Dark Moon
Z.Obscure Flaw
悟空が目を覚ますと辺りはもう暗くなっていた。
久しぶりによく眠ったような気がする。
「三蔵……?」
呟いて、辺りを見回す。
三蔵の姿はない。
忙しいのだから当たり前だ。そうは思っても、なんだか心細くなって、悟空はベッドから出ると、部屋の扉を開けた。そのまま廊下を辿っていく。
「どこに行くのですか?」
内玄関の扉を開けたところで、声がかかった。振り向くと道雁がいた。
「三蔵のところ」
悟空の答えに、道雁は眉をひそめた。
「あまり三蔵さまのお手を煩わせないでください。用があるのでしたら、私がしますので」
「用があるのは三蔵に、だから」
道雁はため息をついた。
「何か勘違いをしているようですけど、三蔵さまにとって、あなたは決して特別な存在ではないのですよ」
言いたいことの主旨がよくわからなくて、悟空は眉根を寄せた。それに畳み掛けるかのように道雁が続ける。
「大勢の取り巻きの中の一人。いくらでも替えがきくのですから」
「それ、どういう意味……?」
「三蔵さまがベッドをともにする相手など掃いて捨てるほどいるということです」
悟空の目が大きく見開かれた。
「嘘……。そんなこと、できるわけ……」
悟空の言葉に雁道は大仰にため息をついた。
「ここまで、子供だとは思いませんでした。あなたはやっぱり三蔵さまには相応しくありません」
きっぱりと言い切って、雁道は正面から悟空を見すえた。
「別に『好き』じゃなくても、できるんですよ。あんなの、快楽を得る手段にしかすぎないのですから。身体を繋げたからといって、心まで繋がったことにはなりません。たまに勘違いをして、三蔵さまに纏わりついて迷惑をかける輩がいますけど。放っておけば、あなたもそうなっていたかもしれませんね」
雁道は笑みを浮かべた。どこか酷薄な、相手を見下したような笑み。
「『好き』だの『愛している』だの言って束縛されることを三蔵さまは何よりも嫌がります。第一そんなことを言って、見返りに三蔵さまに愛されるだけの価値が自分にあるとでも言うのでしょうか。あの方は『三蔵法師』なのですよ。この桃源郷の全てを掌握する、至高の存在。――あなたには、その価値があると?」
悟空は少し怯んだような表情を浮かべた。
「三蔵さまは、確かに今は、あなたのことを気に入っていらっしゃるみたいですけど、それはただ単に物珍しいからです。本気で三蔵さまがあなたに心を向けると思っていたのですか?」
一瞬、泣くのではという表情を見せたが、悟空はそれでも、きっと顔をあげると雁道を睨みつけた。
「信じない。だって、それは三蔵の言葉じゃない」
噛みつくようにそう言うと、身を翻して悟空は外に飛び出した。
そして、エレベータホールにと向かう。
この私室に通じる、限られた者しか乗ることのできないエレベータ。
軽い音がして、扉が開いた。ほとんど飛び込むようにして、乗り込む。
三蔵、三蔵、三蔵。
エレベータが降りていく。悟空の頭の中を、道雁に言われた言葉が巡る。
決して特別な存在ではない。
快楽を得るための手段――。
そんなことはなかった。
ただ苦しいだけだった。だから、違う。だから、そんなことはない。
だから。だから……。
三蔵――。
執務室のある階にエレベータが止まった。扉が開くのと同時に飛び出て、執務室へと急いだ。
そんなことはない。
そう言ってほしかった。
扉をノックした。が、返事はない。
「さんぞ……?」
扉の開閉装置に手をあてる。ピッという電子音がして扉が開いた。が、中の明かりは消えていた。
誰もいない。
今日は西地区に行くと、三蔵が言っていたのを思い出した。まだ、帰ってきていないのだろうか。
と、奥の部屋から、一筋の明かりが漏れているのに気がついた。
悟空は部屋の中に入ると、奥の部屋に向かった。
そこは確か仮眠室のはずだ。
扉に手をかけたとき、微かな声がした。
三蔵の他に誰かがいる?
