約束


 ふんわりと丸く花をつけた八重の桜。
 目の前にあるそのひとつを悟空は軽くつついてみた。
「なんだかうまそう」
 そんなことを呟くと、まるで答えるかのように柔らかい風が吹いて、桜の花が揺れた。
「うそだよ、食べないから」
 クスクスと笑って悟空はそういうと、くん、と花の香をかぐ。
 なんとなく美味しそうな匂いがするのは、この間、三蔵がくれた「桜餅」ってのに、香が似ているかもしれない。
 そんなことを考える。
 そしてなんとなしに周囲を見回し、悟空は満足そうな吐息をひとつついた。
 右も左も、上も下も、見渡す限り桜の花。
 淡い紅の色と濃い緑色。鮮やかな色あいが周囲をとりまく。
 華やかな花が満開の八重桜の木の上に悟空はいた。
 花と葉がちょうどよく茂り、地上からはその姿を隠してくれている。
 岩牢から出してもらって、三蔵のもとに留まることが決まって、数日がたっていた。
 この身を戒めていた鎖はない。もう隠れる必要はない。
 自由に外を歩きまわれる。
 そう思っていたのだが。
 たった数日。
 それだけで、その考えは間違っていたことを思い知らされた。
 歩きまわるたびに追いかけてくる目。なのに、振り返ると誰もが目をそらす。
 そして耳に聞こえてくる囁き声。なにを言っているのか、言葉の意味がいまひとつわからないが、よくないことを言われているのは口調からわかる。
「気にするな、って三蔵はいうけれど」
 思わず悟空は呟き、さきほどとはまた違ったため息をついた。
 別に気にしているわけではない。どうでもいいことだ、とも思う。
 あの金色の光があれば、あとのことはどうでもいい。
 だけど、なんとなくうっとうしいと思うのは仕方のないことで。そして、たぶんそれは双方にとって、そうであって。
 だから、少しくらい嫌な視線や嫌な声がないところに避難しても、別にいいんじゃないかと思う。互いのためにも。
 そう思いつつも、もう一度ため息が出そうになったところ。
 突然、金色の気配が飛び込んできた。
「三蔵」
 悟空は、枝をかきわけて地上を見下ろした。
 予想に違わず、桜の木の下を、ちょうど三蔵が通るところだった。
 声もかけずに飛び降りて驚かせてやろうかと考え、身を乗り出すが。
「三蔵さま」
 聞こえてきた声に悟空の動きは止まった。
 三蔵に走り寄ってきた小坊主の姿が、視界に入ってくる。
「三仏神さまから火急のお使者が来ています」
 丁寧に頭をさげてから、小坊主が言った。
 上から見ていても、三蔵が舌打ちしそうな表情を浮かべたのがわかった。だが、何も言わず、三蔵は寺院の方にと引き返していく。
「三蔵さま、肩に桜の花びらが……」
 と、もう一度一礼をして、三蔵を先に通そうとした小坊主が、ふと気づいたように手をのばした。だが、その手が触れる前に、三蔵は自分で桜の花びらを払い落とした。
「……失礼しました」
 小坊主はあげていた手を下ろすと、深々と頭をさげた。そして三蔵のあとをついて、歩きだす。
 あれ?
 と、悟空は思った。
 先ほどのふたりのやりとりを見て、なんだかひっかかりを感じたのだ。だが、それが何なのかはよくわからない。
 だんだんと遠くなる三蔵の後姿を、悟空はじっと見つめていた。





 そして、その日の夕方。
 悟空が三蔵の私室に行くと、灯りが消えていた。
「さんぞ?」
 部屋の中を見回す。だが、三蔵の姿はどこにもない。悟空はしばし呆然と部屋の真ん中で立ちつくした。
「三蔵さまは三仏神さまのご用事で出かけられました」
 戸口で声がした。振り向くと、昼間、三蔵を呼びにきた小坊主が立っていた。
「三蔵さまがいらっしゃらないときは、この部屋には入らないようにしてください。ここは私室なのですから、部屋の主がいないときに黙って入って良い場所ではありません。お食事はあなたの部屋の前に置いておきましたので」
 小坊主は冷ややかにそう言うと、戸口から一歩退いた。悟空が出てくるのを待つかのように。
「三蔵は、どこに行ったの?」
 悟空は戸口に向かいつつ尋ねた。
「斜陽殿です。三仏神さまのご用事と言ったでしょう」
「いつ帰ってくる?」
「さぁ」
 その言葉に悟空は目を見開いた。
「いつ帰ってくるか、わからない?」
「三仏神さまからのご依頼の内容にもよります。わたくしには見当もつきません。さあ、早くしてください。あなたとは違って、わたくしには他にしなくてはいけないことがあるのですから」
 小坊主に急かされて、悟空は三蔵の私室から出た。最後にもう一度振り返っている最中に、音をたてて扉は閉められた。





