だから…、ちょうだい?
「お帰りなさい!」
三仏神の依頼で旅に出ていた三蔵が真夜中近くに私室に戻ると、待ち構えていた悟空が飛びついてきた。
ぽふん、と抱きつき、すりすりと懐く。
三蔵が何日か留守にして帰ってくると、いなかった間の補充!とでもいうように、悟空はいつもこんな風に懐いてくる。
小猿というより、飼い主に会いたくて堪らなかった仔犬のようだ。見えない尻尾が盛大に振られているのではないか、と思う時がある。
人に触れられるのがあまり好きではない三蔵にしては、止めもしないで好きにさせておくというのは珍しいことだが、留守にしている間、『寂しい』という声が聞こえてくるのだ。
かつて三蔵を五行山まで導いた声なき声が。
そんな声がずっと聞こえていれば、多少は甘くなるのも無理はないかもしれない。
ので、帰ってきたときに盛大に悟空が甘えてきて、それを甘やかすのは『日常』なのだが。
三蔵は少し戸惑ったような表情をする。それは甘えてくることに対してではなく。
「……なんでここにいる?」
三蔵が出かけるのに合わせて、悟空は悟浄宅にと行っていた。そして今日、三蔵は寺院に帰ってくる予定ではなかった。
三仏神の依頼を少し早めに終え、だが報告に行くには夜遅くなったので改めて明日ということにして、とりあえず寺院に帰ってきたまでだった。悟空を迎えに行くのは三仏神への報告が済んだ後、と考えていた。
「三蔵、今日帰ってくるって思ったから!」
三蔵に抱きついたままで、にこにこと笑いながら悟空が見上げてくる。
どうして今日帰ってくるのがわかったのか。
もしかして悟空にも三蔵の『声』が聞こえるのだろうか。と考えて、三蔵が軽く眉を顰めたところ。
「三蔵」
くいくいと法衣の袖を引かれた。
見下ろせば、キラキラと金色の瞳が輝いている。こういうときは何か碌でもないことを言い出すのだ。三蔵の眉間の皺がさらに深くなった。
「あのさ、俺に三蔵をちょーだい!」
身構えていたはずだが、予想を超える言葉に、三蔵は固まる。
『三蔵をくれ』とは――どういう意味だろう。
「なぁなぁ。ちょーだい!」
固まった三蔵をよそに、悟空はもう一度袖を引くと、掌を上に向けて三蔵の方に差し出した。いわゆる『ちょーだい』のポーズだ。
金色の瞳は何かを期待するかのように相変わらずキラキラと輝いている。
とはいえ、意味がわからない。
だが、じっと見続けているうちに、ふと思いついた。
「……誰だ?」
低い声で問いかける。
「へ?」
今度は悟空が小首を傾げてわけがわからない、という顔をする番だ。
「だから、そんな台詞、だれから聞いた?」
考えてもみれば、悟空は悟浄宅に行っていたのだ。いらんことを吹きこむ輩といったらひとりしかいないし、そういった意味であれば吹きこむのはやはりひとりしかいないが、念のため確認だ。
「えと……悟浄」
小首を傾げたままで悟空が言う。案の定というか、やっぱりというか。
三蔵は、はぁと溜息をついた。
「なんだよ。くんねぇの?」
「意味、わかって言ってんのかよ、それ」
「一緒にいてくれるってことだろ。朝に帰ってきた悟浄が言ってたぞ。おねーさんに『あなたをちょうだい』なんて言われたら、帰れないだろうって。だからさ、そう言えば一緒にいてくれるってことだろ?」
どこが間違っているんだ、とでもいうような表情に溜息が出てくる。
「なんだよ、なにか間違ってるのか?」
そんな三蔵に、悟空が少し頬を膨らませて突っかかってくる。
「なにか、というか……全然、違ぇよ」
「じゃ、どういう意味だよ」
「そんな言葉に意味なんてねぇよ」
「ある! じゃなかったら、どうして悟浄はそんなことを言ったんだよ」
むぅっとした表情で問いかけられ――三蔵は眉間に皺を寄せた。不機嫌になった、というよりも困惑して。
どういう意味かなどと――教えられるわけがない。
「……子供には関係ねぇ話だ」
結局、それだけを言葉にする。
「子供じゃねぇ!」
悟空はぷんぷんと怒って言う。そういう風に頬を膨らませているところが子供だ――と三蔵は心のなかでツッコミをいれるが。
「なぁ、やっぱりさっきの『一緒にいてくれる』で正解なんじゃねぇのか?」
悟空の表情がどんどんと曇っていく。
「……三蔵は――俺と一緒にいたくないから……」
そして声もどんどんと小さくなる。と同時に、顔も俯いていってしまう。
しばらく沈黙が続いたあとで。
「俺と一緒は嫌……?」
小さく小さく問いかけられた。
――どうしてそういう話になる。
悟空はひとりになることをひどく嫌がる。置いていかれることを恐れている。いまでは少しくらい離れていてもちゃんと帰ってくるという約束があれば待てるようになったが、拾ってきた当初は留守番をするのをひどく嫌がった。その当時は悟浄も八戒もいなかったから余計に、だろう。
