いまはただその言葉だけを――


しんと静まり返った執務室に三蔵が筆を置く音がやけに大きく響いた。
控えていた若い僧がすっと進み出て、できたばかりの書類を受け取る。
一礼して立ち去るその姿を見送って、初めて三蔵は大きく息をついた。
忙しい一日だった。
最近、ずっとこんな調子だったが、今日はなかでも最悪といっていい程の忙しさだった。
三蔵は抽斗から煙草を取り出すと火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。
慣れた苦味が口のなかに広がり、そういえば今日は一服する暇もなかったな、とぼんやりと考えたところで、突然、なんの脈絡もなく、悟空はどうしているだろう、と思った。
こんな状態だったので、朝に顔を合わせたきり今日は一度もその姿を見ていない。
忙しいときでも、その辺をちょろちょろしているので目につくものなのだが。
特に最近は気候が良くなってきたので、咲いたばかりの花を摘んでは次から次へと執務室に持ち込んできていたので、なおさらだったはずなのに。
そういえば三蔵が忙しくなってから、悟空は一度も執務室には姿を現していない。
妙だな、と思うのとほぼ同時に、桜が咲いたら花見をしよう、と悟空と約束をしたのを不意に思い出した。
まだまだ蕾の固い頃に交わした約束。
そういえば忙しくなり始めたのは、もうすぐ桜の花も綻びようという頃だったので、いまはもうかなり咲いているのではないだろうか。
悟空は、三蔵が忙しくてそんな約束など忘れかけていることに気付いていて、それで必要以上に顔を合わせないようにしているのだろうか。
こんな忙しいときに思い出させて花見をすることになったら、余計に負担になると考えて。
「……ったく、バカ猿が」
三蔵は大きく息をついて煙を吐き出すと、低く呟いた。
もう悟空はとっくに寝てしまっているだろう。
明日起きたら、とりあえず悟空とふたり、姿を眩ますことにしよう。
さきほどの書類で、差し当たりの山は越えた。
まだまだしなければいけない仕事は山積みだったりもするが。
桜の方が優先だろう。
花の咲いている時期は短いのだから。
三蔵は立ち上がり執務室を後にしようとして、ふと足を止めた。
桜。
昔から、妙に心魅かれる花だった。
咲いているときは、三蔵法師と呼ばれるようになった頃の荒んだ生活をしていたころでさえ、その花に意識を向けていた。
そして、その花が真に特別なものとなったのは――。
あぁ、そうだ、と思い出す。
あのときもこんな風に忙しかったのだ。
三蔵は煙草を揉み消すと立ち上がった。



