A Dime A Dozen


 先生の機嫌が悪い――。



 早く寝ろ。
 そう言われて、与えられた部屋で横になったんだけど。
 全然、眠れない。
 今日は、弁護士さんに会う日だった。迎えに行くから絶対、帰りに連絡しろって言われてその通りにした。
 でも、車の中で、途中から先生の機嫌が悪くなって、ずっとそのまま。
 ほとんど口をきいてくれなかった。
 それは家に着いてからも一緒で。
 返事をしてくれないかもしれないから、怖くて話かけることもできず、言われた通り部屋に引き取った。
 なにが悪かったんだろう。
 弁護士さんと相談して、できる限り借金は返して行こうって決めたことだろうか。
 今さらながらに、重たいものを拾っちゃったことに気づいたのだろうか。

 ――もう、ここにはいられないかもしれない。

 そう思ったら、涙が溢れ出してきた。
 おかしい、と思う。
 ずっと一緒にいられると、本当に信じていたわけではないのに。
 でも。
 心の奥底では、願っていた。
 ありえないことだとわかっていても。

 涙を振り払って、布団から起き上がった。
 どうせ眠れないし、それに。
 離れるなら早い方がいい。
 自分から言い出した方がいい。
 そうしたら。
 終わりにしよう、という言葉は聞かなくてすむから。
 ずっと一緒にいる。
 そう言ってくれた事実だけは残るから。
 ずるい、のはわかってる。
 自分をだましてるのも。
 でも、その言葉だけはずっと持っていたかった。
 もう一生言われることのない言葉だから。

 着替えてから部屋を出た。ダイニング・キッチンに向かう。
 でも、そこには先生はいなかった。
 ほとんど手つかずの夕食。
 ご飯も食べずに、どこに行っちゃったんだろう。
 引き返して、先生の部屋に向かう。
 閉じている扉。ちょっと緊張しつつ、ノックする。
 が、答えはない。

「先生?」

 呼びかけても、やっぱり答えはない。どうやら、部屋の中にはいないらしい。
 本当にどこに行っちゃったんだろう。
 あと、ひとつ部屋があるのは知ってるけど。
 そこはまだ入ったことのない部屋で。
 少し迷うが、部屋の前まで行く。

 扉の向こう。
 どうしてだかわからないけれど。
 先生がいるのがわかった。
 わかったら、なんだかノックができなくなった。

 怖い。

 この扉をノックしたら、本当に一人きりになってしまうから。
 今さらなのはわかってる。
 わかってるけれど。
 コツンと、扉に額を打ちつける。
 と。
 ちゃんと閉まっていなかったのだろう。微かな音とともに内側に扉が開く。
 びっくりして、一歩、後退る。

「……悟空?」

 中から、先生の声だけが聞こえた。
 少し開いただけの扉からは、互いの姿は見えない。
 覚悟を決めるために、ゆっくりと深呼吸をした。

「ごめんなさい。ノックしようとしたら、開いちゃった。……ちょっとだけいい?」

 そう声をかけて、中を覗く。
 そこは、アトリエだった。
 キャンパスとか絵の道具とかが雑多に置かれている。
 部屋の中心よりやや奥で、先生がキャンパスに向かっていた。
 何を描いているのかは、ここからではわからない。

「ごめんなさい、邪魔して」
「いや、いい」

 先生が、こっちに来いというように手をあげた。
 ので、そばに近づいていく。
 目の前に立つと腕を掴まれて、もっと近くにと引き寄せられた。

「どうした? 眠れないのか?」

 下から見上げる瞳は、さっきよりも穏やかだ。
 が、その瞳に怪訝そうな光が宿った。

「……泣いていたのか?」

 問いかけに驚いて、身を引く。
 ちゃんと拭いたし、涙の跡なんて、わからないはずなのに。
 なんだかこのまま見つめられていたら、なにもかもが暴かれそうな気がして、先生に背を向けた。

「あの……やっぱり、家に帰ろうと思って。いろいろとしなきゃいけないこともあるし、弁護士の先生と連絡取れるようにしとかないとならないから。」
「また、弁護士か……」

 低い声が聞こえる。

「若くて有能な弁護士の方が、しがない教師よりもいいか?」

 もう一度、腕を掴まれる。
 思わず息を呑むほどの強い、強い力。
 その強い力で引き戻される。

「だが、最初に言ったはずだ。俺が拾ったんだから、俺のものだと。お前の意志など関係ない、と」

 強い力。静かだけど激しい口調。怖いくらいの瞳。
 混乱する。

「なんで……?」
「なにがだ?」
「だって、いきなりそんなこと……。さっき、全然口をきいてくれなかったのに」
「そりゃ、怒っていたからな」
「怒って……?」
「帰りが遅いんで心配していたのに、呑気に弁護士の先生とメシを食べてきたなんて言われてみろ。心配してた分、怒りもするだろうが」

 夕飯。
 ダイニング・キッチンにあった、夕飯。
 よくよく思い返してみれば、二人分あった。
 先生はご飯の用意をして、待っていてくれた――?

