キィ、と微かに軋む音をさせて扉を開けた。
外の冷気が流れ込んでくるが、都会の夜の空気は、ここが繁華街から少し離れているとはいえ、爽やかとは到底言えるものではない。だが、別に新鮮な空気をもとめているわけではない。一人になれる場所がほしいだけ。
火のついていない煙草をくわえ、三蔵はそのまま扉を押し開けようとしたが、何かにぶつかった感触が返ってきた。
「あ、ごめんなさい」
少し驚いたような声が響き、扉の前から人が退く気配がした。
訝しげに眉をひそめ、三蔵は外にと足を踏み出した。
人気のない裏通りに続く、二、三段の階段を下りかけた少年の姿が目に入った。少年は途中で動きを止め、びっくりしたように大きく目を見開いて三蔵の顔を見上げた。
――似て、いる……?
その顔を見て驚いたのは三蔵も同じで、しばし二人は無言で見つめあうが、やがてふいっと三蔵が視線をそらした。
他人のそら似。そんなことがあるはずがない。
そう結論づけて、懐からライターを取り出すと煙草に火をつける。
「あの……」
ゆっくりと紫煙を吐き出していると、少年が躊躇うように声をかけてきた。三蔵はちらりとそちらを見やったが、すぐに興味がなさそうに視線を外した。
「俺、ここで休んでいて、それで……」
「別にここは俺の場所じゃない。お前が何をしようが、お前の勝手だ」
三蔵は面倒臭げにそう告げ、また煙草の煙を吸い込んだ。
目の端に、ストンと少年が階段に座るのが映った。こちらを見上げている視線を感じる。
それが賞賛のものであっても、他人の視線はあまりにも不快で、常であれば無意識のうちにシャットダウンしているのだが、なぜか少年の視線は感じる。そして不思議なことに、それは不快ではなかった。
内心、奇妙に感じつつも、特に突き詰めて考えるでもなく、やがて短くなった煙草を下に落とすと足で踏みつけた。
それからくるりと向きを変えて、また扉を開ける。
少年の視線が追ってくるのがわかったが、無言のまま振り返りもせずに扉を閉めた。
それが最初の出会い。
少年――悟空との。
Calling
扉の中は別世界。
毛足の長い絨毯、革張りのソファ、美しい模様を浮かべる滑らかな壁材、ふんだんに飾られた芳しい生花、磨き抜かれたクリスタルのグラス。
照明を抑えた室内は、派手ではなかったが豪奢な雰囲気を醸し出していた。
静かにスタンダードのジャズが流れている。
ここは、ホストクラブ『桃源郷』
表通りの喧騒からは一歩離れたところに位置し、目立つ看板も備え付けていない。
それでもここを訪れる客は多い。長引く不況など、ここには関係のない出来事のようだった。
そう。
ここは別世界。
その名『桃源郷』――俗世から離れた理想郷――の通り。
「金蝉、二番テーブルのお客さま、お待ちかねですよ」
短い休憩から帰るとすぐ、三蔵はホスト兼この店のマネージャーの八戒に声をかけられた。
「煙草一本吸う時間くらい待てねぇのかよ」
「それ、お客さまの前で言わないでくださいね」
忌々しげに呟いた三蔵に、にこにこと笑いながら八戒がやんわりと釘を刺す。
「大丈夫じゃねぇの? そういうの、好きそうなヤツばっかじゃん、三蔵の客って」
赤い長い髪を後ろでひとつにまとめた青年――悟浄が傍を通りがかり、口を挟んでくる。
「金蝉、です。ここでは本名で呼びかけないこと。鉄則ですよ」
「へぇへぇ」
悟浄は肩を竦めた。
「ま、確かにそういう物言いは好きそうな方ですけどね」
八戒はちらりと奥まったテーブル席に視線を送った。そこには、可愛らしい顔をした、いかにもお嬢さまといった感じの女性が一人、座っていた。
「大事に育てられて、無視されたことも冷たい言葉もかけられたこともないもんだから新鮮なんだろ」
「まぁ、それもこの顔だから、でしょうけどね」
二人はしげしげと三蔵の顔を眺めた。