この日もいつかのときと同じように、月は明るく空で輝いていた。
が、質素倹約を旨とする寺院では陽が落ちた後は余計な灯はつけないので、月の光だけでは光源が足りずに、夜の庭はひっそりと闇に沈んでいた。
そんな静けさがたちこめるなかを、三蔵は明かりを手に歩いていた。
長年ここで過ごしてきたのである程度の位置関係は掴んでいるが、暗がりのなかを歩くのは至難の業なので、庭に出る前に明かりを用意した。
それで足もとを照らしつつ、庭の奥にと向かう。
だいぶ奥まったところまできたところで、ふわり、とすぐ目の前を小さな白いものが通り過ぎて行った。
桜の花びら。
気をつけて見ていた足元から目をあげれば、そこに桜の大木が佇んでいた。
月明かりに照らされて、微かに白く浮かびあがるさまは――。
相変わらずこの世のものでないように見える。
だが、桜は桜だ。
たとえどんな風に見えようとも、それ以上でもそれ以下でもない。
改めて近づこうとして。
「悟空」
木の下にほっそりとした影が立っているのに気がついた。
そこにその姿があることを特に驚かなかったが、いるかもしれない、と思っていたわけでない。
驚かなかったのは、そこに悟空がいることに違和感がなかったからだ。
じっと桜を見上げていた悟空は、名前を呼ばれて振り返った。
一瞬、その姿が幼いころの――髪の長いころの姿と重なった。
だが、それは幻。
いまは髪を短くした悟空が笑みを浮かべ、三蔵のもとへと走り寄ってきた。
「三蔵」
そのまま小動物が懐くように、三蔵に抱きつく。
これが猫であったのなら、ゴロゴロと喉を鳴らしているところだろう。
前にこの桜の木の前で抱きついてきたときは、もっと悲壮な顔をしていた。
そんな表情をされるよりは全然良いのだが、こんな風に懐いてくるところを見ていると、拾ってきたばかりのころとなにが変わったのだろう、と思う。
あれからもう何年も経っているというのに。
もうどのくらいたったのかなど、改めて数えてみなくてはわからないほどの年月を一緒に過ごしてきた。
西への旅を経験して、この子供は――もう子供とはいえなくなっていたが――体も心も成長して、最近はとみに大人っぽくなってきたとも思えるのに、本質的なところはなにひとつ変わっていない。
背が伸びて、もうすぐ目の前にある髪に軽く唇を押しあてると、くすぐったそうに悟空が笑った。
「三蔵に会えて、すっげぇ嬉しい」
「……いつも顔を突き合わせているだろうが」
「そういう意味じゃない。わかっているくせに」
少し拗ねたように悟空はいい、それから三蔵を見つめると、そっと触れるだけのキスを寄越してきた。
「でもこのとこ、ちゃんと顔を合わせてなかったね」
昔は放っておかれれば、捨てられるんじゃないかと怯えたような目でこちらを見ていたというのに。
いまは揺るぎない強さで、三蔵を見つめる。
微かに笑い、三蔵の方からも触れるだけのキスを贈る。
と、とても嬉しそうな笑みが浮かんだ。
その笑みが消えぬうちに、もう一度――今度は深く口づける。
絡めては解き、互いの口内と行き来する舌がたてる水音が夜の庭にやけに艶めかしく響く。
混ぜあうようにする唾液は甘く、それでいて頭を痺れさせるような刺激を含んでいる。
「……んっ」
空気を取り入れるために、少しだけ離れる隙間さえ惜しんで。
月明かりのなか、ふたりはキスを交わし合う。
「……ぅ、ん……?」
そうやって交わすキスの心地良さに素直に身を任せていた悟空だったが、やがて自分とは異なる体温を服の内側に――素肌に感じて、少し訝しげな声をあげた。
「……さん、ぞっ」
身を捩って三蔵から――三蔵の手から離れようとする。
が。
「や、ぁっ」
上着の裾をまくりあげて滑り込んできた手に、胸の辺りを撫でられて、思わず鼻に抜けるような甘い声が出る。
「なに、すんだよ、三蔵」
乱れる息を必死に整えて、悟空は抗議の声をあげる。
「誘ったのはお前だろう」
「は? なにいって――」
どうしてそういう話になるのかを問い質そうとするが、唇が塞がれてしまい、声が出せなくなる。
それどころか、キスの心地良さに流されてしまいそうになる。
だが。
ここは外だ。
いくら夜で、だれも来ないかもしれないが――。
「も、やめろって」
どうにか悟空はキスを振り解くと、両手を突っ張って三蔵から離れる。
が、それはほんの一瞬のことで。
手首を掴まれて引っ張られると、すぐに三蔵の腕のなかにと戻ってしまう。
「仕掛けてきたのはお前だろう、責任を持て」
「だから、なんだよ、それ」
三蔵の腕のなかに大人しく収まりつつも、悟空はむっとした声をあげる。
「いまさらやめられるわけねぇだろ」
だが、その耳に低い囁き声が響いて。
「……っ」
ピクリ、と悟空は反応してしまう。
狡い、と思う。
ほかのだれも――悟空以外は聞いたことがない甘い声で囁くなど。
軽く睨むように顔をあげるが、それを見計らったように。
「な……っ」
三蔵が腰を押しつけてきた。
悟空の顔が、瞬く間に赤く染まる。
そういう初々しさは何度体を重ねても決して失われることはなく。
三蔵は微かに満足げな笑みを浮かべると、自分の熱を伝染そうとでもいうかのように布越しに互いを触れ合わせた。
「……やっ」
悟空は小さな声を漏らす。
「ふ……ぅっ」
震えてくる体を、三蔵はさらに近くにと引き寄せた。



