キミは「愛する」の意味を知ることはない。
だって、キミは――。
Dark Moon
Prologue 〜 First Contact
喉元に突きつけられたナイフよりも、ナイフが喉元に突きつけられたという事実の方に驚いた。
三蔵は、ナイフではなく、ナイフを手にしている少年をじっと見つめた。
油断していたつもりはない。
いくら目の前に横たわる人物を見て、動揺していたとしても。
そして、今が夜で、月が雲に隠れていて、明かり一つない暗い室内だったことを差し引いても、ナイフが喉元に突きつけられるまでこの少年がいることに気付かなかったというのはありえないように思えた。
そんなことでは、命がいくつあっても足りない。
だが、この少年はまるで気配を感じさせず、気付いたときは懐深くに入り込んでいた。
「金蝉に触るな」
少年が言葉を発した。強がっているわけでも、うろたえているわけでもなく、ただ強い意志が込められた言葉。
闇の中で微かな光を反射して輝く瞳の色は金、だろうか。静かで深い色を湛えている。
その瞳を見つめながら、三蔵は微かな違和感を覚えた。
こんな状況に立たされた時にいつも感じる『殺気』が、言葉からも瞳からもまるで感じられなかったからだ。
あるのは強い意志だけ。
たぶん、三蔵が手を伸ばして目の前に横たわる人物に触ろうとすれば、この少年は躊躇いもなくナイフを突きたてるだろう。
だが、それは三蔵の行動の結果であって、初めから三蔵を殺そうとしているわけではない。
それがとても奇妙に感じられた。
「江流、いきなりこんなところに呼び出すとは……」
突然、背後で声がした。一瞬、少年の注意がそれる。少し前から背後の人物の気配を感じ取っていた三蔵は、その隙をついて少年の手を掴んだ。
驚くほど華奢な手首をしていたが、力は案外強い。少年はあっさりと手にしていたナイフをあきらめると、三蔵の手を振り払い、床に横たわる人物を抱えて無駄のないしなやかな動きで部屋の奥の窓のところまで下がった。
「撃つな、朱泱」
振り返らなくても背後の人物――朱泱が銃を構えたことが三蔵にはわかった。
「一体、これは何なんだ」
「俺にもわからん」
三蔵は少年の落としていったナイフを拾い上げながら答えた。そして改めて少年の方に向き直った。
警戒しているピリピリとした雰囲気が伝わってきた。下手に近づこうとすれば、そのまま窓から出て行きかねない。ここは二階だったが、先程の少年の動きを見ていると、人一人抱えていても苦もなく地面に降りられそうだった。
「おい、江流。あれは……金蝉、か?」
金蝉、という言葉に少年の体がピクリと動いた。
「お前たち、何者だ? 金蝉の何だ?」
少年の口から訝しげな問いが発せられた。腕に抱きかかえた人物の知り合いらしいと察したのか、警戒している雰囲気が少し和らいだ。
「何って、お前。俺はともかく、こいつとの関係はわかるだろう」
呆れたような朱泱の言葉が響き、ついで構えたままだった銃を降ろす気配がした。三蔵はそのことについて文句を言う気はなかった。少年の方から仕掛けてくる気遣いはまったくなかったし、それに本当にまるで殺気が感じられない。
「わからないから、聞いているんじゃないか」
少年がどことなく拗ねたような口調で言った。
「お前の目は節穴か? どう見たってこいつとそいつは血縁関係があるようにしか見えないだろうが」
三蔵と、少年が抱きかかえている金蝉と。
金の髪に、紫暗の瞳。髪型や持っている雰囲気が違うので、間違えられることはなかったが、二人とも物心ついた頃からずっと「そっくりだ」とうんざりするほど言われ続けてきた。とはいえ、一卵性の双子なのだから無理もない。
「血縁? って兄弟?」
だが、目の前の少年は酷く驚いたような声をあげた。
「全然、似てねぇ」
そして、今まで誰も言ったことのない台詞を発した。
三蔵の目が少し見開かれた。
「お前、本気で言っているのか?」
朱泱が困惑したかのように言った。
「どこが似てるっていうんだよ。全然、違うじゃないか。雰囲気も匂いも。それに……」
少年は、腕に抱えている金蝉を見おろした。
「金蝉に似た人間なんて、いるわけない」
部屋の中は薄暗く、俯いた少年の細かな表情まで窺い知ることはできなかったが、とても儚げな印象を受けた。
「お前、名前は?」
初めて、三蔵が少年に言葉をかけた。少年は顔をあげた。まっすぐに視線を合わせてくる。
「孫悟空」
短く、はっきりと名乗りをあげる。
「お前、金蝉の何だ?」
「俺と金蝉は……」
少年の目が伏せられた。
そのとき、雲が切れたのだろう。窓から月の光が差し込んできた。淡い月の光に少年の輪郭が柔らかく縁取られた。
「恋人同士……だった……」
呟く少年の頬に一筋、涙が流れた。月明かりに照らされて、それは仄かに白く光って見えた。