生まれ変わる


甘い匂いが辺りに漂っている。

――なんだろう……。

少しずつ浮上していく頭で考える。たぶん同居人が帰ってきて、料理をしているのだろうが……。
朝帰り自体は珍しいことではない。
たいていはそのままベッドに直行だが、なにか軽くつまんでから寝るというのもなくはない。
最初の頃は帰ってきた気配で起きて、迎えたりもしていたのだが、この頃は放っている。
その方が気を使わなくて、お互いにラクだというのがわかったからだ。

いまも帰ってきた気配では特に起きようとは思っていなかったのだが……この甘い匂いは少しひっかかる。基本的に甘いものはあまり食べないはずなのだが。
と、微かな笑い声が聞こえてきた。
おや? と思う。なので、起きてキッチンにと向かう。
そこには。

「あ。八戒! おはよーっ」

満面の笑みを浮かべる子供がいた。

「おはようございます。悟空。ずいぶんと早いですね」

今日、この子供を預かる約束はしていた。だが、まだ早朝といった時刻だ。こんな早くから訪ねてくるとは思っていなかった。
夜が明けてすぐくらいに出てきたのではないだろうか。
寺院の朝は早いとはいえ、夜明けとともに起きるというイメージはない。ましてやあの最高僧様がそんなに早く起きるとは思えないのだが――。
と思い、周囲を見回す。

「三蔵サマなら、もう出かけたぜ」

タバコをふかしながら悟浄が言う。

「こんな早くにですか?」
「行くのが遠いトコらしい。会ったのは偶然なんだけどな。その辺で出くわして、後から小猿を寄越すからって話してたとこに、泣きながら小猿ちゃんが走ってきて……置いてくなって大泣きして、なんか修羅場みてぇだった」

肩をすくめる。

「泣いてねぇよっ」

唇を尖らせて悟空が言う。

「あぁ。はいはい」

悟浄が適当に返すのに、悟空はますますむくれた顔になる。確かに少し目が赤い。泣いた、というのも嘘ではないのだろう。

「……だって、起こせって言っといたのに、起こさねぇんだもん」

むくれた顔のまま俯いて悟空がぽつりと言う。

「どうせお前が気持ちよさそうに寝こけてたからだろ」

悟浄が手を伸ばしてくしゃりと悟空の髪をかきまわす。

「毎度毎度、こうなることがわかっていて起こさない方もどうかと思うけどな。ま、今回はソレ、置いてったみてぇだけど」

と、視線で示す先には――悟浄のものとは違う煙草の箱。
置いていくわけではない。それを取りに戻るから、という意味だろうか。

「わっかりにくいよな」

悟浄が苦笑を浮かべる。

「だが置くてくわけねぇってことは、すぐわかるんだけどな。1泊しちまった方が楽だろうに、日帰りするために朝早くから出かけてるんだから。置いてくつもりなら、んなことしねぇだろ。」
「……そう、なのか?」

悟空の顔があがる。

「長い間離れてると小猿が寂しがるから日帰りにしたなんて、あの最高僧サマは口が裂けても言わねぇだろうけど、な」
「どこに行くって言っていたんです?」

気になって聞いてみる。悟浄が挙げた街の名前は、確かに日帰りできないことはないけれど、少し遠いところにあるものだった。

「そうですね。そこなら日帰りより1泊した方が楽でしょうね。悟空、悟浄の話は十分ありえますよ」

肯定すると、悟空の表情が明るくなった。

「ってわけで、いつまでもむくれてねぇで……もっと食うか、それ」
「食う!」

元気よく返ってきた言葉に悟浄が立ち上がる。

「八戒、お前も食うか?」

キッチンに向かうのに振り向いて悟浄が聞いてくる。

「すっげぇ美味いぞ、これ」

悟空が皿を持ち上げて見せる。乗っているのは、半分ほど平らげられたパンケーキだ。
こういったものが作れるとは思ってもみなかった。相変わらずなんでも器用にこなす男だ。

「えぇ。いただきます」
「じゃ、八戒が先な」
「おう!」

悟空が手を挙げて答える。
しばらくしてコトンと皿が目の前に置かれた。ひとくち食べてみて。

「おいしい……」

意外だ。
しっとりもちもちの食感で、生地自体はそんなに甘くなく、上にかけられた蜂蜜と、リンゴを甘く煮たものによく合っている。

「それはよかった」

片目を瞑って、悟浄が答える。

「こんなのが作れるなんて知りませんでした」
「ん? なんか適当に」
「適当に、って……。リンゴを煮たものもですか? よく思いつきましたね」
「あぁ。帰るときに貰いモンだからってリンゴをたくさん押しつけられたんで……甘くしとけば、子供が喜びそうだろ」
「生地にヨーグルトを入れたのは?」

後ろで見ていたところ、いきなりヨーグルトを入れたので驚いたのだ。

「それは前に店で女の子が話してるのを聞いたから。なんでも不思議な食感になるとか。で、試しに入れてみただけ」

目分量で適当に作っているのは見ていてわかったが、それでこれだけ美味しいものになるとは――やはり器用な男だ。

「ごった煮のラーメンよりずっとうめぇよ」

そう言う悟空の頭を、悟浄は軽く小突く。

「昼はそれな」
「えーっ」
「嫌ならメシ抜き」
「ぶぅ」

楽しそうなやり取りを見守る。

「ほら、猿。皿、持って来い。焼けたぞ」
「猿じゃねぇっ!」

プンプンと怒りながらも、悟空は皿を持って悟浄の方に行く。
なにやかやと小突き合いを繰り返している二人を見て。
仲良きことは美しきかな。
そんな言葉が浮かんだ。





にぎやかな朝食の後、少し寝ると言って悟空は寝室に引っ込み、手伝うという悟空に手伝ってもらって洗濯物を片づけ、せっかくだからと少し悟空の勉強を見た。
意外なことに、と言ったら怒られるだろうが、悟空は頭が悪いわけではない。
ただ興味がないことにはとことん興味がないだけなのだ。それをどれだけ上手に誘導できるか。時々、こちらの手腕を試されている気になる。