「も、ぉ」
桜の木の下に寝転がり、目の前に広がる花を見るとはなしに見ていたところ、胸に預けられていた頭が上がったのが分かった。
途端に桜ではなく、金色の瞳が目に飛び込んでくる。
ようやく呼吸は落ち着いたようだが、頬はまだ上気している。その滑らかな頬に、三蔵は手を伸ばして撫でるように触れた。
すると、怒ったような顔は嬉しそうなものにと変わり、そんな表情をしてしまったのが不本意なのか、すぐに嬉しそうな顔は、むっとした表情に変わる。
ころころと変わるわかりやすい表情に、三蔵は微かに笑みを浮かべ、軽く唇を触れ合わせた。
「……う」
と、悟空は絶句したようになり、ぽすんとまたその頭が胸に預けられた。
「ずりぃ、三蔵」
「なにがだ」
茶色の、見た目よりは柔らかな髪を指に絡ませて、三蔵がきく。
出会ったばかりのころほどの長さはないが、最近、髪が少し伸びてきた。
少年のように短く切っているときよりも大人っぽく見えるのは、そのせいかもしれない、と思う。
だが。
どんなに外見が変わろうとも――。
三蔵は悟空の髪を一房掬いあげると、唇を寄せた。
「うー」
すると、今度は唸るような声があがった。
「なんでそういうことすんだよっ」
「あ?」
拗ねたようにいわれ、三蔵は眉を軽くあげた。
「だってさ、こんな風に好き勝手されてるのに」
ぎゅっと悟空が抱きついてくる。
「幸せ、だなんて思っちゃうんだもん。なんでだろ」
その言葉に、三蔵は珍しくクスリと声に出して笑う。
途端にぶぅ、と膨れる悟空の頬を面白がるように三蔵は突いた。
「馬鹿にしてるわけじゃねぇよ。わかってんだろ?」
しばらく悟空は唇を尖らせていたが。
「うん。知ってる」
やがてそういうと、懐くように頬を擦り寄せた。
「俺さ、最近、よく考えるんだ。岩牢のこと」
そうしながらも、ぽつりと悟空は呟く。
ずっと前にした会話が思い出され、三蔵は眉間に皺を刻んだ。
まだ気にしているというのだろうか。幸せを感じることを。
だが、その皺に柔らかく唇が降りてきて、そういう話ではないのだとわかる。
「岩牢に俺がずっと閉じ込められていたのって、なんか途轍もないことをした罰じゃないかっていままで思ってたけど、本当はそうじゃなくてもしかしたら守られていたんじゃないのかな、って考えるようになった」
「守られる?」
「うーん。やっぱり、そういうのとはちょっと違うかな。俺、あそこに閉じ込められていたとき、だれも助けてくれる人なんかいないって思ってた。でも、本当はだれかが来てくれるのをずっと待っていた。それはつまり逆にいうとね、ずっとずっとあそこに閉じ込められていたおかげで、五百年間、同じ気持ちで待ってられたってことなんだ、その誰かを」
悟空の金色の瞳がまっすぐに三蔵に向けられる。
「――三蔵を」
「あ?」
なんだか胡散臭げに三蔵の眉が顰められたのを見て、今度はクスリと悟空が笑った。
「三蔵がそういう運命論みたいなの、信じてないって知ってるけど……。でも、俺が待っていたのって三蔵なんじゃないかなって思う。三蔵でなきゃ、意味がないから――ずっとずっと三蔵を待てるように、俺はあそこにいた」
悟空はもう一度、三蔵の胸に頬を擦り寄せた。
「俺、岩牢に閉じ込められて、生かされていることが罰なのかと思ってたけど――あんな風に辛い想いをずっとさせられることが罰なのかと思ってたけど、それも違うんじゃないかって思うようになった。ただ生きて――生きるために戦って、それでも生きて、生きて――。そういうことができるようになるために、あそこにいたのかもしれない。三蔵と一緒に生きるために。あの西への旅で、そんなことを教えてもらった気がする」
肩に三蔵の手がそっと回されて、抱きしめられるのを感じ、悟空は笑みを浮かべた。
「俺は幸せだよ。生きていて良かったと思う。生かしてくれて、良かったと思う」
そしてそういうと、軽く唇を触れ合わせ、それから三蔵のうえに乗り上げた。
悪戯っぽく悟空が笑う。
「……さっきまでしみじみとした話をしてたくせに、それかよ」
「いいじゃん。三蔵と繋がってるときが一番、幸せなんだし。それとも、もうできない? あれくらいでダメになっちゃうほど、ジジィになっちゃった?」
「ぬかせ。だいたい、さっきは外は嫌だとか騒いでたくせに」
「さっきはさっき、いまはいま」
小悪魔めいた表情を浮かべると、悟空は緩く、腹を擦り合わせるようにして動き出した。
「ったく」
ふっと溜息をつくように三蔵はいい、そして悟空にと手を伸ばした。
体を反転させるようにして、位置を入れ替える。
「途中で嫌だと泣いても、やめねぇぞ」
「嫌だ、なんていうわけないじゃん」
「上等だ」
笑みを見せる三蔵に、悟空も笑みを返した。
ひどく艶めかしい笑みを。



こうして触れ合えることが、とても幸せだと思う。
そんな想いを受け止めてくれるのは、目の前の綺麗な人と、その後ろに広がる満開の桜。
そして――。



幸せだよ、と。
悟空は声に出さずに呟いた。






――いまはただその言葉だけを伝えたい。