「ごめん……ごめんなさい……」

 あぁ、と思った。目の前が暗くなる心地がした。
 せっかく待っててくれたのに、そんなこともわからないなんて。
 人の好意を踏みにじるような真似をして、気づかないなんて。
 これでは、嫌われても仕方ない。

「本当にごめんなさい」

 もう一緒にいる資格なんてない。
 離れようとするが、掴まれた手が外せない。

「別に……弁護士さんは関係ない。先生が意地を張る必要はない……だから」
「意地じゃねぇよ。離さないと言ってるだろうが」
「でも、怒ってるのに。我慢して、一緒にいることはない……」
「そりゃあ、怒ってはいるが、我慢とか、そういう話じゃねぇだろ……って、なんで、そこで泣くんだ、お前は」

 先生が、軽く驚いたような声を上げた。

 ダメだ、と思う。
 泣くなんて、ただ煩わしいだけだ。
 そう思うのに、涙は止まらない。

 ガタン、と椅子が音をたてた。
 先生が立ち上がったのがわかった。

「これじゃあ、まるで俺の方がいじめているみたいじゃねぇか。どうした?」
「ごめ……、ごめんなさい……。すぐ、行くから。もう、煩わせない、から」

 腕を押しやって、離れようとする。
 が。
 ふわりと抱きしめられた。

「落ち着け」

 先生の声が耳元でした。

「一体、どうした? なにをそんなに泣く? どうして離れようとする? 別に出て行けとは言ってねぇだろ?」
「でも、怒って……」
「あのな。怒るっていっても、心配していた反動だ。それくらいわかれよ」
「でも、待ってたのに。せっかく、待っててくれたのに。怒るのも、当たり前だし……嫌うのも……当たり前……」
「ちょっと、待て。嫌うって。なんで、そういう話になるんだ?」
「だって、待っててくれた……のに……」

 それだけで充分な理由になる。
 そう思うと、たまらない気持ちになり、ますます涙が溢れてきた。
 と。

「お前にとって、家で人が待っているということは特別なことなのか?」

 静かな声がした。
 そっと、包み込むように頬に手を添えられた。
 紫暗の瞳に、考え込むような光を宿して、先生が覗き込むようにこちらを見ていた。

「もしかして、家で人が待っているというのは初めてか?」

 先生の問いに、答えが出てこない。
 肯定すれば、同情されるだけだから。
 同情で、人を縛りつけておくことはできないから。

 と、大きなため息が聞こえてきた。

「ひとつ、約束だ。悟空」
「やく……そく……?」
「基本的に夕飯を家で食べること。だから、遅くなるようなら連絡をすること。じゃないと、心配するからな。わかったか?」
「……先……生……」
「わかったか、と聞いているんだが」

 まっすぐにこちらを見る目。
 その瞳の強さに、なんだか催眠術がかかったかのように頷いてしまう。

「よし。じゃあ、この話はここまで。俺も、もう怒っていないから、お前も、もう気にするな」
「先生、でも……」
「でも、はなしだ。いい加減、もう泣き止め」

 軽く、目の上に唇が降りてくる。

「これからはこれが当たり前になる。家で待っている人間がいることが。当たり前だからおろそかにしていいわけじゃねぇが、特別なことじゃない。だから、少しくらい遅くなったと言っても、出て行けという話にはならねぇよ」
「当たり前……?」
「そうだ。……もっとも、平日は帰ってくるのはお前の方が早いだろうから、その場合、逆にお前が家で待ってることになるが」
「俺が……待ってると、先生が帰ってくる……?」
「あぁ。俺も遅くなるときには、連絡する」

 誰かの帰りを待つ。
 そして、待っていれば、その人は必ず帰ってくる。
 それは――。

「おい、なんで余計に泣くんだ、お前は」

 パタパタと涙が零れて、床に落ちる。

「わ、わかんない……。なんで……?」

 悲しいわけじゃない。
 むしろ逆なのに。
 なんで、こんなに泣けてくるんだろう。

「別に悲しいわけじゃなくて……。そんなこと、全然ないのに……。嬉しい、って思ってるのに」

 誤解されたくなくて、一生懸命説明しようとするけど、なんか頭がよく回らなくて、上手い言葉が出てこない。
 そうこうしているうちにも、涙は溢れ続け。
 パニックになりそうになったところ。

「嬉しくても、涙は出てくるんだよ」

 ぎゅっと抱きしめられた。

「お前は、これから、当たり前のことを、当たり前だと知っていけるといいな」

 見上げると、紫暗の瞳に優しげな色が浮かんでいた。

「先生」

 それしか言えなくて、ただ、ぎゅっと抱きつき返した。



 家で人が待っていること。
 家で人を待つこと。

 それが当たり前になっても。

 このときに感じた気持ちだけは、いつまでも忘れないでいよう。
 そう思った。