霞月


 なるべく音を立てないようにドアを開いた。
 たぶん、もう寝ているだろうと思ったから。そして、足音を忍ばせて部屋のなかに入っていったが、必要なかった。明かりを落とした部屋の中、三蔵は法衣を上だけ脱ぎ、ベッドに片膝を立てて座っていた。
 微かな月明かりが差し込んでいる。雲に霞む月は、柔らかな、というよりは頼りなげな光を投げかけていた。
 月明かりに照らされた三蔵を見るのは好きだ。昼間とは違って、とても優しい感じがする。
 でも、今日は胸が痛んだ。
「寝てなきゃ駄目じゃん」
 ベッドに近付いていく。薄暗いなかでも顔色が悪いのはわかった。当たり前だ。六道に刺されたのはつい一昨日だ。八戒が傷を塞いだとはいえ、昨日また戦って、今日は一日ジープに揺られていた。本当ならまだベッドの上で絶対安静だ。
 だから、今日中に町につけて良かった。二、三日はここで過ごそうと八戒が言ってた。先に進むと言う三蔵をいつもの笑顔で黙らせて。八戒がいてくれて良かった。こんな状態で三蔵に旅を続けさせることはできない。もっとも三蔵もさすがに足手まといになるだけだと思ったのか、結構簡単に引き下がった。
 夕飯を食べ終わると早々に、三蔵は二つ押さえた部屋の一方にと引きあげてしまった。別に部屋割りなどどうでもいいとでもいうように何も告げずに。本当ならば、八戒が三蔵と一緒の部屋になるべきなんだろうけど、頼んで三蔵と同室にしてもらった。
 心配だったから。
 本当は、こんな心配なんて余計なことだとわかっている。
 三蔵がそういうのを嫌うことも。
 でも――。
 それでも、あんまり煩く付き纏えば、結局、三蔵を疲れさせるだけだと思って、三蔵がゆっくりできるように、夕食後は八戒達の部屋で過ごした。
 そして、夜も更けた頃、二人に『おやすみなさい』を告げて引き上げてきた。
「三蔵……」
 呼びかけると、どこを見るともなくぼんやりと宙を見ていた紫暗の瞳がこちらを見た。
 その瞳はひどく儚げで、いつもの鋭さは影を潜めていた。
 また胸が痛んだ。
「もう寝なよ」
 そう言って、両手を伸ばした。三蔵の肩を押して、強引にベッドに寝かせようと思っていたのに、途中で手を掴まれた。そのまま引き寄せられる。
「さん……ぞ……?」
「黙ってろ」
 胸元で低い囁き声がする。
 三蔵が額を俺の胸に押し当ててきた。金色の柔らかそうな髪の毛がすぐ目の下にある。
「三蔵……」
 なんだか胸がいっぱいになって、そっと三蔵の背中に片手をまわし、それからもう片方の手で三蔵の頭をゆっくりと優しく撫でた。
 怖い夢を見たときに、いつも三蔵がしてくれるみたいに。
 こうしてもらうと凄く安心する。三蔵もあんな風に安らいだ気持ちになってくれるといいのだけど。少しでも傷ついた心が休まるといいのだけど。
 自分勝手なことばっかり言って、他人なんか知ったこっちゃないって態度をしてるけど、でも、自分が認めた人には優しいのを知っている。
 だから、六道のことも自分の手で終わらせてあげた。
 六道は、きっと満足だったと思う。最期に三蔵に会えて、その手で幕を降ろしてもらえて。それは幸せなことと言ってもいいかもしれない。
 でも、辛かったよね、三蔵。
 俺はそんな想いはさせたくない。絶対にさせたくない。だから、強くなる。そう決めた。
「大丈夫だよ、三蔵。大丈夫だから」
 俺は大丈夫。絶対、死なない。三蔵の前では死なない。
 大丈夫と繰り返し囁いていたら、胸元でクスリと笑う声がした。
「何が大丈夫なんだか」
「……よくわかんねぇけど、大丈夫」
 ちょっと考えて説明しようと思ったが、うまく言葉に言い表せなくてそう答える。すると、三蔵が顔をあげた。微かな笑みが口元に浮かんでいる。
 少し、いつもの三蔵に戻っていた。
 安堵する。
「意味、わかんねぇよ。お前、やっぱりバカだな」
 なんだよ、それ。