淡い間接照明にも輝く金糸の髪、アメジストを思わせる紫の目。
よほど特殊な嗜好でない限り、誰もが美形――それも、かなりの美形と認める容姿。
「いつまで見てる」
三蔵は嫌そうに顔を歪めた。
「これだよ。まったく、これでウチのbPっていうんだから、世の中には物好きが多いよな」
ため息をつきつつ悟浄は言ったが、その様子はどこか面白そうだ。
「にしても、最近この時間になるとよく外に煙草を吸いに行くじゃん。そんなにストレスが溜まっているわけ? それとも外に何かあるのかな?」
三蔵はそれには答えず、嫌そうな顔をますます嫌そうにすると、ふいっとその場から歩み去った。
「おやおや」
笑いを含んだ悟浄の声が背中から追いかけてきたが、三蔵は取り合わずに黙殺した。
別に、どうということではない。
ただ煙草を吸いに外に行っているだけだ。
店の中では何をしていても客の目が追ってくるし、控え室でも同業者の目が追ってくる。綺麗さっぱり無視をしていても、やはり視線があると落ち着かない。
だから外に行っているだけ。
そこにあの少年がいるのは、ただの偶然――。
いや。
確かにその姿があればいい、とは思っていた。
だから、最初にあの少年と会った時間に合わせて、外に行くようにはしていた。
だが、会いたいというのとは少し違っていた。
ただあの少年の姿が、今はもう遠い記憶を呼び起こすから。
幸せな――人生のなかで一番幸せだった時間。
取り戻したい夢。
それだけだったのに。
「どうかしている……」
無意識のうちに三蔵は呟いていた。
「何?」
途端に甘ったるい声が返ってきた。隣に座っている女性が体ごと三蔵の方を向く。
「何でもない」
三蔵は素っ気なく答え、手を伸ばして琥珀色の液体が入ったグラスを取り上げて、女性とさり気なく距離をおいた。
「もう、冷たいんだから」
何事か話し始める女性に適当に相槌を打ちながら、三蔵は深く自分の思いに沈みこんだ。
先程、あの少年に会った。
最初に見かけたときから一か月近くが経っていたが、三蔵が外に出れないときとか、少年が姿を見せないときとかもあり、顔を合わせたのはたぶん両手であまるくらいだと思う。
特に言葉を交わすわけではない。
三蔵が煙草を吸っている間、少年が見つめている。
ただそれだけ。
それだけだった。先程までは。
「名前……」
いつものように吸殻を足元に落として、そのまま中に入ろうとした三蔵に、少年が声をかけてきた。
考えてみれば、最初のとき以来だ、少年の声を聞くのは。
振り返ると、意を決したような少年の顔が目に入った。
「俺、悟空っていいます。あなたの名前……」
真剣な光が目に浮かんでいる。あまりに真剣すぎて、悲壮感すら漂っているような気がする。
だから、だと思う。
「三蔵」
名を告げたのは。
ホストとして使っている名前でもなく、偽名でもなく、本名を告げたのは。
ふわりと少年が嬉しそうな笑みを浮かべた。
ただ名前を告げただけなのに。
その笑顔は花が綻ぶような、綺麗な笑みで。
後ろ髪をひかれるような思いを味わいながら、三蔵は店にと戻った。
ただその姿が、幸せな記憶と結びついているから。
それだけだった。
だが名前を知れば、その存在は急に現実味をおびてくる。
過去のものではなく、今、ここに存在しているものとして。
おぼろげな幼い姿と重ね合わせるのではなく、少年そのものとして。
悟空、という少年として。
名前には不思議な力があるのかもしれない。
他と区別するだけではなく。
その存在を、存在たらしめる――。
急速に自分のなかで大きくなっていく存在に、戸惑いを覚えずにいられない。
三蔵は手にしたグラスの中身を一気にあおった。
■ □ ■
それから四、五日が過ぎ、仕事が休みの日に、偶然、夜の街で三蔵は悟空を見かけた。
