繰り返し選ぶこと


 書類を見ていると、ノックの音がした。
「入れ」
 短く答えると、「失礼します」という声がした。
 どうせ終わった書類を取りにきたんだろうと思って、顔もあげずにいたら目の前に茶が置かれた。ふと視線をあげると、盆を手にした小坊主が柔らかく笑っていた。
「寒いと思っていましたら雪ですね、三蔵さま」
 そう言われて、窓の外を見た。言葉の通り、雪が降っていた。音もなく降っていたので気がつかなかった。うっすらと白く積もっている。
「今年は寒くなりそうですね」
「あぁ」
 短く答えて、湯気を立てている茶を手にとった。
 暖かい。その暖かさに、自分の手が冷え切っていることに気づいた。
 小坊主は盆を脇にかかえ、机を回って処理済の書類を手にした。
「こちらの書類はいただいていきますね」
 そう言って一礼すると、部屋から出て行く。
 動作のひとつひとつが静かだった。足音をたてることもなく、余計な無駄話をして騒ぐこともない。
 心地良い静寂を邪魔しないようにと気をつかっているのだろう。
 まったく、どこかの猿とは大違いだ。
 窓の外をもう一度見る。
 雪。きっと大喜びでその辺を駆け回っているだろう。だが、ちゃんと厚着はしているだろうか。
 そう考えて、少し憮然とした気持ちになった。
 なんでそんな心配までしなくてはいけないのだろう。とはいえ、風邪でもひかれたらもっと面倒だ。
 ――三蔵。
 と、頭の中に声が響いた。
 心許ない、か細い声。泣いているような。
 悟空の声だ。
 カタンと、立ち上がるときに椅子が音をたてた。
 このところずっと、こんな声で呼ばれたことはなかったのだが。何があったのだろう。
 執務室を出て、声のする方にと足を向けた。
 悟空のこういう声は苦手だ。どうしても無視することはできない。
 廊下を進んでいくと、先程の小坊主の声がした。
「だから、三蔵さまは今は忙しいんだ。もう少しで終わるから、部屋で待っていればいいだろう」
 角を曲がると、小坊主の背中と悟空が見えた。悟空は少し俯きかげんで、口を引き結んでいる。
「どうした?」
「三蔵さま」
 声をかけると、小坊主が驚いたように振り向いた。
 その隙に視線を下げたままの悟空が、小坊主の横を走り抜けた。それに気付いた小坊主が阻止しようと手を出すが、悟空の方が早い。そのまま走って飛びついてきた。
 普段であればハリセンをお見舞いするところだ。だが、いくらなんでもこんな風に泣いている声を聞かされては、それはできない。もっとも、声の主は今のところ本当には泣いてはいなかったが。
「何があった?」
「白くて、冷たい」
 法衣を握り締め、額を押し当てたまま、悟空が小さな声でポツリと答えた。
「雪か?」
「あれ、嫌い」
 その言葉に意外な印象を受けた。例外なく子供は雪が好きかと思っていたが。
 と、悟空の体が震え出した。寒さのためだけではなさそうだった。
「怖い」
 震える声で言われた。
「全部、真っ白になって、静かで、冷たくて。何もない。誰もいない。俺一人だけで――」
 微かな嗚咽が漏れてくる。
 あやすように、片手を背中にまわし、もう片方の手を頭にのせて撫でてやる。
 普段の元気に跳ね回る姿からは想像もつかないほどの静かな泣き方。だが、声をあげて泣かれた方が数倍マシと思わせる泣き方。
 自分が一人きりだと思っている時の泣き方。
 悟空は、『一人でいること』を極端に嫌う。五百年もたった一人であんなところに幽閉されていたのだから無理もないことだ。
 その五百年の孤独が、その怖さが直接伝わってくる。
 だから、どうしても無視することはできない。
 ゆっくりと優しく頭を撫でる。
 こうしてやると、人のぬくもりを実感できて一人ではないと安心するのか、たいてい悟空は落ち着く。今回もだんだんと震えがおさまってきた。
「一人じゃねぇだろう」
 声をかけると、悟空が顔をあげた。
「さんぞー」
 涙に濡れた情けない顔をしている。とはいえ、ちゃんとこちらを見ているから大丈夫だろう。
「とりあえず、風呂に入れ。そのままじゃ、風邪をひく」
 雪のせいで悟空の髪も服も湿って冷たかった。
 肩を押して歩き出させようとしたが、悟空は法衣を握っていた手に力を込めて動かない。
「追い払わねぇよ。一緒に行ってやるから」
 その行動に苦笑が漏れる。本当にわかりやすい性格をしている。
 悟空は片手を離した。だが、もう一方の手はまだしっかりと法衣を掴んだままだ。
 これはまだ不安なのだろう。それだけ、悟空にとって雪は怖いものなのだ。
 ぽんぽんと頭を軽く叩いて、悟空の手はそのままに自室に向かう。
