最初がカンジン。
 それはわかっていたはずなのに。


The Importance of the First Step


 家を出ようとして靴まで履いたところで、忘れ物に気づいた。
 アブナイ、アブナイ。
 今日、あれを忘れていったら、あとあとまで皆に何を言われるか。バイト先の円滑な人間関係のためにも、今思い出して良かった。
 引き返して、紙袋を手にしたところで、そういえばこの日はお返しをあげるだけでなくて、貰ってもいたな、とふと思った。

 なんでいきなりそんなことが頭に浮かんだのかわからない。
 あとから考えると虫の知らせだったのだろうか、と思う。
 しばらく思い出すこともなかった顔が脳裏に浮かんだ。

 最後に会ったのはもう5年も前だ。
 俺が中学3年で、向こうはまだ小学生だった。だけど頭に浮かぶのは、可愛らしい、というよりは、綺麗な顔。
 もともと整った顔立ちをしていた。赤ちゃんの頃からそうだった。
 母親似なんだと思う。とても綺麗で優しい人だった。だけど病弱で。
 家が隣同士だったから、しょっちゅうウチで預かって、ほとんど兄弟みたいにして育った。

 一番最初は、まだ向こうが保育園のときのこと。
 保育園に迎えに行くと――その頃はウチで預かっていたから、小学校の帰りに保育園に寄って、二人で家に帰るのが日課だった――突然、チョコレートが欲しいと言い出した。
 ウチに帰ればあるかな、と思っていたが、見つからなかった。
 別のおやつがあったが、その日はどうしてもチョコレートが欲しいと言ってきかなかった。
 普段は子供のくせにおやつにあまり興味がなくて、俺にくれることもしょっちゅうだったのに、珍しいこともあると思った。
 それにここまで執着するのも珍しかった。おもちゃでも何でも、他人が欲しいと言えばあっさりと手放すような子供だったのに。
 だから、なんとなくその願いを叶えてやりたくなった。
 ちょっとお兄ちゃんらしいことをしてみたかったというのもある。
 とにかく、それで小遣いを持って、二人でお菓子屋さんに行った。
 買えたのはちっちゃなチョコレート菓子だけだった。
 だけど、それを渡してやったときの顔が、俺でも滅多に見れないような嬉しそうな笑顔で。
 すごく印象に残った。

 その日がバレンタインデーだったと知ったのは、それから1か月後にお返しが来たとき。
 といっても、あんまり意味がわかってなくて、その行事の意味を正しく理解したのはしばらくしてからだったけど、そのあとも、俺がチョコレートをあげて、1か月後にお返しがくるという習慣は続いていた。
 もちろん『そういう意味』でのやりとりではなかった。
 単に、あげないと拗ねるから続けていただけ。
 拗ねたり不貞腐れたり、あとがたいへん。
 それでも、さすがに俺が中学になったときに、一度、男同士でそれはヘンだぞ、と言ってやめようとしたけど、義父まで巻き込んで大騒動になった。
 で、結局、その習慣は残った。

 寂しかったのかな、と思う。
 本当の家族にほとんど放っとかれて育ったようなものだし。
 そういうので『家族の愛情』とか『絆』とかを確認していたのだろう。

 今、手にしている紙袋には、ホワイトデーのお返しが入っている。
 バイト先の女の子とか、お客さんとか、バレンタインデーにチョコをくれた子達にあげる用。
 改めてそれが目に入って、胸が痛んだ。


 ――あんなことがなければ、たぶん、今でもあの習慣は続いていただろう。

 
 離れてから、最初の年のバレンタインデーのとき。
 こんな風に胸が痛んだ。
 2年目も。
 3年目も、少し。

 だけど、いつの間にかいろんなことに紛れて忘れていた。
 結構、薄情なものなんだな、と思う。
 離れた当初は、あんなに心配していたのに。

 でも忘れた方がいいのかもしれない。
 どうせもう会えないのだし。

 ふっと息をついた。
 なんだか感慨に耽ってしまった。
 急がないとバイトに遅れる。
 紙袋を掴んで玄関に引き返し、勢いよく扉を開けた。

 その向こうに。
 ――輝く金色があった。


 一瞬、心臓が止まったかと思った。
 
「なんで」

 今まさにちょうど考えていた人間がそこにいるのだろう。

 金色の髪も。
 深い紫の瞳も。
 すべて記憶に残るままだったが、顔立ちが少し変わっていた。
 綺麗なところはそのままに、大人っぽくなっていた。

 なんだが胸がいっぱいになって、かける言葉もなく立ちつくしていた。
 だけど。

「バカ面」

 開口一番がそれで、反射的にムッとする。
 そういえば、こういう物言いをする人間だった。
 最後に会ったときにはまだ小学生だったクセに。

「久しぶりに会ったっていうのに、それかよ。というか、なんで三蔵がここにいるの? よくわかったね」
「4月からこっちの高校に通うことになったんで挨拶に来た」
「挨拶って……。親父さんは?」
「関係ない」

 ぐっと袋を持った腕を掴まれた。
 断りもなく袋の中を確認する。

「……本命はいねぇようだな」
「は? 何の話だよ」

 そう言って、目線が少し上を向くことに気づく。

「三蔵、背ぇ伸びた?」
「成長期だ。まだまだ伸びるぞ」

 フフン、と人を小馬鹿にしたような笑みが浮かぶ。
 それにますますムッとしたところ、不意に掴まれたままの腕を引かれた。

「今日は挨拶のほかにお前にやるものがあって来たんだ」
「へ?」

 何を?
 と問う間もなかった。

 唇に柔らかな感触。
 これって――。

「確かにやったぞ。お返し」

 そう言って、踵を返す。
 呆然とその様子を見守った。


 ってゆーか、今のは何だ?
 お返し?
 お返しって……。

「お返しも何も、なんにもあげてないじゃんかっ!」

 そう叫んでもあとの祭り。
 輝く金色の髪は既に視界から消え失せていた。



 それから4月になって。
 毎週末のように、三蔵がアパートに入り浸るようになる。
 そして、やっぱり最初がカンジンだったんだ。
 そう後悔するような生活が始まることになる――。