 夜の闇の中、悟空は寝台の上で膝を抱えていた。
 一度は眠ろうと横になってみた。だが、眠れなかった。目を閉じていると、夜の闇が押し寄せてくるような気がした。
 いつもならばそんなことはなかった。
 三蔵と夕飯を一緒に食べて、風呂に入って、寝るまでの時間を三蔵の私室で過ごす。そしてお休みなさいを言ってから自分の寝台に潜り込む。目を閉じて、次に目を開けるといつももう朝になっていた。
 だが、今日は目を閉じても眠りは訪れなかった。
 三蔵と会う前はどうやって眠っていたのだろう。
 あの岩牢で。そして、寺院にいていいと言われるまでいたあの小屋のなかで。
 考えるまでもなく、眠りは自然に訪れていたのだが。
 三蔵と会ったことで、なにかが決定的に変わってしまったのだろうか。
 以前なら、こんな風に闇を意識することもなかったのに。
 いつでも闇はそばにあった。
 だから、光に憧れ続け――。
 そして手に入ったからだろうか。
 怖くなった。
 闇が。
 闇のなかに戻ることが。
「さんぞ……」
 自分が知っている唯一の光。
 悟空は小さく呟くと、寝台から降りた。春とはいえ、まだまだ夜は寒い。ひんやりとした床の感触が素足に伝わってきた。
 裸足のまま毛布を掴んで廊下を歩いていく。寺院の廊下は、夜になると灯りが消されるので、真っ暗だ。悟空は寒さのためばかりではなく、少し震えながら三蔵の私室を目指した。
 キィ。
 微かな音をたてて扉が開く。月明かりが差し込む部屋。だが、やはり三蔵の姿はなかった。
「さんぞ」
 悟空は呟き、そのまま部屋を横切って寝室に向かった。そして、寝台によじ登る。
 三蔵の匂いがする。
 悟空は安心したようにほっと息をつくと、横になって手足を丸めると目を閉じた。





「何をしているのですか、あなたはっ!」
 朝の光のなか、いきなり大きな声で悟空は起こされた。
 目をしばたいて、辺りを見回す。昨日の小坊主が寝台の脇にいた。
「部屋にいないと思ったら、こんなところで。昨日、三蔵さまの私室には入るなと言っておいたでしょう」
 悟空はキョトンとした表情で、小坊主を見た。怒られている意味がよくわからなかった。確かに昨日もここには入るなといわれたが、三蔵に追い返されたことは一度もなかったのだ。
 だから、当然のようにここは自分がいて良い場所だと思っていた。
 他の場所とは違って。
 いつも嫌な視線や、嫌な声がある場所とは違って。
「何をしている」
 と、戸口から低い声が響いた。
「さんぞっ!」
 悟空はぱっと顔を輝かせると、寝台から飛び降りて、そちらに向かって走り出そうとした。が、その腕を小坊主が掴んで止めた。
 びっくりして振り返ると、怒りに少し青ざめている小坊主の顔が目に入った。
「お帰りなさいませ、三蔵さま」
 すぐに表情を消し、小坊主は悟空の腕を掴んだまま、頭をさげて言った。
「あぁ」
 三蔵は、面倒臭げに答えると、まっすぐに寝室に向かってきた。
 無愛想なのはいつもの通りだが、とても疲れたような様子をしている。
 悟空は少し眉根を寄せた。
「三蔵さま、申し訳ありません。少しお待ちいただけますか? 昨日、悟空がそちらの寝台で寝たようなので、いますぐシーツを換えますから」
 小坊主の言葉に三蔵は悟空の方を見た。少し考えるような間があってから、三蔵が口を開いた。
「いや、いい。疲れたからこのまま寝る。誰もこの部屋に近づけさせるな」
 その言葉に小坊主が驚いたように目を見開いた。なにかいいかけ、だが、口をつぐむ。
「さんぞ」
 その間をつくように、悟空が口を開く。だが。
「猿。俺は疲れている。後にしろ」
 それを制するように三蔵が言った。
「うん。わかった」
 とりあえず三蔵の顔が見れたからいいや。
 そう思って、悟空は素直に頷いた。三蔵はそのまま寝室に入っていく。
 その姿を見守っていたところ。
 掴まれたままだった腕を引っ張られた。ほとんど引きずられるようにして、三蔵の私室を後にする。
 もちろん、この程度であれば、掴まれた腕など簡単にはずせた。だが、なんだかひどく怒っているような小坊主の横顔をみているうちに、そのタイミングを逸してしまった。
 廊下に出ると小坊主は悟空の手を離した。
「あなたは昨日、言っていたことを聞いていなかったのですか? 三蔵さまがいらっしゃらないときはこの部屋に入るなと言っておいたでしょう。それなのに、よりにもよって三蔵さまの寝台で眠るとは。三蔵さまは人に触れられるのがお嫌いなんですよ。今日は本当にお疲れになっていたから仕方なくでしょうけど、本当でしたら、他人の使った寝台などお使いになりません」
 一気に捲くし立てられ、悟空はびっくりしたような顔になった。
 だが『人に触れられるのが嫌い』という言葉に、昨日のひっかかりの正体がわかったような気がした。
 昨日、三蔵はさりげなく身をひいて、小坊主の手を避けていたのだ。
「とにかく、もう二度とこんなことはしないでください。三蔵さまだって、お嫌でしょうから」
「三蔵が嫌がる? 部屋に入るのも、三蔵の寝台で寝るのも?」
「三蔵さまでなくても、それは普通の人ならそう思うものです」
「そう……」
 小坊主の言葉に悟空は俯いた。





