夕闇
久しぶりに訪れた長安の町は相変わらず賑やかだった。
三蔵は見るともなしに周囲に視線を走らせ、そう思った。が、さしたる感慨もなく歩を進めていく。
進むごとに感嘆の視線や囁き声が追いかけてくるが、全て綺麗に無視する。
金の髪に白い法衣。自身の外見が人目を惹くことはわかっている。まとわりついてくる視線はウザイがいちいち反応していたら身が持たない。それに反応すれば、余計にウザクなるのだ。
だから全て無視する。まるで周囲に誰もいないのだというばかりのその態度に、思い切って声をかけてくるものはいない。
「あ、さんぞ。あれ。あれ、欲しい」
だが、急に袖を引かれた。
袖を引っ張っているのは、大地色の髪をした少年。唯一、三蔵の足を止められる存在。
三蔵は養い子の視線を追った。そこあるのは色とりどりの飴。その中でも、ピンクと白の渦巻き型をした棒つきの飴を悟空は興味津々と言った感じで眺めている。
「……お前、あんなのが欲しいのか?」
「うん!」
三蔵の問いかけに元気一杯の返事が返ってくる。思わず三蔵は悟空の顔をしげしげと見つめなおした。
もうじき十八になろうというのに、出会ったばかりの頃から全然変わらない。今も昔もその表情は子供っぽかった。
「あれだけしか買わんぞ」
長安の町に一緒に行くときには、悟空に好きなものをひとつ買い与えるのが習慣になっていた。
たいてい悟空が荷物を持つので、そのご褒美というわけだ。悟空はほっそりとした見かけからは想像もつかないほど力が強く、買出しの時にはかなり役に立つ。
好きなものを買ってやる、と言っても今回みたいにそれはほぼ食べ物だ。ただいつもなら饅頭とか肉まんとか腹にたまるものが選ばれる。そういう点から言うと、食べ物とはいえ飴をねだられるのは結構珍しかった。
「うーん。でもやっぱりあれが欲しい」
三蔵の言葉に少し考え、それから悟空はにっと笑って言った。
「わかった」
三蔵は飴屋に向かい、悟空が見ていた飴を指し示した。悟空は顔を輝かせて受け取るとすぐさま包み紙をはがし、口に入れた。
「あっまーい」
にこにこと幸せそうに笑う。そういう表情は拾ってきた頃から本当に変わらない。
なんとなく溜息をつきたいような気分になりつつ、三蔵はまた歩きだした。
「あれ、八戒と悟浄だ」
しばらく歩くと、悟空が人込みに目を向けて言った。三蔵が止める間もなくそちらに向かって走り出した。ぶんぶんと手を振る。
「八戒! 悟浄!」
「お久しぶりです」
「よう」
人込みのなかで、緑の目の青年と赤い髪の青年が悟空を出迎えた。
二人を見る悟空は嬉しそうだ。
金晴瞳を持つ妖怪として、寺院では悟空に対する風当たりがきつい。そんな冷ややかな視線に慣れていた悟空にとって、自分を普通に扱ってくれる八戒と悟浄は驚きだった。
そして、子供は可愛がってくれる人に懐く。悟空にとって二人は身構える必要のない相手であり、三蔵以外の特別な存在だった。
三蔵はそんな悟空の様子を見て、仕方なさげに楽しそうに話している三人に近付いていった。
「無視して行こうとしてただろ、三蔵サマ」
悟浄がニヤニヤと笑って三蔵に声をかけた。それに三蔵は思いっきり不機嫌そうな顔を向けた。その時、悟浄が抱えている包みから、小さな可愛らしい熊のぬいぐるみが顔を覗かせているのが目に映った。
「お前の趣味か?」
言われて悟浄は包みを見おろした。
「なわけねぇだろ。お返しよ、お返し。モテる男の義務ってやつ」
答えてから、三蔵が怪訝そうな顔をしているのに気付く。
「お前、今日が何の日かわかってないの?」
「悟浄。三蔵は一応お坊さんですし」
隣で八戒が微笑みを浮かべ、『一応』を強調するかのように言った。
「だけど、一般常識だろ。知らないってのは……」
悟浄はそう言いかけ、ふと悟空に視線を向けた。手にしている飴を見て、笑みを浮かべる。
「なんだ、してるじゃねぇの、お返し」
飴を舐めていた悟空の動きが止まった。それを見て、さらに悟浄の笑みが大きくなった。
「何貰ったの、三蔵サマ。まさかチョコレートじゃないだろ? 甘いもんは苦手だもんな。それともそこの猿からなら特別……」
「なわけないだろっ!」
顔を赤くして、悟空が叫んだ。思いのほか、大きな声だった。
一瞬、三人が動きを止め、悟空自身も自分の声にびっくりしたような顔になった。彷徨う視線が訝しげな三蔵の視線とぶつかった。
「あ……」
悟空は息を飲むと、そのままくるりと向きを変え、一目散に走り去って行った。
「え……と。何かマズイことでも言った……か、な?」
どことなく気まずい雰囲気の中、悟浄が呟いた。
「知るか」
三蔵が眉間に皺を寄せて答えた。
何だかよくわからないが、気分が良くない。悟空のあんな表情は初めて見た。傷ついたような、泣き出しそうな、苦しそうな。
いつもの子供のような表情とはまったく違った――。
「三蔵は、本当に今日が何の日か知らないんですか?」
静かに八戒が口を開いた。三蔵は何も言わず、問いかけるような視線を八戒に向けた。八戒は小さく溜息をついた。
「三月十四日。ホワイトデーですよ」
ホワイトデー。
いくら仏教徒で、最高僧で、建前上は俗世とは縁を切っているとはいえ、三蔵だってその習慣のことは知っていた。だが、それが何だと言うのだ?
