝室に連れ帰るために声をかけようとして。
「さ――」
途中で息を呑む。
というのも、そばに寄ったら三蔵の表情が目に入ったから。
眉間に皺を寄せ、ひどく苦しそうな顔をしている。
それは肉体的なことではなく、精神的なことだとなぜか直感的にわかる。
でも、どうして――?
見ているうちに胸が痛くなってきた。
すごく痛い。なにかで本当に刺されているよう。
どうしてそんな表情をしているの、三蔵? 俺は役に立たない?
三蔵の隣に膝をついた。三蔵と同じ高さの目線になって呼びかける。
「三蔵」
と。
「……く……う」
呼ばれた、ような気がした。
いや、気、じゃなくて、呼ばれた。確かに、三蔵に。
俺のせいでそんな顔をしているの? なんで? 今日、突然、機嫌が悪くなっちゃったのと同じ理由? 俺が隠し事をしてるから――?
そっと肩に手をおいて、三蔵を起こそうとする。
いつまでもこんな表情をさせておけない。起こして理由を聞いて、原因を取り除かなくては。
けど。
ふいに――。
どうしてだろう。三蔵の姿が、あの人と重なった。いま、庭にいるであろう聲の主と。
もともとその人は、三蔵によく似ていた。同じ金色の髪で、暗くてよくわからないけど、でもきっと同じ紫の目をしていて。
ただ、金色の髪は三蔵よりももっと長くて、腰くらいまであってキラキラと淡く輝くさまはとても綺麗だった。
三蔵と同じくらい綺麗で――双子といわれても頷けるほど、三蔵によく似た人だった。
だから、というのもある。とても気になったのは。
そのほかにもなぜかその人を見ているととても懐かしい感じがしたから、というのもあるけれど。
懐かしくて、懐かしくて――。
もしかしたら、失くした記憶に関わる人なのかもしれない、なんて考えたりもした。そんなはずないのに。こんなところに、そんな人がいるはずはないのに。
そして、いま。
どうして、を言葉で説明することはできないけど。
なぜかわかったことがある。
三蔵が――そしてあの人も、ひどく俺を心配しているのだということが。
俺が幸せじゃないかも、って思ってる。
だから。
「心配しなくてもいいよ。俺は幸せだから。いま、本当に幸せだから」
三蔵に囁きかける。
この言葉が――この想いが伝わるといい。
「好きな人のそばにいる。だから本当に幸せだよ」
だから心配しなくてもいいんだよ。
そっと、三蔵に抱きついた。
「……っの、バカ猿」
スパーンと頭のうえにハリセンを落とされた。
「ってぇ」
痛みで目が覚める。
って、あれ? ここどこ?
頭をあげてきょろきょろと辺りを見回す。
薄暗いなかでも、そこが執務室だとわかった。執務室の床に座り込んで、椅子に座る三蔵の膝に頭をのっけて――寝てた?
なんで、と思いかけて思い出す。
三蔵の――表情。
「三蔵っ」
「うっせぇぞ、バカ猿」
勢い込んで言おうとしたら、三蔵に遮られた。
「お前の声はいつでも煩い」
むぅっと思う。
けど、大丈夫だって思った。三蔵はいつもの三蔵だ。だから大丈夫だ。きっと伝わった。
えへへと笑うと三蔵の眉間に皺が寄った。
「気色悪ぃやつ」
「なんだとー」
「お前と言い争いをする気はねぇ。とっとと寝に帰るぞ。明日も早い」
そういって三蔵は立ち上がって、背を向ける。けど。
「お前は後悔、してねぇんだな」
ぽつり、と呟く。
「後悔?」
「五日前のこと」
言われて、あぁ、と思う。そうか。そういうことか。
「なんで後悔するの? 三蔵が俺を好きで、俺も三蔵が好きなんだから、なんにも問題ないじゃん」
だと思うんだけど。
見かけよりも、生真面目なこの人はいろいろと気にしちゃうんだろうな、きっと。
でも、あんな風に普通にしてたら、わかんないよ、そんなこと。
「三蔵」
くいくいと袖を引く。と、しぶしぶという感じで、三蔵はこちらを向いてくれた。
「……なんのつもりだ」
「連れてって」
三蔵の方に手を差し伸べる。
と、三蔵はしばらくまじまじと俺を見つめ、それから諦めたように深い溜息をついて、ふわりと抱きあげてくれた。
「三蔵」
ぎゅっと抱きついていう。
「俺は幸せだよ」
「……知ってる」
その答えに、ますますぎゅっと抱きついた。
そして、その後。
夜に響く聲は聞こえなくなった――。