皮肉なことに意識した途端、会えない日が続いていた。といっても、特に態度を変えるつもりもなかったので、意識したからどうということはない……つもりでいた。
それなのに、ほとんど無意識のうちに三蔵は悟空の方に向かって歩き出した。
普段ならば絶対にとらない行動だ。
悟空が一人でいたのならば、たぶんこんなことはしなかっただろう。
だが、悟空は一人ではなく、サラリーマン風の男性と一緒だった。三十代くらいだろうか。親子にしては若すぎ、兄弟にしては離れすぎているような気がした。
声をかけようとしたわけではなく、後をついていって何かをしようと思ったわけではない。
というよりも、何も考えてはいなかった。
が、やがて二人が歩いていく方向に見当をつけた三蔵の目が険しくなった。
角をまがり、少し坂になった道を歩いていくと、そこは。
休憩いくらとか書かれた看板の踊る、いわゆるラブホテル街。
「ここでいいかい?」
雑踏から離れて少し静かになった周囲と、いつの間にかすぐ近くまで近づいていたことで、不意にはっきりと、悟空とともにいる男性の声が聞こえてきた。
「どこでもいいよ、別に」
「慣れてるね。ま、その方がラクでいいけど」
「泊まりにしてね」
「それは一晩中OKってこと?」
男性はどこか下卑た笑い声をあげ、悟空の肩にと手を回した。そして、その肩を押して入口にと向かおうとする。
その腕を三蔵は悟空から引き離した。
「何をする?!」
わめき声をあげる男性を無視して腕を放すと、三蔵は悟空の前に出た。悟空は驚愕の表情を浮かべ、凍りついたように動かない。
「おい。いきなり何なんだよ」
男性が三蔵の肩を掴んだ。三蔵は煩げに男性の手を払い、冷たい視線を投げかけた。
「いくら払った?」
「何?」
鼻白む男性に、三蔵は財布を取り出すと、中から四、五枚の札を抜いて押しつけた。
「どういう……」
「このまま警察に突き出されたくなかったら、それ持ってさっさと失せろ」
台詞の内容と三蔵の鋭い視線に、男性は気圧されたかのように一歩足を引くと、そのまま身を翻してその場を立ち去った。
改めて、三蔵は悟空に向き直った。目が合うと、視線を避けるかのように悟空が顔を俯けた。
「何でこんなことをしてる? 遊ぶ金が欲しいとか、そういうのか?」
悟空は答えない。
「ガキのうちは贅沢するな。さっさと家に帰れ」
「……帰れない」
ポツリと悟空は呟いた。
「今日はウチには帰れない。だから……」
何故帰れないのか。
俯いたままの悟空に問い質そうとして、三蔵は言葉を飲み込んだ。
何も聞かないでほしいと全身で訴えかけているように見えた。触れられたくない理由があるらしい。
そしてそれを押してまで踏み込む理由が三蔵にはなかった。
知り合い、ですらないのだから。
だが。
三蔵はため息をついた。
「来い」
そして短く言うと、悟空の腕をとり、半ば引きずるようにして歩き出した。
■ □ ■
「どうした?」
玄関のところで少し躊躇うような素振りを見せる悟空に、三蔵は声をかけた。
「あの……お邪魔、します……」
靴を脱いで、悟空は三蔵のあとをついていく。
ここは三蔵のマンション。
着くまで三蔵は悟空の腕を放さず、ほとんど拉致するかのようにここまで連れてきた。
「お前、メシは食ったのか?」
三蔵の問いに悟空は頷く。
「じゃ、風呂に入って、さっさと寝ちまえ」
その言葉に悟空の目が見開かれた。
「泊めてくれるの……?」
「不満か?」
ぶんぶんと首が横に振られる。
「ありがとう」
そして、悟空は笑みを見せた。いつかと同じ綺麗な笑みを。
「どうかしている……」
三蔵はソファに深々と身を沈めて呟いた。
そう呟くのは、悟空に会ってから二度目か。
悟空。
知っているのはその名だけ。
なのに、進んで自分のテリトリーに招き入れ、あまつさえ泊めるなど。
普段だったら考えられないこと。