 と、背後で悲鳴に似た声があがった。
「三蔵さま!」
 振り向くと、小坊主が蒼白な顔で立っていた。
「まだ、ご公務が残っています。そんな子供のわがままに――」
「煩い」
 うだうだ言われる前に、一言で終わらせる。そして、もうそのまま振り向かずに悟空を連れて自室にと向かった。



 ふっと意識が浮上した。ぼんやりと暗い天井が目に映った。
 夢――。
 闇の中でそっと身を起こす。
 忘れていた。そういえば、そんなこともあった。夢、だったが、あれは現実。ずいぶん前のことだ。悟空を拾ってきて最初の冬。
 あの時の小坊主。あれは道雁だ。
 昨日、変わり果てた姿になった道雁と再会した。それで記憶が刺激されたのか。
 だが、思い出したところで何になるというのだろう。
「……俺のせいかな」
 突然、横で声がした。見ると、大きな金目がこちらを見上げていた。
 眠れない。
 そう言って横に潜りこんできた。いつもならば叩き出しているところだが、あまりにも不安気な様子に隣で寝ることを許した。
 結局、いつまでたってもこういう悟空を無視することはできないのだ。
「まだ眠れねぇのか?」
「夢、見た」
 悟空が起き上がってきた。
「三蔵に拾われて、最初の冬。雪が降ったときの夢」
 同じ夢だ。軽く驚く。だが、同じ夢を見ること自体はそれほど珍しくはない。
「俺、あの時は凄く怖くて、三蔵に抱きしめてもらってやっと安心した。そのとき、あいつ――道雁がいた。あいつにとっては衝撃だったんじゃないかな。抱きついてもハリセンを使わない三蔵なんて」
「……使ってほしかったか?」
「そんなわけないじゃん。あの時にハリセンで殴られてたら、死んでたよ、きっと。誰もいないんだって思って。俺は一人なんだって」
 微かに震えているのがわかった。手を伸ばして肩を抱き、そのまま引き寄せる。
「三蔵、あんまり人にこういうことしないでしょう」
 腕の中で悟空が言う。
「だから道雁は驚いたと思う。俺がどんな状態だったかも知らないから、三蔵は殴らなかったんじゃなくて、殴れなかったってことがわからなかったと思うし、だとしたら俺のことを特別扱いしているって思ったのかも。自分よりも大切にしているんだって思ったのかも。それであんなんになっちゃったのかも。三蔵は優しいだけなのに。震えている子供を殴れなかっただけだったのに」
 ため息が出た。と、悟空が身を固くした。ため息を聞いて、呆れられたとか、嫌われたとか、どうせそんなことでも考えたのだろう。まったく……。
「お前、ホントにバカ」
 そっと頬に手を添えて、こちらを向かせる。不安げな金晴眼。泣きそうな顔。
「俺は優しくねぇよ。もし、あの時に戻ってもう一度やり直すことができても、同じことを繰り返すだけだからな。たとえあれがヤツの全てを狂わすきっかけだったと言われてもな」
 選ぶとか選ばないとか。そんなことは考えてもいなかった。
 だが、もう一度同じ場面に戻っても、やはり悟空の手を取るだろう。迷いもなく。
 それが誰かを泣かすことになると知っていても。
 誰かの運命を狂わすことと知っていても。
 俺が、自分から触れるのはただ一人しかいないのに。最初に手を差し伸べてから、ずっと。それなのに。
「さ……ん……ぞう?」
 大きな金目がさらに大きくなる。そういう表情をすると、本当にまんまガキだ。拾ってきた時から少しも変わっていない。
「くだらんこと考えてないで、もう、寝ろ」
 ポスッと悟空をベッドに沈めた。
「それとも何も考えられなくしてやろうか」
 耳元で囁くと、さっと朱が散った。
 その言葉の本当の意味も知らない子供に向かって何を言っているのだろう。
 自嘲めいた思いが浮かぶ。
 それなのに、何事かを察して頬を染める子供を欲しいと思うなんて。
 薄く笑って、離れようとした。と、背中に悟空の手が回った。
「悟空?」
 闇に浮かぶ、美しい光を湛えた双眸。柔らかく溶けるような色。初めて見るその誘うような瞳の色に、全身が粟立つような感じがした。
「お前、何をされるかわかっているのか?」
 ふるふると首が横に振られる。だが、背中に回った手は離れることはない。
「さんぞ……」
 掠れるような微かな声。
 その声までも誘っているようだ、と感じるなんて。
「悟空」
 名前を呼んで、そっと触れるだけのキスをした。
 震えながらも逆らうことなく、悟空はキスを受け止める。
 だから、もう構わない、と思った。どうなっても。どう思われても。
 ゆっくりと悟空に覆いかぶさっていく。
 そして、そのまま――。
 その柔らかな唇に、甘い体に。
 溺れていった。