大切なモノ
扉の向こうからクスクスと笑う声がした。
三蔵は扉にかけた手を止めて、怪訝そうな表情を浮かべた。
「いつまでかかってるんだ、猿」
扉を押し開けると、部屋の中央に悟空が背を向けて座っているのが見えた。一瞬、その髪が短いことに違和感を覚える。
悟空が髪を切ったのは最近のこと。思い切りよくばっさりと短くした。
髪が長いと幼く見えて、守られているだけみたいで嫌だと言った。
強くなりたい。
まっすぐに見返す金色の瞳。驚くほど大人びて見えた。
「あ、さんぞー」
悟空が振り返って笑った。
だが、その笑顔だけは出会ったときからずっと変わらない。三蔵を信頼しきった輝くような笑顔。
「なぁなぁ、見てみろよ」
悟空が手に持っているものを振って見せた。
そんな場合じゃないだろう。
三蔵はそう言おうとしたが、悟空の楽しそうな表情につられて、そのそばまで歩み寄った。近づいて覗き込んでみると、悟空が手にしているものがわかった。
それは絵日記だった。悟空を拾ってきたばかりの頃に与えたもの。
「懐かしいだろ」
悟空は絵日記を三蔵に見せた。
そこには、人物らしきものが二人、描かれていた。黄色い髪に紫の目の人物と、茶色の髪に黄色の目をした人物。茶色の髪の人物は黒い服を着ていて、黄色い髪の人物はなぜかピンク色のドレスを着ていた。
さんぞうに えほんを よんでもらった。
おひめさまが でてくるやつ。
わるい ようせいなんか ぶっとばしちゃえば いいんだ。
さんぞうは おひめさまみたい。
だから おおきくなったら おおじさまになるんだ。
「……ひどい絵と文章だな」
「なんだよ、それ」
口を尖らせてそうは言ったものの、悟空はたいして気にしていなかった。
三蔵の口の悪さは今に始まったことではない。音になって出てくる言葉の裏側に、それとは違うものが潜んでいる。
「お姫さまってたいてい金髪だろう。だから、三蔵はお姫さまなんだと思ってた。凄く綺麗だし」
傍らにいる三蔵を見上げ、悟空は手を伸ばしてその金の髪に触れた。
三蔵もまたあの頃のことを懐かしく思い出しているのがわかった。
その証拠に穏やかな表情を浮かべてるし、髪に触っても何も言わない。
悟空はひっそりと笑い、そっと髪を指に絡めて言葉を続けた。
「だから王子さまになりたかった。王子さまとお姫さまなら、ずっといつまでも幸せに暮らせるって思ってたから」
物語の最後はいつもそう。
そして、王子さまとお姫さまはいつまでも幸せに暮らしました。
それがとても羨ましかった。ずっと、ずっと一緒にいられることが。
「現実じゃありえねぇだろ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど」
まったく夢がないなぁ、と悟空が続ける。三蔵はくだらないとでも言いたげな表情を浮かべた。
「そんなの見てねぇで、さっさと支度しろ」
三蔵が身を引いた。悟空の手から金色の髪が離れていく。
もうちょっと触っていたかったな。
悟空は少し不満げな表情を浮かべた。その太陽のように煌く金色の髪が大好きで、絹のようなサラサラとした手触りが心地よくて、よく悟空は三蔵の髪に触れたがった。だが、三蔵は滅多なことでは触れさせてくれなかった。
「支度はもうすんでるよ」
三仏神の依頼で旅に出ることになった。今度のは長くなりそうだから、大切なモノがあったら持って行け。
三蔵は悟空にそう言った。
「三蔵が言ってた『大切なモノ』ってのを取りにきたんだけど」
そう言われて悟空は自室に戻って着替えてから、周りを見回した。
初めて三蔵に買ってもらったぬいぐるみとか、三蔵がどこかの寺に行った時に貰ってきた綺麗な石とか。
三蔵から貰ったモノはどんな些細なものでも全部大切なモノで、なくなったら悲しいと思う。
だけど、いくらなんでも全部は持っていけない。
だから、本当になくなったら悲しいモノだけ持っていこう。
そう考えて気付いた。
本当になくなったら悲しいモノは、目に見えないモノ。
三蔵と一緒に過ごせる時間。
「本当に大切なモノは持ち運ぶようなモノじゃなかったから……。だから、いいんだ」
ここで、この寺院で八年、過ごした。
たくさんの思い出とそれにまつわる品と。置いていくのは少し寂しいと思う。
だけど、三蔵と過ごした時間は、ちゃんとこの胸に刻まれている。だから、大丈夫。
でも、これからの未来に、ずっと一緒だという保証はない。
「ここが物語の世界で、本当に三蔵がお姫さまで、俺が王子さまだったら良かったのに」
悟空はそう言って、再度、三蔵の方に手を伸ばした。
もしそうだったら、ずっと一緒にいられるのに。
「お姫さま扱いはごめんだな」
髪に触れる直前、三蔵は悟空の手をとった。悟空の顔にがっかりした表情が浮かんだ。それを見て三蔵がふっと微笑み、掴んだ手を己の唇に近づけた。
「さ、さんぞ?!」
手の甲に触れる柔らかな感触に、うろたえたような声が悟空の口から飛び出した。
まるで、お姫さまにするキスのよう。
忠誠の証に。誓いの証に。
だとしたら、これは、何に対する忠誠? 何の誓い?
もしかしたら、ずっと一緒にいるという――。
「支度がすんでるなら行くぞ」
みるみる頬を赤く染める悟空を面白そうに見てから、三蔵は手を離すと、戸口に向かった。
「何をしている、置いてくぞ」
そして、戸口で振り返って、悟空に声をかける。
「待てよ、三蔵」
悟空ははじかれたように立ち上がると、絵日記を物入れに放り込んで三蔵の後を追った。
大切なのは、あなたと一緒にいられる時間。
だから。
この身、ひとつあればいい。
そして、西への長い旅がはじまる――。