しかも、ベッドまで明け渡して。
「ガキはさっさと寝ろ」
そう言って、風呂から出てきた悟空を寝室に押し込めた。
三蔵のパジャマは小柄な悟空には大きすぎ、本当に子供のように見えた。
三蔵はわきに置いた写真立てに手を伸ばした。
そこに写っているのは、穏やかな笑みを浮かべた銀髪の男性と二人の子供。一人はやや不機嫌そうな表情を浮かべる自分自身。そしてもう一人は、満面に笑みを浮かべた――。
「斉天……」
三蔵の口から呟き声が漏れる。
そして、もう一度写真立てを脇に伏せて置いた。
確かに似ている。
だが、違う。
三蔵はソファの背に頭を預けて上を向くと目を閉じた。
違うということはわかっている。
斉天はもういないのだから。
二人とも、三蔵の手の届かないところに行ってしまったのだから。
あの時、手を離さなければ――。
三蔵は沈み込む思考を止めようと目を開けてのろのろと身を起こすと、テーブルの上の新聞を取り上げた。
そして気付く。
眼鏡が寝室だったことに。
別になくても読めないわけではない。
だが、ないと落ち着かないのは事実。
眼鏡を取りに行くだけ。
誰に聞かせるわけでもないのに、言い訳じみたことを頭で考えながら、三蔵は立ち上がった。
そっと寝室に続く扉を開ける。
中の主はもう寝ているだろうから。
だが予想に反して、ベッドの上には膝を抱えて座っている姿。明かりを落とした部屋の中、その姿はまるで寄辺ない子供のように見えた。
「眠れないのか?」
廊下からの光を頼りにベッドに向かい、その脇に置かれた小卓から眼鏡を取り上げながら三蔵が聞く。
その言葉に、抱えた膝に乗せていた悟空の頭があがった。
「……ひとりだと、うまく眠れないんだ。怖くて」
そう呟き、それからはっとしたように口を手で押さえた。それから取ってつけたように笑って付け加える。
「あ、でも大丈夫。そのうち眠くなるから」
三蔵は手を伸ばして、悟空の手首を掴んだ。
不意に悟空がもとめているものがわかったような気がしたから。
「え……?」
驚いたような声をあげる悟空を引き寄せる。
腕の中で少し身を強張らせたのがわかったが、構わずに抱きしめた。すると、ふっと悟空の体から力が抜けていった。
腕の中にすっぽりと収まる華奢な体。
「お前が欲しいのは抱きしめてもらうことだろ。抱いてもらうことではなく」
そう囁くと、悟空が顔をあげた。
闇に慣れた目に、悟空の驚いたような表情が映った。だが、それはやがて笑みへと変わった。ふわりと嬉しそうな笑みに。
「うん。そうかもしれない」
そしてそう呟くと、まるで子猫のように頬をすりつけてきた。
暖かな、安らぎに似た感覚が満ちてくる。
それを与えようと思ったのに、逆に与えられている。
不思議に思うが、嫌ではない。
何もかもが返ってくるような気がした。優しい、幸せな時間が。
「欲しいときにいつでもこうしてやるから、もうあんなことはやめろ」
「うん」
三蔵の囁きに、腕の中で悟空は頷いた。
もう一度、三蔵はしっかりと悟空を抱きしめた。
■ □ ■
「なんかご機嫌?」
開店前の店の中。カウンターに寄りかかって煙草を吸う三蔵に、悟浄がひやかすような声をかけた。
「煩せぇ」
三蔵は嫌な顔をするが、その口調はいつになく柔らかい。
結局、何をするでもなく、朝まで悟空を抱きしめて眠った。
他人とひとつベッドに入ってセックスをしなかったことも、誰かを腕に抱いて朝を迎えたことも初めてだった。
目が覚めたとき、消えずにそこに悟空がいることに安堵を覚えた。
無防備な寝顔に笑みを誘われた。
目を覚ますと、悟空は自分の家にと帰っていった。
どうしてこのままここにいないのかと思い、そう思ったことに驚いた。
何一つ知らぬ他人なのに。
だが、二人で迎えた朝も、一緒に食べた朝食も、あまりにも自然だった。
――また来てもいい?