 ムッとして言い返そうとしたら、腕を掴まれ、さっきより強く引かれた。勢いで三蔵の方に倒れこんでしまう。どこをどうしたのかわからないが、いつの間にかベッドに仰向けに寝ていた。目の前に三蔵の綺麗な顔がある。
 もうずっと一緒に過ごしてきて、見慣れているはずの三蔵の顔。でも、見るたびに思う。凄く綺麗だって。
 見とれていたら、優しく頬を撫でられた。それから、三蔵の顔が近付いてきた。近付いて、あまりに近すぎてもう見えなくなるくらいまで近付いてきて、そして、唇が塞がれた。
 一瞬、頭の中が白くなる。これは何だろう。確かめる前に感触は離れていく。
 そしてまた、三蔵の顔が見えるようになった。なんだが今までに見たことがないような表情を浮かべている。そう思った途端、また三蔵の顔が近付いてきた。
 唇に触れる感触。何度も、何度も。それは、三蔵の唇。
 柔らかくて、暖かくて、そして、そして――。
 何だろう。何だが、ふわふわする。ぼぉっとなってくる。それは決して嫌な感じじゃなくて……。というか、むしろ――。
「んっ!」
 下唇をついばまれた。思わず声があがる。でも……。
 今の、何?
 俺の声? こんな声、知らない。こんな声を俺が?
 びっくりして、一瞬、頭の中がはっきりしたが、でもすぐにまた三蔵の唇がおりてきて、何もわからなくなる。
「さん……ぞ……んっ……」
 息があがってくる。苦しくなる。なんで? 何もしてないのに。三蔵の唇が触れてきているだけなのに。
 何度も、何度も、触れてくる唇。唇のいろんなところに。触れたり、ついばんだり、かすめるだけだったり。長かったり、短かったり。何度も。何度も。
 体中が甘く痺れる。このまま溶けてしまいそうだ。
「さんぞ……さん……」
 熱にうかされたように三蔵の名前を呼ぶ。
 身の内に渦巻く熱。
 その初めての感覚に怖くなる。どうにかなってしまいそうで、怖くなる。
「悟空……」
 耳元で三蔵の声がした。気がつくと、腕の中に抱きしめられていた。
「泣くな」
 そう言われて、自分が泣いていることを初めて認識する。なんだが、感覚とか感情とかいろんなものがバラバラになってしまったような気がする。
 柔らく抱きしめられ、ゆっくりと優しく頭を撫でられる。さっきと逆。
 そうされていると、自分が戻ってくるような気がして、ほぅっとため息をついた。と、耳にまた三蔵の声が響いた。
「悪かった」
 その言葉を聞いた途端、体が強張った。一瞬で心が凍る。
「な……で…・・・謝る……?」
 声が震えて上手くしゃべれない。
 謝るということは、後悔しているということで。
 後悔しているということは、さっきのをなかったことにしたいということ。
 それは。
 それは、とても悲しい。
 そう思っていたら、目尻に三蔵の唇が触れてきた。
 涙。
 三蔵が唇で涙を受け止めていた。
「泣く程、嫌なのかと思ったんだが」
 三蔵に言われて、ふるふると首を振る。
 嫌だったんじゃない。全然、嫌じゃなかった。
 ただ、怖くなった。何だかよくわからない初めての未知に感覚に。
 三蔵の手が包み込むように頬に添えられた。唇がまぶたに触れてきた。両方のまぶたに軽く触れ、頬に触れ、それからまた唇に触れた。柔らかく、何度も。
 こうして唇に触れてもらうのは好きだ。
 そう思った。
 もう、怖くはない。ただ、ふわふわと心地良い。
 抱きしめられて、頭を撫でてもらうのと一緒。
 ううん。それよりももっと気持ちいい。
 やがて唇が離れていき、それからまた抱きしめられた。
 そのまま、三蔵は何も言わない。
「三蔵……?」
 見上げると、目を閉じていた。
「ここにいろ」
 言われて、さらに強く抱きしめられる。腕の中に閉じ込められる。
「ん……」
 頷いてその胸に顔を埋めた。
 どうかこの人に安らかな眠りが訪れますように。
 祈るように思った。