やきもち
「汚くなんかねぇもん」
目の前に立ち塞がる体格の良い小坊主を睨みつけて悟空はいう。
小坊主はひとりだけではなく、その後ろにはさらに四、五人の小坊主が扇形に、悟空を包囲するように立っている。
門に向かっていたところ、いきなり道を塞がれた。
そして、いわれたのはいつものこと。
「毎日、風呂に入ってるし、外から帰ったらちゃんと手だって洗ってる」
なのに、ことあるごとになんで汚いといわれなければならないのか。
まったく理解できなくて、苛々とした気持ちだけが募っていく。
それは相手も同じようで、ますます眉を吊り上げて悟空に詰め寄ってくる。
「そういう意味じゃない。お前は存在自体が穢れているから、三蔵さまのそばに近づくな、と言っているんだ」
「だから、意味わかんねぇよ、それ」
ふたりして、キッと睨み合ったとき。
「どうかしました?」
柔らかい声がした。
「八戒」
その声そのままに、柔らかい笑みを浮かべた八戒が悟空たちのところに近づいてくる。
小坊主たちは顔を合わせ、それから舌打ちしそうな表情で悟空を睨めつけるとなにも言わずにその場を立ち去っていく。
べーっと舌を出す悟空の横に立ち、小坊主たちの後ろ姿にいささか気遣わしげな視線を送りつつ八戒は尋ねる。
「なにかありました?」
「なんでもない。いつものこと」
唇をへの字にして悟空は答えるが、ぱっと八戒を見上げると、もうその顔は笑みにと変わっていた。
「それより迎えに来たんだ。悟浄が来て、八戒を置いてきたって言うもんだから」
「あぁ。忘れ物をしたんで、先に行ってもらったんですよ。って、迎えに来たのは僕ですか? それともこちら?」
八戒は手にした包みを持ち上げてみせる。
「ひでぇな。八戒だよ。……そっちも気になるケド」
寺院を訪ねてくるときはいつも、八戒はなにかしら甘いものを持ってきてくれる。
悟空はそれを楽しみにしていた。
寺院にいると菓子を口にする機会が少ないから、という理由からではない。
三蔵は和菓子なら食べるので、寺院にいても菓子の類は口にすることは意外とあるのだが、でも八戒は三蔵があまり好まない洋菓子とか珍しいものとか手作りのものとかを持ってきてくれる。
特に手作りは、悟空にとってすごく嬉しいものだった。
500年という時を孤独に過ごしてきた。
だから『自分のために』作られたものがあるなんて、それだけで凄いことだと思う。
「悟空は素直で良い子ですね」
八戒が柔らかく微笑みながら悟空の頭を撫でてくれた。
そんなことをしてくれるのは、先ほどの諍いを見ていたせいでもあるのだろう。
触れられるのは、自分がもう一人ではないと実感できるから。
悟空は、嬉しそうに頬を染めて笑った。
「そういえば、悟浄、朝帰りでそのままここに来たって言ってたケド」
「そうなんです。もうしょうがないですよね、あの人」
そんな風に他愛のない会話をしながら、ふたりは三蔵の執務室に向かう。
どんな話も、八戒は笑って聞いてくれる。答えを返してくれる。
話ができるということは、本当にもうひとりではないのだ。
嬉しいという気持ちに悟空の心は温かくなり、自然と足取りも軽くなる。
だから執務室についたとき、いつもよりも距離が短く感じた。
執務室の前でいったん立ち止まり、八戒はノックするが、答えは待たずに扉を開けた。
これは八戒と悟浄の流儀。
物臭な三蔵はときどき返事をしなかったりする。
寺院関係者ならば、三蔵法師さまのお答えがないうちに開けたりしないのだが、八戒も悟浄は悠長に待っていられるか、とお構いなしだ。
「こんにちは」
八戒が声をかけると、ちょうど談笑中だった三蔵と悟浄が顔をあげた。
「よ、遅かったな」
なにを話していたのかはわからないが、にやにやとした笑いを浮かべたまま、悟浄が声をかけてくる。
「少し遅れただけですよ? あなたの足が速かったんじゃないですか? よっぽどここに来るのが楽しみなんですね」
「なに言ってやがる。面倒ゴトをおしつけられるってのに、それはないって」
悟空は戸口のところに立ち止まったまま、八戒の背中が少しずつ遠くなっていくのを見送っていた。
正確にいうと、その場から動けなくなっていた。
ふたりの会話は遠くから聞こえてくるようで、音は意味をなさない。
いつの間にか、その顔から笑みが消えていた。
「悟空?」
悟空がついてきていないことに気づいたのだろう。
八戒が振り返る。
と、青ざめた顔をしている悟空に気づいて、驚いたような表情を浮かべた。
「えと……」
八戒が口を開くまえに、悟空はじりじりと後ろに下がった。
この場から離れなければ、とそれだけを思った。
「帰ってきたら、手洗いとうがいだった。ちょっと行ってくる」
くるりと背を向けて、悟空はパタパタと走り出した。
■ □ ■
――びっくりした。
ごしごしと、手洗い場でむきになって手を洗いながら、悟空は思った。
本当にびっくりした。
さっきの執務室でのこと。
三蔵が他人と一緒にいて、あんな風に柔らかい雰囲気で笑みを浮かべているのを見るのは初めてだった。
あれは――あの笑みは、自分だけが知っていると思っていたのに――。
「おい」
と、突然、声がした。
振り向くと、三蔵が立っていた。
追ってきてくれたのだろうか、わざわざ。
悟空の様子がヘンだと思って――?
