Dark Moon
W. Flip Side
ふと目を開けると、見覚えのない天井が目に入った。そして。
何だろ……。
体が重い。まるで、水を吸った綿のようだ。
それでも悟空はのろのろと起き上がろうとし……。
「って!」
起き上がった途端、ありえないところに鋭い痛みを感じて、ベッドの上で固まった。
何、これ……。
頭の中に疑問が渦巻く。だが、突然、綺麗な顔が頭の中に浮かんできた。
金色の髪。深い紫暗の瞳。
と、同時に、肌を辿る指、そして、唇の感触がまざまざと蘇ってきた。
「うわぁぁ!」
思わず悲鳴じみたものをあげ、膝の上で組んだ腕の中に顔を埋めた。
熱がすべて顔に集まったかのよう。そして、血が逆流しているかのよう。心臓の音がはっきりと聞こえそうな気がした。
だって、あんなの……。
蘇ってくる感触を、ぶんぶんと頭を振って追い出そうとする。
途中からそれは激しい痛みに変わってしまったけど、でも……。
「だからっ!」
思い出すな、俺っ!
悟空は自分の頭を抱え込んだ。
思い出したら、どうにかなってしまいそうだった。
深呼吸をして、気を落ち着け、しばらくしてから悟空はようやく顔をあげた。あたりをぐるりと見回す。
見覚えのない部屋だった。
ベッドとその脇に小卓。あとは作り付けのクローゼット。以外は何もない。殺風景といってもいいくらいだ。
昨日の部屋とも違うようだ。
そう考え、また昨日のことを思い出しそうになって、再度ぶんぶんと頭を振った。
そういえば。
眠っている途中で、起こされたような気がする。抱きかかえられた腕、こちらを見下ろす目。なんだかとても安心できて、そのまま目を閉じた。
あの時にどこかに運ばれたのだろうか。
どこか、というか。
悟空は上掛けに顔を埋めた。
たぶん、あの人の寝室。だって、あの人の匂いがする。
日に干した洗濯物の香に潜む微かな煙草の香。
もう覚えてしまった、その香。
何でだろ。
悟空はその姿勢のまま、目を閉じた。
目蓋の裏に浮かび上がるのは、この部屋の主の顔。
三蔵。
どうして、こんなに安心できるんだろう。会ったばかりなのに。何も知らないのに。
確かに、姿だけなら金蝉に似ている。
でも、だからではない。
だって、姿以外は全然違う。それに、金蝉のときとは違う安心感と、もう一つの感情。
やっと会えたのだというような。
たぶん、三蔵ならば何をされても、その側にいたいと思う。
昨日のも、辛いだけだったけど。
でも、触れてくる指や唇が、とても、嬉しかった。
そう。嬉しかった。
悟空は閉じていた目を開けて、顔をあげた。
閉ざされたカーテンの向こう側に、光が溢れていた。
ゆっくりと体を回して、床に足をつけた。立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らず、床に倒れ込んでしまった。
自分の体ではないみたいに感じられる。
それでも、床を這うようにして、窓に近づいた。
なんだかとても情けない気もしたが、窓の外を見てみたかった。
カーテンを開けると、眩い光が差し込んできた。あまりの眩しさに、反射的に目を閉じる。それから、手をかざしてそろそろと目を開けた。
「うわぁ」
思わず感嘆の溜息が漏れた。
そこから見える光景は、今までに見たことのないものだった。
遠く、遥かに遠くまで見渡せる。遮るものが何もない。眼下は、まるでミニチュアの世界が広がっているようだった。
桃源郷にある『双子の搭』のうちの一つだとわかった。他の建物の追従を許さぬほどの高さを誇る搭。そういえば、どちらも三蔵法師が管轄するものだ。一つは執務をするところとして、もう一つは天界との連絡をとる場所として。