別に様子を窺うとしたわけではないが、自然に何だろうと思い、扉の隙間から中の様子を見た。
そして、そのまま動きを止める。
ベッドの上にいるのは、三蔵と――。
なんで……?
悟空はその場から逃げるように駆け出した。
どこをどう走ったのかわからない。
気がつくと、外にいた。
なんで……。
頭からさっき見た光景が離れない。
なんで、三蔵、なんで?
触れないで。その手で、誰にも、あんな風に、触れないで。
悟空は地面に膝をついた。
涙が溢れ出してきた。
嫌だ。
こんなの、嫌だ。
決して特別な存在ではない。
快楽を得るための手段――。
言われた言葉が頭の中をめぐる。
どうでもいいことだったの?
優しくしてくれたのも、全部、全部。三蔵にとっては意味のないことだったの?
嘘だと言って。
お願いだから。
誰か。
誰か――。
「こ……んぜ……」
悟空の口から無意識のうちに呟き声がもれた。
「金蝉……」
のろのろと立ち上がり、悟空は歩きだした。
シャワーを浴び、手早く服を身に着けながら、三蔵は舌打ちしたい気分に駆られていた。
どうしても、悟空の顔が頭から離れなかった。
触れると反応を返す目の前の体。
これが悟空ならば、と思った。
そう思っただけで、身の内に熱が溜まるようだった。
「三蔵さま、どうしたの? 今日は凄く……」
ベッドに力なく横たわっていた今日の相手が、艶然と微笑み、ゆっくりと身を起こした。そして、三蔵の方にと手を差し伸べる。それを三蔵は冷ややかな目で見下ろした。
どうして、これが悟空ではないのだろう。
何も言わずに背を向けると、三蔵は仮眠室を後にし、私室へと向かうエレベータに乗り込んだ。
私室の内玄関で出迎えた道雁に適当に応え、悟空の部屋にと向かう。
「あの少年でしたら、先ほど、三蔵さまに会いに行くと言って外に……。お会いになられませんでしたか?」
扉を開けようとしたところで、道雁がそう声をかけてきた。三蔵は訝しげな表情をした。
会っていない。すれ違いになったのだろうか。
「三蔵さま、少しよろしいですか?」
少し改まった感じで雁道が声をかけてきた。悟空の部屋に入ろうと扉を開けた三蔵は、戸口で振り返った。
「あの少年ですけど、あまり甘やかさない方がよろしいかと思いますが。お仕事の邪魔になることもわきまえていないようですので」
その言葉に、三蔵の唇の端が少しあがった。
「別に、好きなようにさせておけ」
「三蔵さま?」
「あれはそのままでいい」
いつでもまっすぐに自分をみつめてくる金色の目。
それが気に入っているのだから。
三蔵はもう話は終わったとばかりに、悟空の部屋にと入り扉を閉めた。
行き違いになったのならば、たぶん待っていればすぐに戻ってくるだろう。
そう思い、三蔵はベッドに腰をおろした。
金蝉と暮らしていた家の前で、車を停めてもらった。釣りをもらうのももどかしく、悟空は車から飛び降りた。
金蝉――。
頭の片隅では、それが無駄なことだとわかっていた。
だが、ここに来ずにはいられなかった。
帰れば、金蝉がいるような気がした。
そして、全部、嘘だと言ってくれるような気がした。大丈夫だ、と。
悟空は家を見上げた。
明かりがついていた。
金蝉の書斎。
「金蝉っ!」
悟空は、家の中へと飛び込んだ。階段を駆け上がる。書斎の扉を勢いよく開け――。
「金蝉っ!」
そこにいた影に飛びつこうとして、足が止まった。
「お前……」
書斎の机に腰掛けるようにもたれかかっていた人物。
「また、会ったな、悟空」
それは、焔だった。