「一か月くらい前に、悟空から何か貰いませんでした?」
「貰ったとしても覚えてねぇんじゃねーの? あの飴、お返しに買ったってわけじゃないんだろ?」
一瞬、三蔵の目がふっと見開かれた。それから、先程よりも深い皺が額に刻まれた。
「あ、三蔵」
八戒の声に答えることなく、三蔵は向きを変えるとその場を歩み去っていった。まるで八戒と悟浄の存在など最初からそこになかったかのように。
残った二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。
「さんぞー。コーヒー、飲む?」
そう言って悟空が執務室に顔を出したのは、言われてみれば一か月くらい前のことだった。
「あぁ」
と三蔵が短く返事をすると、コーヒーが目の前に置かれた。
書類に目を通しながらコーヒーを持ち上げ、そのまま一口飲んだ。
「……なんだ、これは?」
視線をあげるとじっと見ていたらしい悟空と目が合った。悟空は、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「さんぞ、疲れているみたいだからチョコレート入れてみたんだけど、美味しくなかった?」
途端に三蔵の眉が跳ね上がった。
「さっき味見したときは、割といけると思ったんだけど」
悟空は三蔵の手からカップをとりあげると、あっさりと言った。
「ごめん、淹れ直してくるよ」
三蔵は自室で煙草をくゆらしていた。
あれに意味があるとは今まで思っていなかった。というよりも、本当に意味があったかどうかもわからない。
日常のちょっとした出来事。
今日、飴を買ってやったことも、悟浄があんなことを言い出さなければ記憶にも残らずに終わってしまっただろう。
ふぅっと煙を吐き出す。溜息のように。
どのくらいそうしていただろう。
日が傾きかけ、辺りがオレンジ色に包まれる頃。控えめなノックの音がした。
答えずにいたら、微かに軋む音がして扉が開き、悟空が音も立てずに部屋の中に入ってきた。
悟空は無言で今日買ってきた荷物を三蔵の目の前に差し出した。三蔵も無言で床に置くようにあごで示す。悟空はそっと荷物を置いた。そしてそのまま三蔵の前から動かない。
「言いたいことがあるなら言え」
やがて三蔵が吸殻を灰皿に押し付けながら言った。
「ないなら消えろ」
その口調の冷たさに悟空は肩を震わせ、視線をさげた。
「……ごめん、三蔵」
しばらくして、悟空の口からしぼり出すような声がした。
「謝るようなことをしたのか?」
「俺が勝手に想像して喜んでいただけだけど、三蔵は気分が悪いだろ?」
「それをわかっててやっていたのか?」
三蔵の言葉に悟空は顔をあげた。
今にも泣き出しそうな顔。そんな表情は拾ってきてから何度も見てきた。だが、目の前の表情には今までにないものが混じっていた。
「三蔵がこういうの嫌いなのは知ってる。だけど……だけど」
一瞬、悟空は目を閉じ、それからまっすぐに三蔵を見つめた。美しい澄んだ金色の瞳。そして静かに告げた。
「好き、なんだ」
二人の間で、まるで凍りついたかのように時が止まった。
動きを止め、まるで初めて見る者同士のように互いを見つめる。
やがて短く息を吐き出し、先に視線をそらしたのは三蔵だった。のろのろと机の上の煙草をとりあげ、火をつける。ニ、三度、煙を吐き出してから言った。
「お前のそれは錯覚だ」
「違うっ!」
間髪も入れずに悟空が否定の言葉を返す。
「違わねぇよ。ここは特殊な環境だからな、そんな気になっただけだ。それに最初にあの岩牢から連れ出したのが俺だったからな。刷り込みみたいなものだろう」
「刷り込み?」
悟空が不思議そうな表情をした。
「雛が最初に見たものを親だと思って無条件に慕うことだ。お前のはそれと一緒だろ」
「そんなんじゃない」
「お前は知らないだけだ。この寺院の外には別の広い世界があることを」
悟空は何か言おうとしたが、唇が震えて上手く言葉にならなかった。唇を噛みしめる。金色の瞳から涙が溢れ出してきた。
その透明な雫は、この世で一番純粋なもののように見え、一瞬、三蔵は見とれた。
悟空は息を深く吸って、呼吸を整えた。
「三蔵が……なかったことにしたくても、この気持ちは……嘘じゃないから。絶対に、錯覚なんかじゃないから」
悟空は挑むように三蔵を見すえてそう言うと、バタバタと足音を立てて部屋から出て行った。
その後姿を見送り溜息をつくと、三蔵はほとんど吸っていない煙草を灰皿に押し付けた。
真剣な瞳。射抜くような美しい金晴瞳。
なんとも思っていないのならばこんなに悩むことはない。拒絶すればいいだけだ。
だが。
最初に拾ってきた時から、あの子供は他とはまるで違う存在だった。あまりに簡単に、自然に心の内に入り込んでくる。
この狭い特殊な環境で育ち、普通の男女関係など知らぬ子供。広い世界に出ればきっとその考えも変わるだろう。
手離せば良かったのだ。もっと早くに。こんなところで育つよりも、きっとその方が良かっただろう。
だが、手離せなかった。
いつだって置いていくなと泣くのは悟空だったが、その言葉を言い訳にして、ずっと手元に留めておいた。そばに繋ぎとめた。
そう望んだ。それは事実。
「そろそろもう限界だな……」
すっかり陽が落ち暗くなった部屋で、三蔵は呟いた。
ゆっくりと、だが確実に二人の間は変わり始めていた。知らないうちに忍び寄ってくる夕闇のように。
もうただの親子関係ではいられなくなっている。
その先にあるものが何なのか。
それはまだわからなかった。