帰りがけに悟空が聞いてきた言葉を思い出した。
ふぅっと煙を吐き出しながら、三蔵はその唇に軽く笑みを刻んだ。
「変。お前、ぜってぇ、変だぞ」
何か良いことでもあったのか、とからかってやろうとした悟浄は、思いもかけぬ表情を見て、幾分怯えたような声をあげた。
こんなに機嫌の良い三蔵など、見たこともない。
もしかしたら、天変地異の前兆かも……。
半ば本気でそう思った。
「すみません。まだ開店前なのですが」
と、入口付近から八戒の声が聞こえてきた。
「いえ、あの、俺、客じゃなくて――」
続いて聞こえてきた声に、三蔵が反応する。煙草を灰皿に押しつけると入口に向かった。
「どうした?」
わざわざ出向いてきて訊く三蔵に、八戒が驚いたように目を見開いた。
何があろうと三蔵は自分から係わり合いになろうとすることはない。
それなのに。
「何でもないです。ただ、この少年が――」
説明しようとした八戒は、三蔵が自分ではなくその少年――悟空の方を見ているのに気付いて、更に驚いて言葉を切った。
「三蔵」
悟空がほっとしたような表情を浮かべた。
「ごめんなさい、仕事中に。でも、今日、あそこで会えるかわかんないし、家にはいつ帰ってくるかわかんないし……」
悟空はそう言いつつ、ジーパンのポケットを探り、皺くちゃになった千円札を何枚か取り出した。
「昨日のお金。でも、ごめん、今は、これしかないから。後の分は少しずつ返すから」
「別にいい」
差し出された札にちらりと目をやり、三蔵は短く答えた。
「でも……」
「返さなくてもいいから、もうあんなことはするな」
「しない。しないけど……」
悟空は三蔵の手を取り、その上に札を乗せた。
「でも、ちゃんと返す。これ、あんなことをして作ったお金じゃないから」
まっすぐに目を見て言う悟空に、三蔵は軽くため息をつくと、手の上の札を自分の懐にと入れた。
「ありがとう」
悟空はそう言い、それから少し躊躇うような素振りを見せた。
「あの、三蔵……」
何をして欲しいのか察し、三蔵は少し俯いている悟空の手をとると、自分の腕の中にと引き寄せた。
「……っつ!」
ぎゅっと抱きしめると、まるで痛がるような声が悟空から漏れた。
強すぎたのかと、三蔵は手を緩めた。
「ごめん、大丈夫。大丈夫だから、もう一回、ぎゅっとして」
懇願するかのような声が腕の中でした。
三蔵は、もう一度、今度はゆっくりと悟空を抱きしめる。
ほっと息をつく声が聞こえ、それからしばらくして、そっと悟空が離れていった。
「ありがとう」
また礼をいい、悟空は綺麗な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、仕事中に。えっと……また、ね」
はにかむようにそう言って、悟空は扉から出て行った。
見送る三蔵の顔に浮かぶのは穏やかな表情。
驚きのあまり、八戒も、そして様子を見に来た悟浄も、かける言葉を失ってその場に凍りついた。
■ □ ■
「えっと、不機嫌?」
客で賑わう店内。指名の客が切れたのか、カウンターに寄りかかって煙草をふかす三蔵を、まるでお伺いをたてるかのように悟浄が下から見上げた。
「煩せぇ」
答える三蔵の声はイラついている。
またね。
そう言ったはずなのに、悟空はあれから一度も姿を見せていない。
もう一週間がたとうとしていた。
どうかしている。
本当にどうかしている。
こんな風に振り回されるなど。
だが。
「チッ!」
忌々しげに舌打ちをし、三蔵はカウンターを離れた。
今日もいないだろう。
期待すれば失望する。だから、そんな風に思いつつ、三蔵は裏口の扉に手をかけた。
それでも、この時間になると行かずにはいられないという事実には目を瞑って。
扉を開ける。
広がるのは人気のない裏通り。
ふっと息を吐いた、そのとき。
「さんぞ……」
微かな声が聞こえた。
