Initial Trigger


 低い話し声がして、ふと意識が浮上した。
 耳に心地よい低音。
 あ、あの人の声だ、と思った。
 目を開けると、自分が白いカーテンに取り囲まれた狭い空間にいるのがわかった。
 そうか、保健室で寝ていたんだ、とぼーっとした頭で考えた。
 話し声は続いている。
 カーテンに遮断されているし、もともとあまり大きい声じゃないし、寝起きの頭では何を話しているのかまではわからない。
 体を伸ばして、そっとカーテンを少しだけめくってみる。
 細い隙間に金色の光が見えた。
 太陽みたいだ、と思い、太陽に照らされたみたいに、ふわりと心が温かくなった。
「失礼します」
 と、突然、ノックの音がして、それから妙に華やいだ女の子たちの声がした。
「八戒先生、お誕生日、おめでとう」
 口々に言って、きゃっきゃっと笑う。
「あ、三――玄奘先生」
 八戒先生の声とともに、隙間から見えていた金色が視界から消えた。
 こういうの、苦手そうだから、さっさと立ち去ることにしたんだろう。
 ほんの少し寂しい気がしたが、でも、一瞬だけ、綺麗な横顔が見えて、ほっとため息をついた。
 それだけでなんだか満足してしまう。
「ありがとう、でも今、病人がいますからね」
 八戒先生がやんわりと言って、女生徒たちを保健室から外に出す気配がした。
 ごめんなさい、とか、またね、とかいう声が聞こえる。
 扉の閉まる音と同時に、カーテンを開けた。
「あ、悟空、起きちゃいました?」
 温和な笑みと柔らかな声。
 凄く安心できて、思わず笑みを浮かべた。
「ちょっと前から起きていました。放課後まで、すみません」
 授業中に顔色が悪いと言われて、保健室に行かされた。
 もうそれで授業は終わりだったから、帰れ、と言われるんじゃないかと思ったけど、少し寝ていきなさい、と言われた。
 このところ寝不足だったから、それがわかったのかもしれない。
 横になったら、すぐに眠りが訪れた。
 短い時間だったけど、熟睡できたような気がする。
 たぶん、いつでも優しい笑顔を浮かべている八戒先生が安心感を与えてくれたから。
 保健の先生って凄いな、と思った。
「まだ顔色が良くないですよ。もう少し寝ていきなさい」
「いえ、もう大丈夫です」
 ベッドから起き上がり、かけてあった上着に手を伸ばす。
「先生、今日、誕生日なんですか?」
 机の上にいくつかプレゼントが乗っていた。
「あぁ、さっきの聞こえていたんですね」
「おめでとうございます。知っていたら、プレゼント、用意したんですけど、すみません」
 割に保健室にはお世話になっているのだ。
 それにしても、女の子たちは凄いな。どうやってそういう情報を入手するんだろう。
「気にしないでください。さっき『おめでとう』って言ってくれたときの笑顔だけで充分ですよ」
 そういう八戒先生の方がにこにこと笑っている。
「それに気を使わなくても僕なら大丈夫ですから、やっぱりもう少し寝ていったほうが」
「いいえ、本当に大丈夫です」
 ネクタイを締めなおし、上着を着て、出て行こうと、立ち上がる。
 と、八戒先生が小さくため息をもらした。
「あまり頑張らなくてもいいんですよ」
 そう言われて、ちょっと驚く。
 でも、すぐに保健の先生なんだから、生徒の家庭の事情もわかっているんだ、とすぐに気づく。
「何かあったら、ここに逃げてきてもいいんですからね」
「……逃げる」
 言われて、そういう選択肢があるのに、初めて気がついた。
「そう、逃げてもいいんですよ」
 肯定されて、少し心が軽くなった。
 ちょっと肩の力も抜けて、足取りも軽く扉に向かう。
「――ありがとうございました、少し楽になりました」
 挨拶をして、扉を開ける。
「八戒先生って、凄いですね」
 気持ちを楽にしてくれる術を知っている。
 だからこその、保健の先生なんだろうけど。
「今度、ちゃんとプレゼント持ってきますね」
 そういって、保健室を後にした。

 逃げてもいいんだ。
 逃げても――。



 これは、俺が先生に拾われるちょっと前の話。