Dark Moon
T. Before the Dawn
周りを高い木立に囲まれた何の変哲もない一軒家。
三蔵は、明かりのついた駐車スペースに車を入れると、地面に降り立った。
隣には大型の車が停まっており、それに寄りかかり朱泱が煙草をふかしていた。
「遅かったな」
「あぁ」
朱泱の言葉に短く肯定の返事をしたきり、三蔵は遅くなった理由を口にしない。朱泱は苦笑すると、煙草をくわえた三蔵に火を差し出した。
「明日……もう今日かもしれんが、とにかく夕方ということで話はつけた」
朱泱の言葉に三蔵が頷いた。
「いいのか、そんなに早くて」
「別れは十年も前にすませてある。今さら別れを惜しんでも仕方ないだろう」
きっぱりと言い切るその揺るがない横顔に、朱泱は眩しげな視線を投げた。
「わかった。では、すべての手配は俺がしよう。それでいいな?」
朱泱の言葉に三蔵は再び頷いた。それを見てから、朱泱は家に視線を転じた。
「中にあの坊主がいる。構わないだろう?」
この家は隠れ家的な存在で、所有者やその友人関係を洗っても三蔵の名前は出てこない。
だが、第三者を招き入れるということは、その秘密性が失われるかもしれないということだった。
「別にいいさ。どうせほとんど使っていない。それに……」
涙を流しながら、金蝉と恋人同士だったと言った少年。
「引き離すほど、俺は冷酷じゃねぇよ」
「……お前にしちゃあ、珍しいな」
朱泱は面白そうに三蔵の顔を見て言った。
「何が」
「調べもせずに他人を近づけるなんて」
三蔵はゆっくりと煙草の煙を吐き出した。
「近づけてねぇよ。あいつがそばにいたいのは金蝉だろ」
「それにしても、だ。金蝉と二人きりにしておくのを何も言わずに許しているなんてな」
三蔵は訝しげな顔を朱泱に向けた。
「何だかやけにからむな、朱泱。聞くが、あいつが金蝉に何かするとでも思っているのか? 一番ありそうなのは連れて逃げることだが、ここまでついてきた以上、それはないだろう」
少年と初めてあった廃屋からこの家まで、少年は特に異議を唱えることなく素直についてきた。
「確かにな」
朱泱はそう言うと、煙草を地面に投げ捨て足で踏み潰した。
「江流、俺は行くが、誰かここに寄こすか?」
三蔵は少し考えて首を横に振った。
「いや、いい。だが、この家に通じる道は固めておけ。何もないと思うがな」
「わかった」
朱泱は、三蔵に向けて手をあげると、車に乗りこみその場を走り去った。
三蔵はしばらくそれを見送り、そして、煙草を投げ捨てると意を決したかのように家に向かった。
家はさほど広くない。
玄関から入ってすぐが居間で、その中央に細長い白い箱が置かれていた。白い箱――棺だ。
三蔵は部屋に入るとまっすぐに棺をめざした。
白い花に囲まれて横たわる、自分そっくりの顔。
「金蝉……」
呟いて見下ろす。
最後に会ったのは、もう十年も前だ。まだ少年だった頃の姿しか覚えていない。記憶にある姿は、ここに横たわっている青年とは微妙に違っている。だが線の細い印象を受けるところは一緒だった。
だからこそ、別れようと思った。
この世界で生きるにはあまりに純粋すぎると思ったから。
外の世界で、自分の好きなように生きてくれればいいと。
――なんでお前が犠牲になる必要がある。
――犠牲じゃねぇよ。これはお師匠さまの意思で、俺の意思でもある。
――遺言なんて、生きている人間の都合も考えずに勝手に遺すもんだろう。そんなものに縛られる必要はない。
脳裏に蘇る金蝉の気の強い瞳。
あの時、もう二度と生きて会うことはないと思った。
だが、想像していたのはこれとは逆の光景。
でも、現実は……。
「眠っているみたいだろ」
傍らで、囁くような声がした。
隣で茶色い髪をした少年が三蔵と同じく金蝉を見下ろしていた。