「はい。よくできました」

書きつけたものを一通り見てそう言うと、満面の笑みが浮かんだ。

「じゃ、俺、外で遊んでくる!」
「行ってらっしゃい」

駆け出していく背中に声をかける。
それからなにやかやと家事をしていて――昼になった。
悟浄はまだ起きてこない。昼は作るというようなことを言っていたが、さて、どうしたものか、と寝室に向かう。

「悟浄」

声をかけるが返事がない。ドアを開けてなかに入る。
カーテンを引いた部屋は薄暗いが、何も見えないというほどでもない。それでも時々、思わぬところに何かが転がっていることがあるので、注意して寝台に近づく。

「悟浄」

もう一度、声をかけると微かに身じろぎをした。鮮やかな赤い髪がさらりと顔にかかる。
この髪を血のようだ、と思っていた時もあったが。
そっと手を伸ばして一房、掬いあげる。
しばらくその赤を見つめていたが。

「目覚めのキスはしてくれねぇの?」

不意に手を取られた。
微かに笑みを浮かべ、こちらを見つめる瞳も赤い。

「それじゃ、あなたがお姫さまになってしまいますが……その方がいいですか?」
「そいつは困る」

言葉とともに手を引かれた。バランスを崩し、自体が把握できないでいるうちに抱きとめられ、気が付いたらベッドに仰向けに寝ていた。

「そういう無防備に驚いた顔も珍しいな」

クスリ、と笑われる。近づいてこようとするのを。

「冗談はそこまで」

口に手を押しあてて止める。一瞬、見つめ合い、それからふっという溜息が手のひらにかかった。

「……で、どうした?」

ぽんぽんと頭を撫でられる。
いきなりそんなことをされて面食らう。意味がわからない。

「なんの話です?」
「いや。泣きそうな顔をしてるから。さっきのがどーのってより、なんか朝からずっとだな」

少し驚く。
いや、泣きたいというわけではなかったのだが――ほんの少しだけひっかかることがあるにはあった。

「平和……なんですよね」
「あ?」
「こんな穏やかに過ごしていて――許されるのかな、と」

心底わからないという表情をされる。

「僕がしてきたことを考えると、本当にこんな穏やかに過ごしていていいのかな、と……」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって……」
「良いも悪いも、許すも許さないもねぇんじゃね? だいたい誰かに許されたいわけじゃねぇだろう、お前は。ってか、誰かに『許さない』って言ってほしいのかもだけど。でもさ、その『誰か』って誰よ? でもってその誰かに『許さない』って言われたら、この状況が変わるとでも?」

変わる――かもしれない。
そうしたら、ここにはもういられないだろうから。

「あのな。そんな見知らぬ誰かより――そこで心配してる小猿ちゃんのが大事じゃね?」

反射的にドアの方に目をやる。そこに、じぃっとこちらを見つめる悟空がいた。

「八戒、どっかに行っちゃうのか?」

とてとてと歩いてきて、ぎゅうっと抱きつかれる。

「やだかんな。置いてかれるなんて、ぜってぇやだ」

少し震えている。
何も言えずにいると。

「どこにも行かねぇって、よ」

ぽんぽんと悟空の頭を叩いて悟浄が言う。

「本当に?」

大きな金色の目がまっすぐに見つめてくる。

「俺はさ、『八戒』しか知らねぇけど。その前になにがあったのか、よくわかんねぇけど、でもさ、八戒のこと、大好きだよ。だから、いきなり消えてなくなるなよ」

強い強い光を宿す、金色の瞳。
それを見つめ返しながら。

「えぇ」

と、答えた。
ふっ、と何かが落ちた気がした。

八戒――。

そう。いまはその名なのだ。
新しい名を貰ったからといって過去のすべてをなかったことになどできないが、でも、これからはその名前で生きて行くのだ。
微笑むと、安心したように悟空が笑った。

「さて、一件落着したところで、昼メシ作るぞ。猿、手伝え」
「猿じゃねぇっ!」

二人がまたじゃれあいながら、ドアへと向かう。
と、戸口のところで悟空が振り返った。

「あ。八戒、夜はご馳走だから、あんま食べない方がいいぞ」
「ご馳走?」
「うん。誕生日だろ、八戒の。街でお祝いしよって。三蔵も仕事が終わったらくるって」
「誕生日……」
「まさか忘れてたとか?」
「そうですね」

言われてみれば……という感じだ。
と、タタタと悟空が戻ってきた。

「おめでとう。八戒」

ぎゅっともう一度抱きしめられ、それから悟空はまた戸口にと戻っていく。

「やれやれ、まだまだ俺も小猿ちゃんに敵わないとは、ね」

戸口で待っていた悟浄が肩をすくめる。

「なんだよ、それ」
「なんでもねぇよ」

頭を小突きながら、廊下へと消えていく。
それを見ながら。

誕生日。

新しく生まれるというのなら――。
確かにこの日がそうなのかもしれない。

そう思った。



2016年八戒誕生日記念SS。