花闇


 月明かりに照らされた桜は、苦手だった。あまりに美しすぎて心がざわめく。まるでこの世のものでないような気になる。
 遠い昔、これと同じ綺麗な桜を見たような気がする。封印された記憶のなかで。
 だから。
 見ていると落ち着かない。
 封印された記憶を取り戻したいわけではない。覚えていないことで、不自由だったことはないから。
 いつも、あの人がいたから。あの人のそばにいれればそれで良かったから。
 むしろ怖いのは、『今』を失うこと。
 あの人のそばにいれなくなること。
 三蔵……。
 ずっとそばにいたいのに。
 でも、なかったことにはできない――。



 夜の闇の中、ふと目が覚めた。このところ、久しく聞くことのなかった『声』を聞いて。
 最後にこの『声』を聞いたのはいつのことだろう。
 拾ってきたばかりの頃。よく夜中にこの『声』に起こされた。
 震えて、泣いていた。闇のなかにただ一人残されて、怖いのだと泣いていた。
 昼間の底抜けに明るい元気な姿からは想像もつかないほど儚げで胸が痛んだ。
 抱きしめてやるといつも泣きやんだ。
 そして安心したように眠りにつく。
 ずっと変わらない。
 そう思っていたかった。
 ずっと変わらずに後を追ってくるものだと。
 だが、それだけではいられないのだと、本当は知っていた。



 微かな風に乗って、目の前を花びらが舞い落ちていく。月明かりに照らされて、きらきらとまるでそれ自体が発光しているよう。
 桜。見渡す限りの桜。桜の木の上で、薄紅色の花に囲まれて、普段はあまり意識することのない香りが鼻腔をくすぐる。
「桜餅の匂いみてぇ」
 呟いて、笑った。
 こんなときにも食べ物の連想をする自分が可笑しくて。
 昼間の誕生パーティで食べたからかも。桜餅。三蔵はケーキは食べないでしょうからと言って八戒が持ってきた。
 毎年この日、八戒と悟浄がご馳走を持って押しかけてくる。二人と知り合った時からの習慣。誕生日は祝うものだと初めて知った。
 そして今年も二人はやってきて、三蔵も巻き込んでいつもと同じくパーティをした。
 いつもと同じ。何も変わらない。
 そう。
 三蔵は変わらなかった。
 好きだと告げたあの日以降も。
 そっと目の前の桜に手を伸ばす。少し冷たくて、柔らかな花の感触が指に伝わる。淡い薄紅色の桜は月の光を受けて白く輝き、まるで枝に降り積もった雪のように見える。
 大嫌いだった雪。
 それなのに、今、『雪』を連想しても怖くはない。こうやって触ることもできる。
 人は変わるのだ。
 大嫌いだった雪を見ても平気になるように。ずっと保護者のように思っていた人を違う『好き』で見るようになったように。
 出会ったときのままではいられない。
 この気持ちを押し隠したまま、そばにいることもできた。
 本当はそうしようと思っていた。
 告げないことがあの人のそばに留まっていられる唯一の術だと知っていたから。
 だって、こういう気持ちを向けられることを何よりも嫌悪していることはそばにいてよくわかっていたから。
 でも。
 言わずにはいられなくなった。
 ごまかすことはできなかった。嘘にすることはできなかった。
 そして、言ってしまえば、もう取り消すことはできない。
 なかったことにはできない。
 そう、この気持ちをなかったことにはできないのに。
 それなのに、どうして何もなかったかのような態度をとるの?
 拒絶されるのは怖かった。
 もう、そばにいられなくなるのも怖かった。
 だけど、なかったことにされるのは、全てを否定されること。
 だから。
 いっそのこと、壊してくれればいい。俺ごと、全部。
 それで終わりになるのだから。
 三蔵がそれをしてくれないのならば――。



 手を伸せば、そのまま閉じ込めることもできた。他のものは何も見ないように。
 抱き寄せて、包み込んで。
 だが、そんなことは、たぶん今でなくてもできた。
 泣いてすがりついてくるのに甘く囁いて、頼るものは他にいないのだと思わせて。
 そばに縛りつけておくことは、容易くできた。
 そして、たぶん無意識のうちにそうしていた。
 それが罪だと知りながら。
 強くて、純粋な心。閉じ込めるには眩しすぎる光。自由に、外の世界にいてこそ、輝くだろう。
 もう子供ではないのだ。自分の足で立てる強さがある。
 だからもう、そばに留めておくことはできない。そばに留めておく理由がない。
 なのに。
 泣くのだ。こうやって。
 やっと、自由を手に入れられるというのに。解放されるというのに。
 そのうえ、ここで手を離せばきっと存在自体を消そうとするだろう。
 その純粋さゆえに。全てか無か。その二つの選択肢しかないと思い込んでいる。
 そうではない、もっと自分を守る器用な生き方もあるのに。
 それを知らない。
 もっと早くに手離せば良かったのだ。そうすれば、きっとこんな風に泣くことはなかった。
 だから。
 だから、せめて離れていく自由は残しておくべきなのだ。



