雨が降っていた。
静かに降り続いていた。
ぬくもり
あまり大きな音を立てないように、扉を叩いた。
返事はない。
そっと、扉を開けた。
「三蔵……」
部屋の中には、窓を開け放ち、窓敷居に座って外を眺めている三蔵。
もう今日で一週間降り続いている雨のせいで、この部屋の周辺は一種の立ち入り禁止区域になっていた。触らぬ神に祟りなしというわけだ。
三蔵が雨の日に機嫌が悪いのは、寺院にいるものなら誰でも知っている。
だけど、他の人はここに来ないから知らないだろうけど、三蔵は、ここ二、三日、ぼうっと窓の外を見ているだけだった。ただ黙って雨を見つめているだけ。何だが、あらゆるものに対して疲れてしまったみたいだ。
立ち込める静けさを乱さないよう音をたてずに近付き、少し離れたところで足を止めた。
三蔵は顔をそむけたまま、こちらを見ようとしない。
窓の外には重い雲が広がっている。昼間なのに薄暗い。大好きな金色の髪がくすんで見えた。とても悲しかった。
だから、さらに近付いて手を伸ばした。
「雨の音なんか聞かないで」
三蔵の耳を手で塞いで、強引にこちらを向かせた。
紫暗の瞳に俺が映る。
でも、ガラス玉のような目。姿を反射しているだけで、見ているわけでない。
ここにいるのに。
「雨なんか見ないで」
そのまま引き寄せて、胸に抱いた。
――俺だけを見て。
それが、無理なのは知っている。
雨の日にこんなにも心を占める人がいるのだから。
だけど。
「もう一週間だよ」
目の前にある金糸の髪に顔を埋める。
三蔵の匂いがした。何よりも安心する匂い。だけど、雨の匂いもする。俺から三蔵を遠ざけようとする雨の匂いが。
「あなたは、平気なの?」
もう一週間も触れていなくて。
どうして平気でいられるの?
同じ強さで想って欲しいわけじゃない。
だけど、こんな風に、まるでここにいないかのようには扱わないで欲しい。
意味のないもののように。
それとも。
本当に、意味のないものなのだろうか。
「三蔵……」
怖くなって、耳に置いていた手を外してぎゅっと抱きしめた。
本当にその心に触れられるのは、きっと『お師匠さま』だけ。
雨の日には思い出さずにはいられない人。三蔵の大切な人。
俺が敵うわけがない。
だけど、ただひとつ、その人にできないことで俺ができることがある。それは触れること。そばにいて温もりを伝えること。
だから、いいと思っていた。
全部、その人に敵わなくても。ひとつだけ、俺にしかできないことがあるならば、それでいいと。
でも、それすらも意味のないものなのだろうか。
ゆっくりと体を離して、両手を三蔵の頬に添えた。
目蓋の上に唇を落とす。
触れたところから熱が伝わればいい。俺がここにいると、わかるように。
両方の目蓋に、頬に、額に。軽く、優しく、羽のようなキスを何度も、雨のように降らせる。本物の雨に変えるように。
それから、目を見すえたまま、唇を重ねた。
冷たい唇。触れていても何も伝えてこない。
しばらくして、唇を離した。
目の前にあるのは、相変わらず何も映していないガラスの瞳。
何の感情も表していない、人形のような瞳。
拒否される方がマシだと思った。だって少なくても、目の前にいるとみとめているのだから。
でも、こんな風に何の感情も表してくれないのならば。
俺はいてもいなくても同じだということ。
やっぱり、駄目なんだろうか。俺では、この人の心に触れるどころか、その目に映してさえもらえないのだろうか。
もうこれ以上その目を見ていられなくて、目を閉じた。暗い、暗い闇。
全て闇に覆われてしまえばいい。希望のかけらさえ残さずに。そうすれば絶望だけで、きっとこんなに悲しくなることもない。
「……煩い」
微かな声がした。ほとんど聞こえないような声が。
それと同時に手首を掴まれ、引っ張られた。そして次の瞬間、三蔵の腕の中にいた。
「そばで騒ぐな。煩い」
どこか投槍な声が頭の上から聞こえた。だけど、背中に回った手は優しい。その手を感じて、泣きたくなった。安堵のあまり、体から力が抜けていく。
三蔵が抱きしめてくれた。
それは、俺がここにいるとわかってくれたということ。少しだけかもしれないけど、心を向けてくれたということ。
三蔵にとって、いらないモノじゃないんだ。
そう思えて、安心する。そっと三蔵の胸に頬を押し当てた。
どのくらい、そうして何も言わずに腕の中に身を預けていただろう。ひっそりとした静寂の中、聞こえるのは雨の音と三蔵の心臓の音だけ。やがて三蔵が口を開いた。
「お前はあったかいな」
「どうせ、お子様体温だよ」
いつも言われていることを返す。
「三蔵は冷えきってる。だいぶ雨に濡れているでしょ。このままじゃ風邪、ひくよ?」
表情は見えないけど、ふっと笑ったような気がした。
それから、三蔵が立ち上がった。
「さ、三蔵?」
ふわっと体が持ちあがり、腕に抱きかかえられていることに気付いて驚く。間近に綺麗な三蔵の顔があって、なんだか落ち着かない。
「暴れると落とすぞ」
そう言われて、慌てて首に手を回した。三蔵なら、本当にやりかねない。
腕に抱きかかえられたまま、歩き出した三蔵を見上げる。と、視線を感じたのか三蔵がこちらを見下ろした。大好きな強い光を湛えた紫暗の瞳。
「どこ行くの?」
「寝室」
「へ?」
「暖めてもらおうと思ってな」
言われたことを理解するまでに一瞬の間。
「な、な、何、言って――」
「お前から誘ったんだろ?」
って、さっきのキスのこと?
顔から火が出る。全然、気付いていないんじゃないかって感じだったのに。
睨みつけると、意地悪そうな笑みが返ってきた。
いつもの三蔵だ。
その表情を見ていたら、何だかもうなんでも構わないような気になってきた。溜息をついて、コツンと三蔵の肩に頭をぶつけた。
ただひとつ。俺があげられるもの。
それが欲しいと言うのなら――。
三蔵が寝室の扉を開けた。
あげるよ。
だってそれしかないから。
ただひとつ。
与えられるものは、温もりだけだから。