恋人達の…


 初夏にしては強い日差し。
 だが、川を渡ってくる風は涼気を含み、心地良く肌を撫でていく。
 向こう岸が遥か遠くに見える、というほどの川ではないが、それでもかなり大きな川。
 さらさらと流れる水は澄み、きらきらと陽の光を反射していた。
 川の縁にしゃがみこんだ悟空が、光の欠片を掬いあげるように、ハンカチを水に浸して取りあげた。それから身を翻し、少し離れた木陰へと走り出す。
「ジープの具合はどう?」
 駆け寄った先、八戒の腕に抱かれている白い竜を覗き込むようにして言う。
「暑いなか、ずっと走り通しでしたからね」
 軽く撫でる八戒の手に、きゅう、と小さな声が返ってきた。
「これ」
 先ほどのハンカチをジープの頭に乗せてやる。
「ありがとうございます。悟空は気がききますね」
 にっこりと八戒が笑い、その腕の中のジープも一声鳴いて、感謝するかのように円らな瞳を悟空の方に向けた。
「とりあえずここで少し休んで、それからもうちょっと行ったところにある町に今日は泊まることにしましたから」
「うん。あれ、三蔵は?」
「あっち」
 八戒の隣に立っていた悟浄が、小高い丘を指し示す。木に影に、新聞を広げて座っている姿があった。
 さわさわと枝を揺すって、風が吹き抜けていく。気持ちの良い風は、三蔵が座っているところにも届いているようだ。
 だが。
「水辺の方がもっと涼しいと思うけどなぁ」
「お前が煩く騒ぐからだろう」
「む。どういう意味だよ、それ」
 喧嘩を売る気なら買うぞ。
 そんな意気込みがありありの様子で、両手をグーにして、悟空が悟浄に食ってかかる。
「事実だろーが。どうせ川ではしゃぎまわるつもりだったんだろ。第一、今もうっせぇし」
 ちらりと悟浄がジープの方に視線を送る。
 それで、ジープが具合悪かったことに気づき、悟空は慌てて口を押さえた。
「そこまで気を使わなくても、大丈夫ですよ。ね」
 八戒の言葉に、きゅう、とジープが答える。
「とりあえず少しここで休みますんで、遊びたいなら遊んでらっしゃい」
「やりぃ」
 悪戯っ子のような表情を見せ、悟空は指を鳴らす。
「おい、悟浄。泳ぎっこで競争しようぜ」
「あぁ? 何で俺がそんなこと」
「まさか、悟浄、河童のクセに泳げねぇの?」
「河童じゃねぇっ! だいたい、お前こそ、泳げんのかよ」
「俺、泳ぎは得意だよ。特訓したから」
「特訓?」
 問いただす間もなく、悟空は川に向かって駆け出していった。
「……ったく」
 ため息をついて、頭をかきながら、悟浄はゆるゆるとその後を追った。