「悟空」
 名前を呼ばれて閉じていた目を開けた。
「三蔵、どうして……」
 見おろすと、三蔵がいた。
「お前が呼んだんだろう」
 当たり前のことのように言う三蔵。
 三蔵を呼ぶ『声』 
 あぁ。やっぱり呼んでいたんだと思う。
 呼ぶ『声』に応えてくれる三蔵。いつもならば一人ではないと安心する。だけど、今は――。
 だけど今は、こんなにも繋がっているのに、この気持ちが伝わらないことに悲しくなる。本当に心と心が繋がっているわけではないのだという事実を突きつけられているみたいだ。
 ただ呼ぶ『声』が聞こえるだけなのだ、と。
「降りて来い」
 三蔵の言葉に首を横に振った。
「だって、もうそばにはいられない」
 言葉にすると、もうそれが事実のように思えた。
 そして、その衝撃の大きさに言葉を失う。
 もうそばにはいられない。
 目の前が真っ暗になった。
「それはお前の意思か?」
 暗闇の彼方から三蔵の声がした。
「違うっ!」
 反射的に答える。まるで悲鳴のように響いた。
 そばにいたいよ。三蔵。ずっと、あなたのそばにいたい。
「でも、なかったことにするなんてできない。できないから……」
 溢れ出した想いは、もう止められない。もう留める術を知らない。
 ふっと三蔵が溜息をついた。それから短く告げた。
「好きにしろ」
 あぁ。
 これで終わり。
 終わりなんだと思った。この人のそばにいられないなら、もう意味はない。
 もう『俺』に、意味などはない。
「悟空」
 突然、力強い声がした。その声がした方に無意識のうちに目を向けた。そこにあるのは強い光を湛えた紫暗の瞳。
「ちゃんと聞け。今までに何度も言っているだろう。好きにしろ。行くも留まるもお前の自由だと」
 行くも、留まるも……。留まる……? それは……。
「……そばにいても、いいということ?」
 声が震える。
「だから、お前の好きにしろと言っている」
「でも、三蔵は嫌じゃないの? だって、俺は……」
「他のヤツなら、速攻追い出してる。だがお前は……」
 三蔵はそこで言葉を切った。何か探すかのように。だが、いくら待ってもその先の言葉はなかった。だから言った。
「でも、俺を好きというわけじゃないんでしょう?」
 質問というよりは、確認。
 それで自分を好きだと思ってくれていると思うほどうぬぼれてはいないから。
「お前のそれは思い違いだ。あのときも言ったが」
「違うよ。絶対に違う。どうしたら信じてくれる?」
「お前が広い世界を知って、それでもそうだというなら、そのときに考えてやるよ」
 広い世界。
 三蔵は寺院を狭い世界だと言っていた。広い世界。それは寺院の外の世界。
「それは出て行けということ?」
 その言葉に三蔵は呆れたような表情を浮かべた。
「お前、学習能力があるのか? 俺がさっきから何て言ってる? 好きにしろと言っているだろうが」
 三蔵からは『出て行け』とは言わないということ?
 でも、本当は出て行って欲しいの?
 もう、わからなくなってきた。今まで、こんなことはなかったのに。
 三蔵がして欲しいことは何? 本当はもう俺なんかいらないんじゃないの?
 と、三蔵が深い溜息をついたのが聞こえてきた。
 三蔵を見つめる。
 どうして欲しいのか、言って。
「来い」
 三蔵が一言、力強く言った。



「三蔵っ!」
 身を投げ出すように悟空が木から飛び降りてきた。まっすぐにこちらに向けて。
 ザッと花びらが音をたてて舞い散る。
 まるで桜の花びらを従えるように空から降りてくる少年。その姿は、目を見張るほど美しかった。
 受け止めようとして、そのまま勢いで地面に倒れこんだ。
「……アブねぇだろうが」
 地面に座り込み、抱きとめたまま囁く。
 悟空が顔をあげた。それに言葉をかける。
「少しは悩むことも知れ。思い通りにならない感情を持ったまま、いつも通り笑ってそばにいろ」
「三蔵……」
 悟空の顔が歪み、涙が溢れてきた。
 そっと、引き寄せた。あやすように頭を撫でてやる。
 いつものように。
 いつもよりも優しく。
 これもまた、自分のそばに縛りつける行為なのだろう。
 だが、あんな表情は見ていられなかった。このまま目の前から消えてしまうのではないかと怖くなった。
 だから声をかけた。
 来い、と。
 そばにいろ、と。
「行くも留まるもお前の自由だ。それだけは忘れるな」
 低く囁いて、空を見上げた。
 月明かりに照らされた満開の桜。
 闇に浮かぶ美しい花。
 迷う心を見透かすように、ただ美しく咲いてそこにあった。