「なにやってるんだ。そんなに強くこすってると、擦りむけるぞ」
近づいてくる。
手が伸びてくる。
「……っ」
反射的に、悟空はその手を避けて後ろに飛び退った。
「あ……」
自分でそうしておきながら、自分でもその反応に驚く。
驚いたのは三蔵も同じなようで、途中で手を止めたまま悟空を見つめる。
「どう……」
三蔵が口を開くのと同時に、悟空はその場を逃げ出した。
■ □ ■
走って、走って、寺院の庭にある大きな桜の木の下に行く。
どん、と太い幹に抱きつくように飛びついて、悟空は肩で何度か息をする。
息が切れているのは走ってきたからだけではない。
――怖い。
自分の身の内にある感情が。
さっき、三蔵と悟浄を見たときから胸のうちに渦巻いている感情は……。
悟空はぎゅっと自分の胸を掴む。
そこから溢れ出してしまうのではないかと思う。
黒く、醜いものが。
――穢れている。
それは、こういうことなのだろうか。
まるで縋るように桜の木に身を寄せて震えていたところ、しばらくして。
「おい」
と、ふたたび声がした。
三蔵だ。
びっくりして振り返る。
どうしていつもいつも、三蔵には悟空のいる場所がわかってしまうのだろう。
岩牢まで迎えにきてくれた、そのときからずっと――。
「手間、かけさすなよ」
「触っちゃダメ!」
近づいてくるのを、悟空はしゃがみこんで避けた。
「……なんなんだ、いったい」
ぎゅっと目を瞑って身を固くしていたところ、しばらくして、呆れたような声が近くから聞こえた。
ふと視線をあげると、同じ目の高さのところに三蔵がいた。
座り込んで、訝しげな表情で悟空を覗き込むように見ている。
その姿は光輝くようで。
ずりずりと悟空はさらに遠ざかる。
「俺……汚い、から……」
自分の胸の内に渦巻く想いとは正反対の真っ白な光。
穢れている、と。
ようやく言われ続けてきた言葉の意味がわかった。
「だから、三蔵に触れちゃ……ダメ、なんだ……」
もう触れることは叶わない。
それどころか、そばにいることもできなくなるかもしれない。
三蔵は綺麗だから、こんな風に汚れている自分と一緒にいてはいけないんだ。
そんなことを考えたら、涙が勝手に溢れてきた。
「なんの話だ?」
三蔵の眉間に皺が寄る。
「さっき、悟浄と話してる三蔵を見て、俺以外に笑いかけないでって思った。そんなの、三蔵の勝手なのに。それにすごく――すごく、嫌なものが込みあげてきて……。悟浄のこと、大好きなのに、それなのに……」
悟空は胸を押さえた手をさらに強く握り込む。
と。
いきなりその手を掴まれた。
「三蔵、ダメだって――」
振り解こうとする前に強く引かれ、そして。
「さ……んぞ……?」
気がついたら白い法衣が目の前にあった。
煙草とそして微かに香の匂いがする。
本堂で焚きしめているものが移ったのだろう。
煙草はともかくとして、香はここまで近づかなければわからないものだった。
というか。
「な、な、なに――?」
触れてはダメだと言っているのに、どうしてこんな――いままでにないほど三蔵に触れているのだろう。
悟空は少し恐慌状態に陥りながらも、ジタバタと三蔵から離れようとする。
が、背中に回った腕に邪魔されて、逃れることができない。
「三蔵。汚れちゃう」
ほとんど泣きそうな顔で訴えるが。
「アホ」
三蔵にひとことで切って捨てられる。
「お前のソレはな、綺麗なものとは言わねぇが、人ならば当たり前に持っているもんだ。俺にだって覚えがある」
「……え?」
信じられないことを聞いて、もがいていた悟空の動きが止まる。
「三蔵、が? 嘘……」
「嘘をついてどうする。さっきみたいにお前が八戒と仲良く一緒にやってきたときなんか、特にな」
その言葉に悟空は顔をあげる。
間近で見る端正な顔に、一瞬、思考が飛ぶ。
こんな近くで三蔵を見たことはない。
綺麗で。
なによりも、だれよりも綺麗で――息が止まる。
「だが、俺は知っているからな」
ふっと自信ありげな笑みが浮んだ。
「なに、を……?」
「お前がなによりも綺麗な笑顔を見せる瞬間を、な」
言葉の意味がわからなくて、少し悟空は眉を寄せるが。
ふわりと抱きしめられて、また頭のなかが白くなる。
「俺は他のだれにもこんなことはしねぇぞ。わかっているか?」
耳元で低く三蔵の声がして、悟空は目を見開いた。
他のだれにも。
それは――。
「――で、ソレはもう治まったか?」
そっと三蔵が離れていき、遠ざかる体温にふと淋しさを覚えたところ、まだ強く握ったままだった拳を指でつつかれた。
「あ……、うん」
言われてみて初めて気付く。
不思議なことに、黒く渦巻いているようだった感情はもうどこにもない。
ただほわんとしたものが、新しく胸になかに生まれていた。
それがなにかよくわからないが、でもさきほどまでの嫌なものではない。
「良かったな」
言って、三蔵が離れていく。
そのまま、立ち去ろうとするのを――。
「三蔵っ」
悟空は追いかけて、後ろから飛びついた。
「俺も! 俺も、特別だからっ」
ぎゅっと抱きつく。
他のだれにもこんなことはしない。
三蔵はそういった。
それは。
他のだれとも違う、特別――。
そういうことだろう。
そう思ってくれているのを知って、心のなかの靄が晴れたような、そんな感じがした。
「先に戻ってるな!」
ぱっと離れ、すっきりとした表情を見せて悟空は駆けていく。
「もう少しかかるか……」
その後ろ姿を見送りながら微かに苦笑するように呟いた三蔵の声は、悟空には届かなかった。