□ ■ □



「ここも、結構気持ちいい風がくるね」
 丘を登りきったところで、悟空はそう言うと、コロンと地面に寝転がった。
「……おい」
 と、上から、常よりも低い声が降ってきた。
「何?」
 見上げると、苦虫を噛み潰したような顔。
「何じゃねぇよ。どけ」
「やだ」
 一言で返すと、悟空は横を向いて丸まった。
 退かないという意思を顕示するかのように、法衣をぎゅっと掴み、頬を押し当てる。
 そうしながらも、泳ぎ疲れて少し重い体を撫でていく爽やかな風に、眠りへと誘われる。しかも、三蔵の膝枕ときては。
「こら、寝んな。重いだろうが」
 ペシペシと、新聞を丸めたもので叩かれる。が、ハリセンほどの威力はない。
「重くないもん……」
 言いつつ、瞼が落ちかけている。
「重い。どけ」 
「や」
 眠いせいか、幼子がだだを捏ねるような声が出る。
 と、悟空の耳に、三蔵がため息をついたのが聞こえてきた。
 諦めたのかと思い、悟空が満足げな笑みを浮かべたその直後。
 横を向いていた顔が、三蔵の手によって強引に上を向かされた。
 何? と思って、開いた目に映るのは。
 間近に迫った三蔵の顔。
「さん……」
 呼ぼうとした名前は、塞がれた唇の中に消える。
「な……」
 唇はすぐに離れていったが、不意打ちをくらった悟空は目を見開いたまま、言葉もでない。
「まだ退かないか?」
 笑いを含んだ声に、やっと我に返り、悟空はむっとした表情を浮かべた。
「退かないもん」
「そうか」
 どこか楽しげに三蔵は言い、掬うようにして悟空の上半身を抱き上げると、もう一度、唇を重ねた。
 今度は深く。
 驚いて、逃げ出そうとする悟空をしっかりと押さえつけたまま、貪るように唇を奪い取る。
「ふ……ぅん」
 角度を変えて、何度も繰り返していたキスは、ようやく唇から先に離れて終わるが、名残惜しげに舌は触れ合ったまま。やがて、それも離れると、悟空は三蔵の方に倒れこんでいった。
「……もぅ。下から見えるじゃんか」
 悟浄と八戒が丘の下にいるはずだ。
「だから?」
「だからって……」
 たぶん、自分達の関係を、悟浄も八戒も知っているとは思うが、面と向かって見せたことはない。見せたところで、どうなるというわけでもないのはわかっているが。
「ま、いっか。今日、七夕だし……」
「なんだ、それ」
 三蔵が言いながら、楽なように悟空を抱きかかえ直す。
 その仕草に、もっと甘えてもいいんだとわかり、悟空は幸せそうな笑みを浮かべると、すりっと三蔵に擦り寄った。
「だって、1年に1度恋人達が会える日だから。ちょっとくらい、くっついてても勘弁してもらえるかな、って」
「それとこれは全然違うと思うが」
「いーじゃん。そういうことにしとこ」
 強引に結論づける悟空に、三蔵が苦笑じみた笑みを微かに漏らした。
 そして、しばらく、どちらも何も言わず、穏やかな抱擁に身を任せる。
「……ね、三蔵。今日はこのまま晴れてるよな」
 が、不意に悟空が顔をあげた。
 大きな金色の目が三蔵を見上げる。
「たぶんな」
 そう三蔵が答えると、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「よかった。じゃ、今夜はちゃんと会えるな」
 空の二人のことだと、言われなくてもわかった。
「泳がなくてすむね」
 だが、そう続けられて、三蔵は少し訝しげな表情を浮かべる。
「三蔵が言ったんじゃん。雨の日に会えないなんて可哀想だって言ったら、泳ぐくらいの根性がなきゃダメだって」
 そんな三蔵の表情を見て、なんで忘れてるの、と責めるように、悟空が捲くし立てる。
 それで、思い出した。
 まだ寺院にいた頃。
 七夕の日に雨が降って、悟空が大泣きをしたことを。
 1年に1回しか会えないのに、可哀想だと言って。
 あまりに煩かったので、お前ならどうする? と聞いた。
 会いたい人が川の向こう岸にいて、橋がなかった場合、お前ならどうする? と。
 泳ぐ。
 期待していた通りの簡潔な答えが返ってきた。
 流れが速くても? 増水していても?
 泳ぐ。ぜったい、泳いでく。だって、三蔵と会えないのは嫌だ。
 そう言ってしがみついてきた。
「それで、俺、泳ぎの特訓したんだからな。例え三蔵と別れても、ちゃんと会えるようにって」
 そこで、クスリと悟空は笑う。
「でも、川に阻まれて三蔵に会えないって、結構特殊なパターンだよなって、あとでよくよく考えて思った」
 それから、もう一度、三蔵の方に擦り寄る。
「それに、そもそも離れてなんかやらないもん」
「そうだな」
 珍しく三蔵がそんな風に答えてくれる。それに、背中に回っていた手に力が入るのがわかった。
 悟空は花のような笑みを浮かべて、呟いた。
「大好き」

 今夜は七夕。
 1年に1度、離れ離れになっていた恋人達が会える日。

 恋人達の日――。