Dark Moon
V. Passion Mark
朝の光が差し込むなか、憔悴しきったかのように眠る少年を三蔵は黙って見ていた。
昨夜は少年が意識を手離してしまうまで、まるで責め苛むように抱いていた。
快楽には程遠い、苦痛に歪んだ顔。痛みしか感じていないことは、その表情からも声からも容易に想像できたのに、やめることはできなかった。
金蝉ならば――。
三蔵の頭に、昨夜から何度も浮かぶ苦い思いがまた蘇ってきた。
金蝉ならば、きっとあんな風には抱かない。少年に負担をかけないように、もっと優しく抱いていた筈だ。
だが、そう思っても優しくすることはできなかった。
金蝉のことを忘れるくらいの、強烈な感覚をこの少年に与えたかった。それが痛みであっても。自分の存在を、その魂の奥底に刻みつけてやりたかった。
だからだろうか。
少年の苦痛に満ちた声は、蜜を含んだ甘い声のように聞こえた。
それが何度も熱を煽った。
今までこの行為はただの欲求だった。満たされれば、それで終わり。急速に熱は冷めていく。
別に相手は誰でも良かった。
『三蔵法師』の名に引き寄せられるものはいくらでもいた。当人だったり、その代理として送り込まれてくる者だったり。
いちいち覚えてなどいない。
終わったあと、いつまでもその場に留まっていることもなかった。
こんな風に寝顔を見つめることなど。
それどころか、意識を手離してしまった少年の身を清めて、新しいシーツにくるんでやるなんて。
誰かのために何かをする。
もうずっと、『三蔵法師』の職務以外でそんなことをしたことがなかった。
知らず知らずのうちに自分の額に手をやった。そこにある三蔵法師の証。それを引き継いだ時からずっと。
光明を失ったあの時から、もうずっと。
一体、この少年に何があるのだろう。
昨夜の麻薬にも似た感覚は、技術的なもので与えられたわけではまったくない。
ただ、そこにいるだけで……。
「三蔵……さ……ま?」
突然、呆然としたような声がした。
振り向くと、青年が戸口に立ちすくんでいた。
「も、申し訳ありません。ノックはしたのですが、返事がなかったもので。まさか、三蔵さまがいらっしゃるとは思わず。失礼いたしました」
一気にそう捲くし立てて、立ち去ろうとする背中に三蔵が声をかけた。
「待て、道雁」
手早く服を身につけて、三蔵はベッドから降り立った。
ノックの音にも、人の気配にも気づかないほど、深く思考の淵に沈んでいたということだろうか。
本当にどうかしている。
道雁は、三蔵が個人的に身の回りの整理をさせるために雇った人間だったが、三蔵が仕事を始める前に、執務室やこの仮眠室を片付けることもしていた。
つまり、ここに道雁が来たということは、もうすぐ『三蔵法師』としての一日が始まるということだ。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
三蔵は少し考えるように眠っている少年を見下ろしてから、シーツごと抱き上げた。
「ん……」
微かに少年が声を発した。抱き上げられて、さすがに目が覚めたのだろう。まつ毛が震え、ゆっくりと目蓋があがった。現れた金色の瞳が、まだ焦点が定まらないながら、三蔵の方に向けられた。
「まだ、寝てろ」
それに囁きかけた。
返ってきたのは思いもかけない反応だった。
少年は安心しきったかのような表情を浮かべると、身を委ねるように体から力を抜いて三蔵の方に寄りかかってきた。そのまま、目を閉じる。
やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。
三蔵は驚きの表情を浮かべたが、それが不意に柔らかいものに変わった。
無意識のうちにそっと少年の額に唇を寄せると、三蔵は少年を抱きかかえて仮眠室をあとにした。
昼を過ぎて、三蔵が仕事を抜けて私室に戻ってくると、慌てたかのように道雁が迎えに出てきた。
「三蔵さま、どこがお加減でも……」
「いや、様子を見にきただけだ。もう起きたか?」
「いえ。お部屋からは出てきていませんが」
その答えを聞いて、三蔵はまっすぐに寝室に向かった。後から道雁がついてくる。
「あの……」
寝室の扉の前で止まった三蔵の背中に、遠慮がちな声がかけられた。
「中にいる方はどういう方なんですか?」
ノブにと伸ばしていた三蔵の手が一瞬止まった。
起きたら、何が食べさせてやれ。
今朝、寝室に少年を運ぶとそう言いおいて、三蔵は執務室に戻った。
だから、訊かれるのも無理はない。
しかし、その質問には何と答えれば良いのだろう。どう答えれば、正しいのだろうか。
「名前は孫悟空。今日からここで暮らす。目が覚めたら、どこでも好きな部屋を使わせてやれ」
少しの逡巡の後、三蔵は、結局事実のみを伝えた。
だが、その答えは余計に道雁を混乱させただけだったようだ。
一緒に暮らす。
道雁が三蔵の身の回りの世話をするようになってから、そんな人間が今までに誰一人としていなかったからだろう。
混乱しているといえば、三蔵自身もそうだった。
光明を失って、金蝉と別れてから、誰かと一緒に暮らすことなど考えたこともなかった。
それが――。
三蔵は、ノブを回して扉をあけた。
予想に反して、部屋の中は明るかった。原因はすぐにわかった。出るときに閉めていったカーテンが開いていて、そこから日の光が部屋の中に差し込んでいた。
そして、その窓のすぐそばに、少年が座り込んで外を見ていた。
「お前……」
起きていたのか。
そう声をかけようとして、途中で止まった。
少年は、何一つ纏っていない華奢な体を、日の光に隠すこともなくさらしていた。
明るい日差しの中、昨日の暗い行為の全てが暴かれているはずなのに。
白い肌に残る無数の赤い痕。それは、まるで花を散らしたかのように見えた。
綺麗だった。
やがて、少年が三蔵の方を振り向いた。三蔵は何も言わず、ゆっくりと少年の方に歩き出した。