浸透圧
月のない、暗い夜。
三蔵は誰もいない寺院の廊下を進み、小さな部屋に向かった。
寝台と二、三の箱が置かれている以外は目立ったものがない部屋。淋しい印象を受けるが、部屋の主が滅多にここに帰らず、ほとんど使われていないのだから、閑散としているのも当たり前だ。
部屋の灯りは消えていた。星明りだけの闇の中、それでも探していた姿がここにあることはわかる。三蔵は部屋に入ると、そっと寝台に近付いた。
寝台の上には丸いふくらみ。布団を被って丸まっている悟空。頭のてっぺんだけしか外に出ていない。
三蔵は寝台の縁に腰をかけると、クセの強い大地色の髪に手を伸ばした。ハリセンを振るっている普段の姿からは想像もつかないほど、柔らかく頭を撫でる。
それから布団を引き下げて、悟空の顔を外に出した。
「……眠ってなかったのか」
三蔵の口から少し驚いたような声が出た。
闇の中、微かな光を反射して金色の瞳が輝いていた。だが、その瞳はすぐに腕のなかに埋められた。
「悟空?」
いつもとは違う悟空の様子に、訝しげに三蔵は悟空を覗き込む。だが、原因はわかっている。ふっと短く溜息をつくと悟空の耳に唇を寄せた。
「拗ねているのか?」
低く囁く。悟空は微動だにしない。
「悪かった」
そう告げると、微かに肩が震えた。
三蔵は悟空の耳のすぐ下に軽く口づけると、身を起こした。それから、腕に隠れていない部分の頬に指の背で触れた。優しく頬を辿っていく。と、その指に冷たいものが触れた。
「悟空、お前……」
三蔵は一旦手を引き、あらためて両手で悟空の腕を掴んだ。少し強張るのを構わず、顔から引き剥がす。
悟空は顔をそむけた。その頬に涙が伝っていた。
今日は悟空の誕生日だった。誕生日のプレゼントは、一日中一緒にいること。悟空からの要求はただそれだけだった。だが、三仏神から急な呼び出しが入った。他のことならばいざ知らず、三仏神からの呼び出しとなれば無視することはできない。悟空もそれをわかっているので、引き止めることはしなかった。少し淋しげに笑って三蔵を送り出した。
結局、帰りは真夜中近くになってしまった。いつもならば三蔵の私室の寝台の上に、三蔵の帰りを待って睡魔と格闘している悟空の姿がある。だが、部屋に帰っても悟空はいなかった。そこで、ともに眠るようになってから滅多に使われることのなくなった悟空の私室にと足を向けた。
約束を違えたことを怒っているのかと思った。だが、怒るよりも――。
「悪かった」
三蔵は悟空の腕を放して再度そう言った。
「違うっ! 三蔵は悪くないっ!」
悟空は、ぱっと跳ね起きた。その目から涙が零れ、パタパタと握り締めた拳の上に落ちた。
「三蔵のせいじゃない。わかっているのに……」
悟空は顔を歪めると、両手を伸ばしていきなり三蔵の方に身を投げ出した。三蔵は飛び込んでくる悟空を受け止めた。
「今だって、凄く無理をして早く帰ってきてくれたこともわかっているのに……」
ぎゅっと三蔵にしがみつく手に力がこもる。
「だけど、誕生日なのにって……。俺の誕生日なのに、どうして一緒にいてくれないのって……!」
あやすように優しく三蔵の手が悟空の背中を撫でた。その手を感じて、悟空は声をあげて泣き始めた。
「こんなの、ヤダ……」
やがて少し落ち着くと、悟空はポツリと呟いた。
「見ているだけで良かったのに。そばにいれるだけで嬉しかったのに」
三蔵は悟空の顔をあげさせた。無言で法衣の袂で顔を拭ってやる。
「なのに、それだけじゃもう足りない」
新たな涙が金色の瞳に浮かぶ。三蔵は悟空の目に唇を寄せた。溢れ出す涙を追いかけるように、目から頬、頬から顎にかけて、そっと唇を動かしていく。
「どんどん欲張りになる」
三蔵の唇が顎から上にあがって、悟空の唇を捕えた。
「こんな……の……ヤダ……」
呟く言葉が三蔵の唇に塞がれて消えていった。
どんなに見つめても、足りない。
どんなに触れても、足りない。
冷たい肌が熱を帯び、冷ややかな瞳に火が灯る。
熱い、吐息まじりの優しい囁き声。
誰も知らないあなた。
与えられる快楽に頭は白く塗りつぶされるのに、もっとと叫んでいる。
足りない。もっと。もっと。もっと――!
どんなに与えられても、足りない。
どんなに貪っても、足りない。
何度、抱きしめられても。
何度、ひとつに繋がっても。
触れ合ったところから、混ざり合って、ひとつになれればいいのに。
なにもかもぐずぐずに溶けて、ひとつになれれば。
体は絡み合うけれど、決してひとつにはならない。
心は通じるけれど、決してひとつにはなれない。
ひとつになる実感が欲しい。
錯覚でもいい。
そうすれば。
そうすれば、きっとこの際限のない欲望も消えてなくなる。
きっと、消えてなくなる。
ひときわ高い声をあげて、悟空が体を強張らせた。
その後、糸が切れたかのように崩れ落ちるのを、三蔵は抱きとめた。そしてそのまま二人一緒に寝台に沈み込む。
荒い息をつきながら、三蔵は悟空を抱きしめなおすと、そっと頭の上に唇を触れさせた。
「くれてやるよ」
やがて、静かに三蔵が悟空に囁きかけた。
半分意識を飛ばしていた悟空は、三蔵の声にのろのろと目を開けた。何を言われたのか、よくわかっていない顔をしている。
「くれてやるよ、俺を全部。――仕方ねぇから」
「さん……ぞ……?」
ようやく言われたことを理解して、悟空の目が見開かれた。無防備な驚いた顔。その顔をまっすぐに見ながら、三蔵は更に言葉を継いだ。
「だから、お前の好きにするがいい」
「三蔵……」
悟空の目が潤む。そっと頬を三蔵の胸に押し当てた。
「三蔵、ありがと……」
あなたがくれるのは魔法の言葉。
全てを混ぜ合わせる魔法の呪文。
あなたの言葉で、溶け合って。
あなたの呪文で、ひとつになる。
だって、ほら。
まだ熱を帯びた体。
触れたところから伝わってくるのは、同じ体温。
やがて熱は冷めてしまうけど。
触れれば、ひんやりとした感触が伝わってくるのだろうけど。
今だけは、同じ体温。
ひとつであるかのように。