それは本当に声だったのか。
もしかしたら、声なき呼び声だったのかもしれない。
ぱっと顔を向けた先。路地の曲がり角のところで、まるで身を隠すようにしてこちらを窺っている悟空が驚いたように目を見開いたのが目に入った。
そちらに向け足を踏み出すと、悟空は一瞬、逃げ出そうとするかのように一歩後退ったが、三蔵の視線に射竦められたのか、動きを止めた。
「ごめんなさい……お金、まだ……」
三蔵が前に立つと、悟空は俯いて呟いた。
そんなことか。
ふっと、安堵のため息をついて三蔵は答えた。
「返さなくてもいいと言っただろうが」
悟空は顔をあげる。どことなく泣きそうな顔をしているように思えた。
「あの……ぎゅってしてくれる……? 嫌じゃなかったら……」
三蔵は手を伸ばして悟空を抱きしめた。
自分から望んだのにもかかわらず、一瞬、悟空の体が大きく震えた。だが、そのまま力を抜いて、体を預けてくる。
「お前が望むときにいつでもしてやる。そう約束しただろう」
「うん」
「金のことは気にするな。俺が勝手にやったことだ。だから……だから、好きなときに来い」
そう言いながら、それが適切な表現ではないことに三蔵は気付いていた。
会いたいのは。
来て欲しいのは、たぶん自分の方。
「うん。ありがとう」
顔をあげて悟空が微笑む。
「三蔵に会えて良かった。本当に良かった……」
裏口から、華やかな店内へ。
世界は一変する。
いや、世界が変わったのは、三蔵の中で、かもしれない。
悟空に会って、もう一度、あの安らかな時間を取り戻しつつあったから。
もしまた失うことになったら――。
不意に三蔵の頭の中にそんな考えがよぎった。
瞬時に否定する。そんなことは起こらない。考えすぎだと。
だが。
悟空。
その名しか知らない。
住んでいる場所も。電話番号も。何もわからない。
もしも悟空がこのまま姿を見せなくなったら、この広い世の中、探し出す術はあるのだろうか。
会えなくなるのならば、失うのと同じこと。
「金蝉、お客様がお待ちですよ」
すぐそばにいる八戒の声が遠くから聞こえてくるような気がした。
というよりも、言葉として耳に入っていなかった。
三蔵は、踵を返した。
「どうしたんです? ちょっと、待ってください……!」
八戒の声を背に、三蔵はほとんど走るように店を飛び出した。
裏口の扉を開ける。
辺りを見回すが、悟空の姿はない。
ここにいたのはほんの少し前。
まだこの辺にいるはずだ。
三蔵は走り出す。路地から路地へ。
どうして、こんなに必死に探しているのか。
わからない。
何故だろう。今になって突然、失われるかもしれないと考えるなんて。
今までのように、待っていればまた来るだろうに。
だが、儚げな笑み。
先程、去り際に悟空が見せた笑み。
まるでもう会えないのを予感しているかのような淋しげな笑み。
心臓が早鐘を打ち出した。
あの時と同じ感覚。
すべてが失われたあの時と。
そんなはずはない。そんなことは起こらない。そう否定しても――。
「お師匠さま……斉天……」
無意識のうちに三蔵の口から呟きが漏れた。
――見つけてあげてね。
と、不意に三蔵の脳裏に声が蘇った。
あれはいつのことだったろう。
いつもは明るく元気な斉天が、一人、震えて泣いていたことがあった。
誰もいないと言って。
ここにいるだろう、と声をかけると縋りついてきた。まるで溺れるものが藁を掴むように。
その後しばらくしてから、斉天は言った。
自分の中にもう一人、いつも泣いている子がいるのだと。
いつか見つけてあげてね、と。
「ならばどこにいるのか教えろ、斉天」
足を止めて、祈るようにきつく目を閉じた。
バカなことをしている。
理性はそう告げていた。
わかっている、そんなことは。
だが。
こっち。
声が聞こえたような気がした。
後になって考えても、本当に声が聞こえたのかどうかわからない。