どうやら三蔵法師の住まいは執務を行う搭と同じところにあるようだ。その方が便利だからだろうか。
そうやって外の景色を眺めていたのは、長い間だったのか一瞬だったのか。景色に魅了されて時間の感覚も忘れた頃、突然、扉が開く音がした。
「お前……」
囁くような低い声が聞こえてきた。
振り返ると、予想に違わぬ姿がそこにあった。ゆっくりと近づいてくる。
「三蔵……?」
すぐ側まで来て、見下ろすその目に奇妙な光を認めて、悟空は微かに小首をかしげた。
何かおかしなところでもあるのだろうか。
悟空は三蔵から自分の身へと視線を移した。
「あ……」
そして、初めてその身におびただしい赤い痕が散っているのに気がついた。
「これ、何……?」
見たこともない赤い痕に急に不安になる。
もしかして、これは何かの病気とか……。
「金蝉はアトを残すようなことはしなかったのか?」
不安が顔に表れていたのだろう。安心させるかのような優しい口調で言う三蔵に、悟空は腕をとられた。そして、三蔵の唇が腕の内側の柔らかい部分に触れた。
「あっ……」
思わず声があがってしまう。
ちりっとした痛みと甘い疼き。
唇が離れていったその後には。
「所有の印。お前が俺のモノだという」
じっとその痕を見ていた悟空は、三蔵の言葉に顔をあげた。
三蔵のモノ?
その言葉に、歓喜にも似た甘い痺れが走った。知らず知らずのうちに、笑みが形作られた。
「お前……」
三蔵は少し驚いたような顔をした。だが、それも束の間、唇の端が少し持ち上がった。それは満足気な表情だったが、同時に安堵の表情にも見えた。
三蔵が腰を落とした。綺麗な顔が間近に迫り、悟空は目を見開いた。顎に手がかかり、唇を塞がれた。
「ん……」
やがて唇が離れると、悟空は三蔵の方にと倒れかかった。体に力が入らない。柔らかく三蔵に受け止められた。腕の中。ここはとても安心する。
と、抱きあげられた。
「三蔵?」
そのままベッドに座らされ、三蔵はクローゼットの方に向かった。
「それでも着てろ」
バサバサッと音をたてて着るものが投げられた。
「あ、うん」
今さらながらに何も身につけていなかったことを思い出し、少し赤くなりつつも悟空は三蔵が放り投げてくれた服に袖を通した。
「俺はもう仕事に戻るが、動けるようになったら、どこでも好きな部屋を選べ」
「部屋?」
「お前の部屋だ。俺と一緒にいたいと言ったのはお前だろう」
「ここにいていいの? ずっといていいの?」
本当に一緒にいさせてもらえるのか。実は悟空は半信半疑でいた。
あなたと一緒にいたい。
そう告げたとき、三蔵が嫌そうに見えたので。
だから念押しをするような口調になってしまう。
「くどい」
三蔵は素っ気なくそう答えると、戸口にと顔を向けた。
「道雁、こいつに何か食い物をもってきてくれ」
「わかりました」
声が聞こえてきて、悟空はびっくりして戸口を見た。後ろで束ねた長い黒髪が揺れるのが見えた。
「今の――今の人、いつから――」
「道雁か? ここに来たのは俺と一緒だが、それがどうかしたか?」
三蔵の答えに、悟空は顔から火が出るかと思った。
「どうした?」
「……だって、さっきのキ、キスとか」
その他いろいろを見られていたというわけで。
悟空は俯いた。
「別に道雁は気にはしないさ」
だが、強引に顎を掴まれて悟空は顔をあげさせられた。軽く唇にキスを落とされる。
「俺は行く。何かあったらさっきの道雁に言え。ここの管理は全部あいつがやっているからな」
「三蔵」
足早に遠ざかっていく三蔵の後ろ姿に悟空は呼びかけた。三蔵が振り返る。
「ありがとう。いってらっしゃい」
その言葉に対する答えはなかったが。
微かに浮かんだ笑みに火が灯ったように悟空の心は暖かくなった。