三蔵は大きく溜息をついた。
「だれもそんな話はしてねぇだろうが」
「だって三蔵、ちゃんと教えてくんないし! だいたいな、悟浄が朝帰ってきたのは本当なんだからな! それでずっと女の人と一緒にいたんだからっ!」
ったく、あのバ河童は面倒なことを、とこの場にいない悟浄を三蔵は心の中で罵る。
「それはそうかもしんねぇが、あの言葉の意味は一緒にいてほしいっていうんじゃねぇんだよ」
「じゃあ、なんだよ!」
「だから子供には関係ねぇと言っている」
「だから、俺、もう子供じゃねぇしっ!」
「充分子供だろ」
「子供じゃねぇっ!」
金色の瞳に強い光が宿り、まっすぐに三蔵を見つめてくる。
三蔵と口論ができるのは悟空と――あとは悟浄と八戒くらいだろう。たいていの人間は、綺麗すぎる容姿と剣呑な紫暗の瞳に気圧されて、萎縮してなにも言えなくなる。
「子供だからなんて言われたって、わけわかんねぇよ。ちゃんと教えてくんなきゃ、わかんねぇのは当たり前だろうが! 三蔵のケチ!あんぽんたん!」
ぽんぽんと言葉ば飛び出てくるが、ほとんど泣きそうな表情である。
寺院の連中になにを言われても――傷つかないわけではないだろうが、こんな泣きそうな表情をすることはない。
ただ三蔵のこととなると、途端にこんな表情になる。
それは。
三蔵が悟空にとって特別だということ――。
その特別に――。
三蔵は何回目かの溜息をついた。
確かに、もう子供ではない――だろう。だが――。
躊躇いつつも手を伸ばす。
「教えてやってもいいが――後悔するぞ?」
「一緒にいられるってことは間違ってないんだろ?」
「ある意味な」
「じゃ、大丈夫。三蔵と一緒にいられるなら、後悔なんてしねぇよ」
にっこりと悟空が笑った。
そして―――――……。
「やっ」
悟空は切羽詰まったかのような声をあげた。
「さんぞっ、やだっ!」
これは知らない――。
こんなのは―――――……。
未知の感覚に恐怖を覚える。
最初はふわふわとした感じだった。
なんだかあやされているみたいで、心地良かった。
のだが、いまは――。
怖い。怖い。怖い――――……っ。
そのうえ。
「……っ!」
突然、声も出せないような痛みが襲ってきて、身を竦める。
怖い、こわい―――こわい―――――……。
ぐるぐると頭のなかを恐怖が回り、そして――――。
「嫌だっ!」
心の底から、悟空は叫び声をあげた。
それからどのくらいたったのだろう。
ふと悟空は身動ぎをした。
ゆっくりと意識が現実に戻ってくる。目の焦点があってくる。
まだ暗い――――……。
のろのろと悟空は起き上がった。
「さ……んぞ?」
辺りを見回す。
が、三蔵の姿はどこにもない。
あの後――――――。
泣きじゃくる悟空の服を整えて、寝台に寝かせて、布団をかけてくれて、それで――。
それでどうしたのだろう。
「三蔵」
もう一度、呼びかけてみる。が、答えはない。
ぐっと涙のあとを拭い、悟空は寝台から降りると部屋の外にと出て行った。
少しずつ、空が白み始めてきたようだ。辺りが仄明るくなっていく。
そのなかをゆっくりと悟空は歩いていき、庭の片隅――大きな桜の木の近くで、足を止めた。
そこに、三蔵はいた。
木の根元に座り込み、じっと地面を見ている。
その姿に――悟空の胸が、ズキンと痛んだ。
三蔵は疲れて帰ってきたはずなのに、ずっとこんなところにいさせてしまった。
自分が怖がったから――。
ちょうだい、と言ったのは自分だったのに。
悟空は三蔵に走り寄り、衝動のまま抱きついた。
「ごめん」
ごめんなさい、ごめんなさい。
心の中で何度も繰り返す。
と、微かな吐息が聞こえてきた。まるで安堵するかのような。それから、ゆっくりと三蔵の手が悟空の背中に回り、そっと抱きしめられた。その手の優しさに、思わずまた悟空の目から涙が零れ落ちる。
「ごめん……なさい」
小さく悟空は呟く。
「いや。悪いのは俺だ。……急ぎすぎた」
ゆっくりと背中を撫でていく手。それはとても心地良い――。
しばらくゆったりと身を任せる。
この温かさを与えてくれるのも、あの怖いのを与えるのも同じ――手―――……。
悟空は顔をあげた。金色の瞳がまっすぐに三蔵を見る。
「ごめん。俺……、なんかちゃんとわかってなかった。でも――今度は大丈夫。忘れない。覚えている」
三蔵の手を取り、許しを請うかのように頭をさげて、そっと指先に唇を触れさせた。
「これは三蔵の手――だから。怖いのは……この手じゃない」
怖いのは――未知の感覚。
だけど、それも。
「もう大丈夫」
ゆっくりと顔をあげ。
「だから……、ちょうだい?」
ふわりと悟空は笑った。