 控えめなノックの音がして、三蔵は目を覚ました。
 朝に帰ってきて、寝台に潜りこんでからそんなに時間はたっていないようだ。昼を少しすぎたくらいだろうか。
 思わず舌打ちしたくなるが、深く眠ったのか、不思議と疲れはとれていた。
 眠りが浅い自分にしては不思議なことだと思う。
 そういえば、直前まで猿が寝ていたといっていた。それで寝台が暖まっていたからか?
 そんなことを考える。
 春とはいえ、三仏神の命で夜通し歩き通していたのだ。
 体の芯から冷え切っていたはずだが。
「三蔵さま」
 つらつらと物思いに沈んでいたところ、外から遠慮がちに声がかけらえた。
 いつまでも応えがなかったので、心配したのだろう。
「いま行く」
 そう答えながら、起き上がる。
 どうせろくなことではないだろう、と思いながら。
 そして、その悪い予感ほどあたるもので、またもや三仏神からの使いとのことで、三蔵は簡単に身支度を整えると寺院を後にした。





 夕刻になり、それでも早めに寺院に戻ってきた悟空は、私室を覗いてまた三蔵がいないのに気付いた。執務室にも足を伸ばしてみたが、その姿は見えない。
 昼にこっそりと様子を窺いにきたときには、三蔵はまだ寝室で眠っていた。疲れているのだろうと思って、一人で大人しく昼食を食べた。その後、どこに行ったのだろう。
 私室の前の廊下で、それでもじっと待っていると、小坊主がやってきた。
「三蔵さまなら、またお出かけになられました。あまり手間は……」
 言葉の途中で悟空は外に向かって走り出した。
 走って走って、広い寺院の敷地を一気に抜けて、門にと辿りつく。
「三蔵っ!」
 声を張り上げて呼ぶ。だが、返ってくる答えはない。
「さんぞ……」
 夕闇迫るなか、悟空はただ一人、途方にくれた顔で立ちつくしていた。





 ふと、三蔵は顔をあげた。
 どこからともなく呼び声が聞こえたような気がした。
「どうかしましたか?」
 目の前の老僧が、木箱の蓋を閉めかけたままで聞いてくる。
「いや、なんでもない」
 答えると、安心したように老僧は作業を再開した。
 それを見ながらも、三蔵は違うことを考えていた。
 頭のなかに響く聲は、先日、拾う気がなかったのに拾ってきてしまった子供の声だ。
 出会う前からずっと聞こえていた聲。
 それは、あの岩牢から出して欲しいという訴えだと思っていた。だが、岩牢から出られてもう自由になったはずなのに、まだ聞こえてくるとは。
 一度だけ、三仏神のもとに呼び出されたときに、この聲を聞いた。
 あのときのように子供を追い詰めることを、寺院の連中はもうしないはずなのだが。
 あの強大な力。
 それを目の当たりにしたからには。
 だが。
 ――また、置いてかれたんじゃって思った。
 不意打ちのように、三蔵の目の前にそのときのことが浮かんだ。
 あのとき、あの子供はそう言ったのだ。
 泣きながら。
「三蔵さま?」
 驚いたような声をあげる老僧を無視して、三蔵はその場をあとにした。




 
 血。
 赤い血。
 白い衣を赤く染める血。
 消えていく光。大好きな金色の光が消えていく。
「!」
 悟空は、自分の寝台の上で飛び起きた。
 耳障りな音が聞こえる。しばらくして、それが自分の呼吸音だとわかった。
 辺りを見回す。暗い闇しか見えない。
 ――誰もいない。
 悟空は声にならない悲鳴をあげた。





