櫻花
はらはらと薄紅色の花びらが散っていた。
寺院のなかでも一際大きな木の傍に立ち、悟空は上を見上げた。
ついこの間まで、いまが盛りと咲いていたはずの――桜の花。
いまはもう散る時期にきているのか、はらはらと絶えることなく花びらが舞い落ちてくる。
まるで雪のように――。
その発想のせいだろうか、ふるりと悟空は震えた。
雪――。
感じたのは寒さだけではない。
どこまでも白く――塗りこめられる大地。
しんと静まりかえったなか、ただひとりだという孤独が強く強く湧きあがって――。
――コワイ……。
自分で自分自身を抱きしめる。
と。
ふわり、と、そのまま後ろから抱き込まれた。
「……さんぞ」
温かさに、眩暈がしそうになる。ふっ、と自然に力が抜けて三蔵に身を委ねる。
「ったく、こんな朝早くからどこに行ったのかと思えば」
朝の早い寺院でも、まだだれも起き出していないような時間だ。
ようやく空が白み始め、太陽の最初の光が大地に達しようという――。
「ごめん。なんか……」
なんだか呼ばれたような気がしたのだ――桜に。
いや。
違う。
桜ではない――なにか、に――。
言葉にできない、なにか――。
いつか――。
いつか必ず桜の下で―――――。
そんな約束をしたような気がする。
遠い、遠い昔。
覚えていない記憶の彼方で。
それはいつのことで。
だれと交わした約束だったのだろう。
悟空は桜を見上げ、思い出そうと――記憶と辿ろうと、目を細める。
が。
「……っ」
突然、目の前いっぱいを綺麗な顔がしめた。
近い――と思う間もなく、どんどんと近づいてきて唇を塞がれた。
宥めるような、あやすような、そんな触れるだけの柔らかなキスが与えられる。
悟空はそっと三蔵の首の後ろに手を回した。もう少し三蔵が感じられるように。
と、背中に手が回り、もっと近くに抱き寄せられた。同時に、忍びこんできた舌に舌を絡め取られてキスも深くなる。
「……ふ、ぅ……っ」
角度を変えてキスをされるたびに、吐息が漏れる。意識に霞みがかかっていくようだ。
そんななか薄目を開けて見てみれば、あまりに近すぎてぼやけているが、綺麗な――……。
力が抜けて、手がするりと滑っていく。
慌てて途中で腕を掴んで体勢を立て直そうとすると、支えるように腰に手が回った。
唇が離れ、ぽすっと胸に顔が埋まる。
自分よりも少し低い体温と、お香と煙草が混ざったような匂い。
――三蔵、だ。
悟空はふっと安堵にも似た溜息をついて、顔をあげた。
と。
唇の端を舐めとられた。
濡れて柔らかな舌の感触が――。
「……っ」
ふるりと震え、思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
「さ、んぞ……」
吐息混じりに呟き、その綺麗な顔をちゃんと見たくてゆっくりと目を開けていく。
すると。
ザッ、と一陣の風が吹いた。
薄紅色の花びらが舞いあがり、上空で渦を巻き――そしてはらはらと降ってくる。
見上げる三蔵の背後から――。
悟空は大きく目を見開いた。
花びらに包まれて。
―――――消えてしまう……。
「っ!!」
声なき声をあげて、悟空はぎゅっと三蔵にしがみついた。
「どうした?」
驚いたような三蔵の声。だがそれは悟空の耳に届かない。
代わりに。
―――――いま、わかった。
不意に訪れる認識。
どうしてこんなに、怖い、と感じるのか。
それがいま、わかった―――――。
桜の下で――。
だれと交わしたかもわからないその約束。
持っていたのは自分の名前だけ。あとはなにも覚えていない。
だから、そもそもその約束をしたことさえ本当かどうかわからないのだけれども、でも。
確かにしたと思えるその約束はもう――叶えられているのだ。
こうやって三蔵がそばにいることで。
でも。
「三蔵」
怖いのは。
その約束が叶わないかもしれないことではなく。
「三蔵」
また別れなければいけないときがくること――。
三蔵が目の前から消えてしまうこと。
それがとても―――――――怖い。
「三蔵」
しがみつくように三蔵の腕をぎゅっと握りしめ、震える唇でただ三蔵の名を呼ぶ。
三蔵の名だけを。
と。
しっかりと抱きしめてくれた。
混乱しているかのような悟空に、なにを言っても無駄だとわかっているのだろうか。
言葉はなにもない。
が。
しっかりと抱きしめてくれる温もりが――。
逆に泣きたい気持ちになる。
たぶん、この温もりを知ってしまったから余計に怖いのだ。
もしもこの腕のなかに包まれる心地良さを知らなかったら―――――。
いや。
それも考えられない。
だから。
「三蔵」
ただその名を呼んで祈るように思う。
どうか。
どうかそのときが――ふたたび別れるようなときが来ても、また会えますように。
また、会えますように――――……。