For Your Happiness
〜Good Night〜
「今日から一人で寝る」
いきなり言われた言葉は、最初、意味をとれなかった。
というのは、ちっちゃな指がたどたどしくパジャマのボタンをかけようとしているのを、固唾を呑んで見守っていたから。
右手がうずうずとする。手を貸してあげたくて。
でも、それじゃ本人のためにならないから、一生懸命我慢していた。
そんなときに聞こえてきた声だったから、うっかり聞き流しそうになった。
「……さっき、何か言った、江?」
最後のボタンをかけ終わって、二人一緒にふぅっと息を吐き出した。江は満足そうに、俺はほっとして。
で、さっき何か言われたのを、ふと思い出して聞き返した。
一人で寝る。そんなことを言っていたような気がする。……一人で? まさか、ね。
「今日から一人で寝るって言った」
聞き間違いかと思ったけど、江は、きっぱりと言い放った。
「えぇ? 一人で? なんで?」
突然のことに、頭がぐるぐるとする。だって、昨日まで嫌がる素振も見せていなかったのに。一体何が気にくわなくなったんだろう。
「大きくなったら一人で寝るもんだって、朱泱が言ってた。おとーさんやおかーさんと一緒に寝てるのはおかしいって」
江が近所の子の名をあげる。
「朱泱は江よりも全然、お兄ちゃんだろうが」
「でも、俺はもう大きいもん。だから、一人で寝る」
って言っても。
「まだ無理だよ、江には」
わかってる、本当は。
自分から言い出してるんだから、とりあえずはやらせてみたらいいんだってことは。
寂しくなって、夜中に泣いたりするようだったら、そのときは行ってやればいい。
でも。
「夜、お化けとか出てきたらどうするの?」
「大丈夫」
間髪も入れずに江は答え、足元に目を落とした。
「うーさんがいるから」
がーん。
鈍器で後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。
『うーさん』とは、江のお気に入りのぬいぐるみ。
手触りの凄く良くて、実は俺が気に入って、江に買い与えたもの。
その『うーさん』に負けるとは。
なんか凄いショックだ。
俺がいなくても、江はうーさんがいれば大丈夫なんだろうか。
本当に何かあったとき、うーさんは何にもできないのに。
「……空が、怖いのか?」
がっくりと肩を落として座り込んでいたら、とことこと江が近づいてきた。
顔をあげると、うーさんを持った江が少し首をかしげてこちらを見ていた。
可愛い。
ホントに可愛い子だな、と、落ち込んだ気分も少し忘れる。
だって、真っ白い肌にキラキラと輝く金色の髪、深い紫の瞳。こんなに可愛い子は他にはいないと思う。
「お化け、空のが怖いのか?」
江がもう一度繰り返す。
思わずコクンと頷いた。
「じゃあ、しょーがない」
江が手を差し出す。
「空が怖いなら、一緒に寝てあげる。空はおとーさんでもおかーさんでもないし」
「うん」
差し出された手をとった。
えへへ。
嬉しくて、笑みが浮かんでくる。
「空は弱虫だな。でも、大丈夫。お化けが出ても、俺がやっつけるから」
「うん。よろしくな」
手を繋いで、寝室へと向かった。
□ ■ □
眠る江の髪をそっと撫でる。
柔らかな金の髪は、絹のような滑らかな手触りを伝える。
今日のやり取りで、こんな風に寝顔を見ていられるのも、あとわずかなんだと実感する。
いつか一人で寝られるようになって、いつか一人で何でもできるようになって、いつか――離れていくかもしれない。
でも、その方が幸せだろう。
離れて――普通の人として生きていく方が。
本当は、わかってる。
最初から、この手を取るべきではなかったのだと。
いくら強く呼ばれたとはいえ、そのまま誰か、信頼のおけそうな人に預けるべきだったのだと。
髪を撫でている方ではない手に視線を落とす。
しっかりと繋がれている手。
手を繋いでいれば怖くないないだろうと、江が言った。
一度繋いだこの手を、離せなかったのは、俺の方。
だけど。
いつか――。
いつか、君が望んだときには、この手を離そう。
君の幸せのために。
それまでは――。
「おやすみ、江」
囁いて、金糸の髪に顔を埋めた。