 三蔵が寺院に戻ったのは、真夜中を過ぎたころだった。
 胸のあたりがひどくざわついていた。
 だが、この間のように騒ぎが起こっている様子はない。
 それでも足早に、ほとんど走るようにして、三蔵は悟空の部屋にとまっすぐ向かった。
 扉を開けると、寝台にうえに小さな姿が見えた。
 ほっとしたのもつかの間、すぐに様子が変だと気づく。
「おい、猿」
 声をかけてみるが、答えがない。
「悟空」
 近寄ってみるが、その体はピクリとも動かない。
 まるで、呼吸をすることさえ、忘れてしまったかのような――。
「悟空っ」
 三蔵は、冷たい手に心臓を掴まれたような錯覚をおぼえた。





「――おい、悟空っ!」
 誰かが自分の名前を呼んでいた。体を揺さぶられ、頬を軽く叩かれて。
「聞こえないのか、悟空!」
 ふっと、悟空の意識が浮上した。
「……さ……んぞ?」
 目の前に、心配そうな表情を浮かべた三蔵の顔があった。それを認め、悟空は三蔵にと手を伸ばした。が、その手は途中で止まる。
 三蔵は人に触られるのが嫌い。
 その言葉が頭をよぎって。
 悟空はそのまま、自分自身を抱きしめるように腕を回すと俯いた。
 寒いわけでもないのに、ガタガタと震えが走ってとまらない。パタパタと涙が頬を伝って落ちてきた。
「どうした?」
 先程の呼んでも反応しない状態からようやく脱したものの、震えて泣く悟空に、三蔵は普段からは想像もつかないほど優しく問いかけた。
 別に意識してそうしたわけではない。自然とそうなったのだ。
 悟空は首を横に振った。
「わ……わかんない……でも、コワイ……」
 か細い、頼りなげな声がそう告げる。
「誰もいなくて――。俺、一人で。皆、いなくなって、俺だけが――」
 ぎゅっと自分自身を抱きしめて、手足を丸めて小さくなる。
 その様子は酷く儚げで、三蔵は胸をつかれた。
 この子供は五百年間、ずっと一人であの岩牢のなかに幽閉されていたのだ。
 気の遠くなるような時間をずっと一人で過ごしてきたのだ。
 それを、また一人にした。
 こんな誰も頼る者のないところで。
 三蔵は無意識のうちに手を伸ばすと、悟空を引き寄せた。
「さんぞ……?」
 腕の中で驚いたような声がした。が、驚いたのは三蔵も一緒だった。自分から他人を抱きしめようとするなんて。
 我に返って戸惑い、どうしようかとでもいうように、華奢な背に回した自分の手を見ていたところ、微かに悟空の背中が震えているのに気づいた。
 ポンポンと、軽く、あやすように背中を叩いてやる。
 すると、くぐもったような声がきこえ、やがて、悟空が声をあげて泣き出した。
「さんぞう、さんぞう、さんぞう」
 合間に繰りかえし呼ばれる自分の名を聞いているうちに、三蔵のなかから先程の驚きや戸惑いが徐々に消えていった。
 腕の中にすっぽりとおさまる華奢な体。自分よりも少し高い体温。
 人肌の温もりなど気持ち悪いだけだと思っていたのだが。
 泣きじゃくる悟空をただ不器用に抱きしめながら、三蔵は不思議な安らぎを感じていた。
 自分とは違う人間がそばにいることに。
 一人ではないことに。
 それは悟空も同じだったらしく、嗚咽はだんだんと小さくなっていった。
「……悟空?」
 ふと気付くと、腕の中で悟空が寝息をたてていた。泣き疲れて眠ってしまったようだ。だが、その寝顔は安らかだった。
 それを見て、三蔵の顔に微かに笑みが浮かんだ。
 だれも見ることのない笑み。
 たぶん本人も自覚はなかったろうが、それはとても優しげな笑みだった。
 法衣の袂で悟空の涙の跡をそっと拭ってやる。それから、寝台に寝かせようとして、悟空の手が法衣をしっかりと握っているのに気付いた。
 三蔵はしばらく考え、それから、悟空と一緒に寝台に横になった。
 信じられないことばかりしている。
 そう思うだけの頭はあったが、どうでもいいと思った。
 布団のなかはすぐに暖かくなり、目を閉じると、眠気が押し寄せてきた。


 そして、その日は朝までぐっすりと眠った。
 ふたりして。





 それから、三蔵は、出かけることになったときには、必ず悟空に行き先と帰る日を告げるようになった。
 突然、いなくなりはしないのだと、悟空がわかるように。
 置いてきゃしねぇよ。
 その言葉が真実であると証明するように。