だが、三蔵は走り出し、その先に。
悟空を見つけた。
■ □ ■
「まったく、いきなり飛び出して行ったと思ったら病院にいるなんて。何かあったのかと思って寿命が縮みましたよ」
「来いとは言ってない」
白い光の満ちる病室で、三蔵と八戒は言葉を戦わせる。が、さすがにベッドに眠る悟空を慮って、その声は潜められてはいる。
「これ」
八戒が紙袋を差し出す。
「パジャマとかタオルとかその他一式。あなた、そういうのには気が回らないでしょうから」
爽やかと言っても良いような八戒の笑顔を見て、三蔵は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ところで、二週間くらい入院が必要だと聞きましたが」
ふっと笑みを収め、真剣な表情になった八戒の言葉に三蔵は頷いた。
打撲と栄養失調。多少、内臓にも傷がついているらしい。
慢性的な暴力を振るわれて。
「虐待、ですか……。実の子に酷いことを」
「母親の連れ子だったそうだから、実の子というわけではないがな」
その母親は悟空が幼い頃に悟空を家に置いたまま出て行った。父親が暴力を振るい出したのはその直後からだったらしい。
病院に運び込んでから、警察だの福祉事務所の人間だのからいろいろと事情を聞かされた。
最近、父親は悟空から金を巻き上げていたらしい。
だが一週間くらい前にもうあげる金はないと言われ、暴力はエスカレートした。
三蔵は悟空の髪をそっと撫でた。
ひとりだと眠れないと言っていた。
あれは他人といるときは父親がいないから大丈夫だと思えるからだったのだろう。
そして、もうしない。
酷く殴られても、その約束を悟空は守ろうとした。
名前だけしか知らぬ相手と交わした約束を。
「これからどうなるのですか、この子」
ためらいがちに八戒が三蔵に言葉をかけた。
「引き取る」
きっぱりと短く三蔵が答えた。
「引き取るって、あなたが? そんなのできるわけないじゃないですか。血縁関係もないのに」
「血縁関係ならある。こいつの実の父親が俺の養父の遠縁にあたるからな。とういうことは血の繋がりはなくても俺とも遠縁だってことになるだろ」
調べはすぐについた。
斉天と悟空と。
似ているはずだった。双子の兄弟だったのだから。
生まれてすぐに両親は離婚し、斉天は父親に、悟空は母親に引き取られた。
父親はまもなく亡くなり、斉天は三蔵の養父・光明の元に引き取られた。
「本気ですか? 人、一人養うということはたいへんなことですよ」
「伊達や酔狂でこんなことは言わねぇよ」
三蔵の言葉に、ふっと八戒は笑みを浮かべた。
「変わりましたね、三蔵」
「別に」
素っ気なく三蔵は答えた。
しかし、言葉とは裏腹に、悟空の髪を撫で続ける手は優しい。
「ま、いいことです」
八戒はそう言うと、扉にと向かった。
「今日、明日はお休みにしておいてあげますよ。でも、明後日からはちゃんと来てくださいね。でないと、売り上げが落ちてオーナーもお冠になりますから」
クスリと笑って八戒は言い、病室から出て行った。
邪魔者もいなくなり、二人きりになった病室で。
三蔵は悟空の髪を撫でていた手を止めて、その顔を覗きこむように見つめた。
早く目を覚ますといい。
目を覚ましたら、一緒に暮らすのだと告げよう。
どんな反応を示すのかはわからない。
たぶん、そんなことはできないと言いだすだろう。
嫌だということではなく、遠慮して。
だが、手を引く気はない。
大切なものの手は離してはいけないのだ。どんなことをしても。
失ってからでは遅いのだから。
「悟空」
呼びかける。
早く目を覚ませ、と。
「悟空」
すると微かに睫毛が揺れた気がした。
三蔵はうっすらと笑みを浮かべた。
そして、また名を呼ぶ。
もう確かな存在として、自分の中に息づいているその名を。
「悟空――」