部屋の中は明るい。だから、もちろん気がつかなかったわけではない。だが、この少年はあまりにも自然に傍らにいるので、ついその存在を忘れそうになる。
何故だろう、と思う。
心を許す、許さないという問題であれば、三蔵は別にこの少年に心を許しているわけではない。
会ったばかりの他人をすぐ信じられるほど平穏無事な人生を送ってきてはいない。
この少年がまたナイフを突きつけてきたのならば、今度は反応できるだろう。
殺気を纏ったものであれば、躊躇いもなく撃ち殺すこともできる。
そう考えて気付く。
たぶん、この少年からそういった殺気とか畏怖とか、逆に崇拝とか、他人が三蔵を見たときに多少なりとも見せる『特別な人』という感情が伝わってこないからだ。
自然に、一対一の関係で接してくる。
そんな人間は、師匠である光明と金蝉以外は知らない。
「これで息をしていないなんて信じられない……。というか、あなたが来るまで信じてなかった」
少年はそっと手を伸ばして、金蝉の長い髪に触れた。
「あなたが来て、本当なんだ、と思った。本当にもう金蝉は死んだんだって。もう二度とその目を開けて俺を見てくれることはないし、その口で俺の名を呼んでくれることはない」
少年は金蝉の髪に唇を寄せると、三蔵の方を向いた。
「俺、外にいるね」
そう行って、外に行こうとする。
「いや、必要ない。俺はもう行く」
三蔵の台詞に少年の目が大きく見開かれた。
「どうして? 兄弟、なんでしょ?」
「似てないがな」
三蔵の言葉に少年がクスリと笑った。
「外見的には、そうだね、確かに似てるかも。でも、金蝉は太陽みたいだった。一緒にいると暖かな気持ちになれた。あなたは、月みたい。冷たくて冴え冴えとしている。どちらも空で輝くものだけど、でも別のものだ」
少年は三蔵から金蝉の方に目を向けた。
「最初にあなたを見たときに、金蝉を迎えにきたのかと思った。あまりにも綺麗だったから、金蝉を迎えにきた天使かと思った」
三蔵は眉をひそめた。
自身の外見については、掃いて捨てるほど『綺麗』と言われ続けてきた。正直、三蔵にはどうでもいいことだった。だが、『天使』と言われたのは初めてだった。
そういう柔らかな優しげな印象を与えるはずはないのだが。
この少年は人が言わないことばかり口にする。
「連れて行かせるもんかと思った」
「それでナイフを突きつけたのか」
少年の首が微かに縦に振られた。
「本物の天使なら、そんなことをしても無駄だろう」
「そうだね。でも、本物の天使じゃなかったから、本当に金蝉は死んで、もう取り戻せないんだって、わかった……」
そう呟く少年の背はとても儚げに見えた。
「……明日の夕方、金蝉を葬る手配をした。それまでこの家は好きに使うがいい。キッチンには何か食べるものもあるはずだ」
なぜか、金蝉ではなくこの少年に後ろ髪をひかれるような印象を受けながらも三蔵は言った。
「俺は、もう行く」
そのとき、少年の口から微かな嗚咽が漏れた。
「な……で……、こん……ぜん」
震える肩。頼りなげな背中。
三蔵は無意識のうちに手を伸ばして、その細い体を抱き寄せた。
少年は一瞬、驚いたように動きを止めたが、すぐに三蔵にすがりつくかのように身を寄せてきた。
「金蝉、金蝉……」
そして、声をあげて泣き始めた。
三蔵はしっかりと少年の体を抱きしめた。
空が白んできた。
少年は泣き疲れて、三蔵の腕のなかで寝息をたてていた。
泣いている少年を何も言わずに朝までずっと抱きしめてやるなど、三蔵は自分でも信じられないことをしていると思った。
自分勝手とか、自己中心的とか。
散々言われているし、自分でも自覚はある。それなのに――。
「こ……んぜ……」
腕のなかの少年が呟き、その目から涙が一筋零れ落ちた。
三蔵は流れる涙を指で拭った。
「いつまでも泣いてるんじゃねぇよ」
そしてそう呟くと、もう二度とその口から金蝉の名が出ないようにそっと唇を塞いだ。